チョコレート味の鎮痛剤
考えてみれば僕と瑞菜はそもそも十歳の年の差がある。つまり瑞菜が十二歳だった頃、僕は二十二歳だったわけだ。それが十二歳と三十四歳になっただけだ。
そう割り切ろうと思ったものの、さすがにそれは無理がありすぎた。むしろ突然小学六年生の娘が出来たと思う方が自然だろう。
これまで通りの仲良し夫婦というわけにはいかないけど、一緒に暮らすことくらいは無理なことではないはずだ。
Eテレやアニメを観ることも、カレーが甘口なのも、お風呂上がりはきちんとパジャマを着てから戻るのも、リビングに布団を敷いて別々に寝ることも、いずれ慣れてくるかもしれない。
食材を切って出来合いのスープで煮込んだだけのよせ鍋を食べながらそんなことを考えていた。
「あの」
瑞菜は意を決した顔をして箸を置く。見るとほとんど食べていなかった。
「なに?」
「私の両親って、この時代にもいるんだよね?」
僕はすぐに答えず、上手く飲み込めそうもない豚ばら肉をお茶で流してから彼女の目を見た。
どう告げるべきか、瞬時には思いつかない。
返答に窮した数秒で室内の空気が急速に重苦しいものに変わっていた。
「明日、瑞菜の実家に行ってみようか? 週末だから僕の仕事も休みだよ」
質問と若干ズレた答えを返す。聡い瑞菜はそれで少し勘付いたのかもしれない。あるいは僕の表情があまりにも強張っていたのかもしれない。瑞菜は無言で首を横に振る。
それは帰省したくない意思表示というより、質問そのものをなかったことにしたい仕草に見えた。
伝えるべきか迷った。しかし隠していても、いつかは知ることになるだろう。
「お義父さんは、去年亡くなったんだ」
「うそっ……」
見開いた瑞菜の瞳からポロッと涙がこぼれ落ちた。一粒落ちた後は、もう止まらなかった。涙は次から次へと滴り落ち、表情はそれに追いつく恰好で歪んでいった。
「嘘! 嘘つき! そんなわけない……お父さんが死ぬなんて、絶対にそんなことない! 嘘つき! 大嫌い!」
「瑞菜」
瑞菜は僕をするりとかわし、泣きながら寝室へと駆け込んで行ってしまった。
やはりまだそれを伝えるのは早過ぎた。今の瑞菜はまだ小学六年生だ。
理由も原因も経緯も分からないまま、ただ父親が死んだと言われて受け入れられるはずがない。
「ごめん、瑞菜」
閉ざされた扉に声を掛けても返事はなかった。
ドアは鍵がない構造なので引けば簡単に開けられる。しかしこのドアを開いてしまった瞬間、逆に瑞菜の心は閉じて鍵をかけられてしまう気がした。
策のない僕はドアにもたれる格好で床に座った。冷蔵庫の微かな呻き声に混じって、瑞菜の圧し殺した泣き声が聞こえる。
今の彼女にとっては見ず知らずの僕が慰めの言葉なんてかけるより、ここは思う存分泣かせるしかない。
十二年の歳月は、大人にとっては長いようで短い。でも十二歳の少女には残酷すぎる長さだった。
翌朝。
気配を感じて目覚めると、見慣れてきた二つ括りのお下げ髪の瑞菜が僕を見下ろしていた。今日の服装は昨日買ってきた薄手のニットに赤と黒のタータンチェックのスカートを合わせ、白いタイツを穿くという秋らしい恰好だ。
でも明るい服装に似合わず、その目は昨夜の彼女の絶望の残り香のように少し腫れぼったかった。
「おはよう」
声を掛けるとほとんど唇の動きだけで「おはよう」と返してきた。返事の声など聞こえなくても、自分から部屋を出てきてくれただけで今は充分だ。
時計を見るとまだ六時半だった。
「ずいぶん早起きだね」
「今日、私の家に行くんでしょ」
震えた声には決意が感じられた。怖いけれど逃げないという、瑞菜らしい決意だ。
「そうだね。早く出発しないと遅くなるもんね」
「ここからどれくらいかかるの?」
「渋滞してなければ高速使って車で二時間弱。案外近いよ」
「そうなんだ」
瑞菜の脚は少し震えていた。本当は行きたくないのだろう。行けば嫌でも父の死を受け入れなければならない。
「別に今日じゃなくてもいいよ。天気もそんなによくないし、また次の休みの日でも」
「今日がいい」
そう言い切ると支度のためか、瑞菜は寝室へと戻っていった。
嫌なことから逃げずに向き合う。その性格は少女時代から培われたものだったようだ。
