モネの海
「多分ね、私はバチが当たったんだと思う」
「バチ?」
「バチが当たってタイムスリップなんてしちゃったの」
高速道路を降りたところで瑞菜が呟いた。
「こっちの時代に来る前、私はなにもかも、全部嫌になってたの」
それは僕に対してと言うよりは、自分の内側に語り掛けるような虚ろな喋り方だった。
「友達のことも、先生のことも、そしてお父さんのことも。全部大嫌いで。お父さんにも酷いこと言っちゃったの」
高熱を出す前の夜。
絵が上手な瑞菜はクラスの代表として絵画コンクールに出す絵を描いていたらしい。絵が得意な瑞菜は担任の先生はもちろんのこと、学年主任の先生にまで期待されていた。
ほぼ色を塗り終えたところでお風呂に行き、帰ってくると酒に酔ったお父さんが瑞菜の絵に色を塗っていたという。
「ちょっと勝手に何してるのよ!」
せっかく綺麗に青く塗った海が、緑色やらオレンジ色に塗り替えられていた。
「海っていうのはな、青とは限らないんだ」
「はぁ? 海は青いよ! 見れば分かるでしょ!」
「モネだってターナーだって海を青く描いてない」
「はあ!? それがどうしたのよ! バカじゃない!」
酒臭い父を怒鳴りつけた。家に帰ってくるといつも焼酎ばかりを飲んでいる父に、瑞菜は常に言いようのない嫌悪感が沸いたらしい。普段押し殺していたそれが、この時に一気に爆発してしまった。
「私はモネじゃない! お父さんって本当に最低! いっつも酔っぱらってて、訳わかんないし! 大っ嫌いっ!」
興奮した瑞菜はその絵を破り捨て、絵の具バケツの水をシングにぶちまける。
剣呑な気配を感じてお母さんが仲裁に入ってきた。
「瑞菜、そんなに怒らないの。それにほら、夕方に見る海は青くなくて赤いでしょ?」
宥めてくる母もまるで父が正しいかのような言い方で、更に怒りが煽られてしまった。
「なんでお母さんはお父さんなんかと結婚したのよ! 私はもっと普通のお父さんがよかった!」
言ってはいけない一言だった。怒られる。そう思ったらしい。
「でもお父さんは怒らなかった。寂しそうに笑って、なんにも言わずに家を出て行った。お母さんはすごく怒ってたけど、私も素直になれなくて謝れなかったの。きっとそのバチが当たったんだと思う」
そしてその翌日。瑞菜は十二年後の未来に飛ばされ、謝る前に父は死んでしまっていた。謝る機会を永遠になくしてしまった。
ただ父親を亡くしただけでも辛いのに、消えない後悔まで心に深く刻まれてしまった。
今の瑞菜の気持ちを考えれば、軽率な慰めなど口に出来ない。
「大丈夫。必ず戻れる。僕が必ず瑞菜を元の時代に戻してみせる。約束するから」
「うん。ありがとう」
なんの妙案もないが僕は誓った。もちろん気休めなんかじゃない。僕は本気だった。一度タイムスリップできたのだ。もう一度戻すことだって出来るはずだ。
そのヒントがこの瑞菜の故郷にある。そう信じてハンドルを強く握った。
瑞菜の実家付近に来て、一度車を路肩に停車する。
「やっぱりやめとく?」
沈んだ表情の瑞菜は黙ったまま俯き加減で首を振った。
実家に行き、父の位牌を見るのが辛いのだろう。その気持ちは分かる。急に父親が死んだと聞かされ、受け入れられる人はいない。
ましてや今の瑞菜は十二歳だ。受け止めきれるはずもなかった。
こんな展開になることは予め予測できていたから、実家には帰省することは伝えていない。
「大丈夫。行くよ」
「分かった。でも無理はしないでね」
「うん。ありがとう」
お義母さんには正直に話すと二人で決めていた。信じてもらえるかはわからないが、隠したままでは話も進まない。
ゆっくりと車を発進させ、残りの道のりを進む。瑞菜はスーパーや病院などを見る度に驚きや落胆を露わにしていた。
なかったものが出来ていたり、あったはずのものがなくなっていたり、今も健在だとしても見窄らしく色褪せていたり。
十二年の年月という残酷さが瑞菜を苛んでいた。
実家の駐車スペースに車を停める。玄関前で一度大きく息を吸った瑞菜は、意を決したようにインターフォンを押した。張り詰めすぎて切れそうな程に緊張しているのが伝わる横顔だった。
程なくしてドアが開き、瑞菜が知っているより十二年歳を重ねた母が出迎えてくれた。
「あら?」とお義母さんは少しびっくりした顔で僕と瑞菜の顔を交互に見て笑った。
「突然すいません、お義母さん。実は」
「瑞菜が小学六年生になってしまいました」と言いかけて躊躇してしまった。いきなりそんなことを言って信じてもらえるはずがない。なにか証明できることはないかと思考を巡らせる。
僕の隣で瑞菜は潤んだ瞳を震わせ、母を見詰めていた。
不思議そうにしていたお義母さんが突然息を飲んで驚いた顔に変わった。その表情はまるで本物のサンタクロースを見たような、信じられないものを目にした驚きの表情だった。
「あなた、まさか」
母の震える声に、瑞菜は戸惑った顔を上げた。
「あなたは小学六年生の、瑞菜なの!?」
僕が説明するより早く、お義母さんは少女が瑞菜であることに気付いた。しかも小学六年生ということまで言い当てていた。
「えっ……お母さん、わかるの?」
「当たり前でしょ。私を誰だと思ってるの? あなたの母親よ」
「お、お母さんっ!!」
瑞菜は母に抱きついて声を上げて泣いた。気丈に振る舞っていたが、母の顔を見てそれが限界に達したようだった。
お義母さんはその肩を抱き、ポンポンと優しく叩いていた。母の愛は何よりも強いと聞いていたが、超常現象を瞬時に受け入れられるほど強いとは想像以上だった。
「ほらほら。そんなに泣かないの」
お義母さんは瑞菜をあやしながら、僕の顔を見上げて説明を求めるように首を傾げて微笑んでいた。
「お母さん、あのねっ! 私ねっ! あのね! いきなり、気が付いたら、あのね! 謝らないとっ……お父さんに、謝らないとっ!」
瑞菜はしゃくり上げながら必死に訴えようとしていた。でも感情と嗚咽が抑えきれず、まるで要領を得ない言葉しか出せていなかった。
なにも説明する前から気付いたお義母さんに驚かされたが、衝撃的な展開はそれで終わりではなかった。
「ああ、そういうことか」
お義母さんは笑いながら僕を見た。
「みっちぃ」
「えっ!?」
突然お義母さんは瑞菜だけが知るそのあだ名で僕を呼んだ。
しかし瑞菜の方はなんのことだか分からない様子で首を傾げる。十二歳の瑞菜は僕に自らがつけたあだ名など知らないから当たり前だ。
「みっちぃ」とは瑞菜だけが使う僕のあだ名だ。彼女に言わせるとカタカナでなくひらがなで発音することがポイントらしい。
「どうして、その呼び名を……」
「道彦さんだから、『みっちぃ』。そうか、そうだったのね」
「一体どういうことですか……?」
なぜその呼び名をお義母さんが知っているのか。僕たち三人は互いに違う種類の驚きに包まれていた。