道中のコンビニで鎮痛剤代わりに大量に購入したお菓子にも、瑞菜はほとんど手をつけてくれなかった。一言も喋らず、視線は窓の外ばかりに向いていた。まるでそのどこかに自分が知り、変わらない何かを探すかのように、懸命に車窓を眺めていた。
会話のない車内を埋めるようにスマホに入っていた古い曲をかけると、それを聴いていた十二、三年前のことを思い出した。音楽というのは簡易型のタイムマシンのように、聴いていた当時のことを思い出させてくれる。
耳馴染みのある曲を聴けば瑞菜の気も晴れるかもと安直に考えていた。しかしそれは逆効果だったらしく、思い出すことでよけい辛くなってしまったらしい。彼女の瞳が潤み出してきていたので慌てて音楽を消した。
「お父さんは、どうして死んじゃったの?」
いくつかのトンネルを越えて緑の中を走り始めた頃、瑞菜はそう訊いてきた。
どこから話すべきなのか迷った時間を僕の躊躇いと解釈したのか、瑞菜は平然を装った。
「大丈夫だから、教えて。なんで死んじゃったのか、理由を知っておきたいから」
「お義父さんは、病気で亡くなったんだ」
覚悟を決めたつもりだったのだろうが、僕が説明をしていくと瑞菜は表情を曇らせていった。僕はそれを見ないように、淡々とその経緯を説明していく。
お義父さんの僕に対する第一印象はあまりいいものではなかった。
頼りなさそうとか、覇気がないとか、そういう理由ではなかった。それらは百歩譲って大目にみても、年齢差が十歳もあるというところが引っ掛かったらしい。
はじめて挨拶に言ったときにはすぐに追い返されてしまった。
それでもめげずに二度三度と押し掛けているうちに態度も少しづつ軟化してきてくれた。魚釣りと同じでゆっくりと根気よく攻め、相手が諦めて弱っていくのを待つしかない。失礼ながらそんな印象を抱きながら挨拶を続けていた。
とはいえ結婚に反対という態度はそう簡単に変わらない。かなりの長期戦になることは覚悟していた。
ところが事態は急変する。
体調がおかしいと検査に行ったお義父さんに、癌が見付かった。既にあちこちに転移をしており、深刻な状況だった。
お義父さんがそんな状況なのに結婚は出来ない。僕たちはそう話し合い、結婚のことは一旦先送りすることとした。
だが──
「道彦君、瑞菜を嫁にもらってくれ」
お見舞いに行った僕に、お義父さんは突然そう言ってきた。
「どうせ俺の病気に気遣って延期とか考えてるんだろ? そんなこと気にしなくていい」
笑ってるのか怒っているのかよく分からない顔でそう言ってくれた。自分が死んだ後、父が最期まで反対していたから結婚を諦めるなんてことになったら瑞菜に申し訳ない。そう思ってのことらしいとお義母さんが教えてくれた。
そこから瑞菜と僕はお義父さんには内緒で急いで結婚式の準備をした。
「弱った体で一緒にバージンロードを歩いてくれたのは、私の宝物の想い出なの」
瑞菜はお葬式の時にそう話していた。お義母さんも、親族の人も、僕ですら早過ぎるお義父さんの死に泣いていたのに、瑞菜だけは気丈に涙を見せなかった。
もちろん悲しんではいたが、その死を受け入れられていた。普段は子供っぽかったり、頼りないところもある妻の、意外な一面を見た気がしたのを覚えている。
「優しくて、強くて、素敵な人だった」
瑞菜は助手席で目を真っ赤に充血させていた。ダッシュボードにあるボックスティッシュを渡すと、音を立てないように鼻をかんていた。
「絶対に元の世界に戻らないと」
落ち着きを取り戻してから瑞菜は引き締まった口調で言った。
「帰ってお父さんに言う。絶対に癌検診に行ってって」
「うん、そうだね。頼むよ。少しきつく怒るくらいの言い方じゃないと駄目だよ」
そう言いつつも、未来を変えてしまっていいのだろうかと少し不安に駆られた。
お義父さんのガンが早期発見されることで歴史が大きく変わることはないだろう。でも小さくは変わるかもしれない。
たとえば僕と瑞菜が出会い、恋をして、結婚をする未来。
お義父さんの病が早く見つかるということが原因でその未来が潰える可能性もある。
不穏な気持ちを薙ぎ払うように、僕はアクセルを踏む足に力を籠めていた。