瑞菜の人生
すっかり和やかな空気になり、萌莉さんもよく笑った。
思い返してみれば僕との会話中に笑う萌莉さんを見たのははじめてかもしれない。これまで彼女は僕の前ではいつも険しい顔をしていた。
十二歳の瑞菜はそんな萌莉さんの心の氷を溶かしてくれた。
振り子時計が夜十時をぼーんぼーんという音で報せ、萌莉さんは落ち着けていた腰を上げる。
「萌莉、今日はありがとうね」
玄関先で瑞菜がそうお礼を述べた。
「ううん。私の方こそありがとう」
萌莉さんはマフラーを巻きながら微笑む。
「またね、萌莉」
「うん。また明日」
瑞菜は萌莉さんに向かって両手を大きく広げる。
「えっ? なに?」
「ハグして。いっつもしてるでしょ。ギュッて」
「いつもって。子供の頃の話でしょ、それ」
「今の私、子供の頃なんですけど?」
「もうっ……都合のいい時だけ甘えて」
萌莉さんは照れ臭そうに眉を歪め、ぎゅっと瑞菜を抱きしめた。
大人と子供なのに、違和感なく親友同士の抱擁に見えるのが不思議だ。
「萌莉、おっぱい大きくなったね。さすが大人!」
「ちょっと! 変なこと言わないでよ!」
萌莉さんは慌てて瑞菜を引き剥がし、赤い顔で睨みつける。
「だって六年生の頃、ぺったんこだったでしょ。『このまま成長しなかったらどうしよう』とかうるうる目だったくせに」
「やめてよね、もうっ! 四ツ葉さんもいるのに……」
瑞菜のせいでなぜか僕まで軽蔑の眼差しを向けられてしまった。
「ていうか瑞菜はもうちょっと危機感持とうよ? 元の時代に帰れないっていう状況は何にも変わってないんだよ?」
「はぁい。ごめんなさい」
瑞菜は口先だけで謝る見本のような返事をして笑う。
確かに僕の目から見ても瑞菜はまるで焦っている様子がなかった。深刻に受け止めたからどうなるというものではないが、それにしても今の瑞菜はリラックスしすぎている。
「じゃあ失礼します。チーズケーキ、ありがとうございました。美味しかったです」
「いえいえ。あんなものでよければいつでも」
萌莉さんはぽそぽそっとそう告げて会釈をした。
瑞菜が十二歳になって大変なことばかりだけれど、萌莉さんと少しだけ分かり合えたのは収穫だ。
彼女が帰ったあと、僕は意を決して瑞菜に告げた。
「少し部屋で話をしない?」
「うん。いいよ」
緊張した僕の声に何かを感じ取ったのか、瑞菜はあれこれ訊かず頷いてくれた。
瑞菜の部屋に移動するといつの間にか壁にはドラマ『まなゆき』の主演俳優のポスターが貼られていた。彼が出演しているチョコレートのCMのポスターらしく、白く並びのいい歯でパキッと板チョコを囓ったポーズだ。
思わず凝視してしまうと瑞菜は「なんかチョコレート買ったらポスター貰ったから貼ってるの」と照れを不機嫌で隠すように言い捨てた。
クッションの上に座ると瑞菜は少し離れたベッドに腰掛ける。
瑞菜はくるぶし丈のソックスを穿いた足をモジモジと擦り合わせ、落ち着きのなさを表していた。
「あの」「実は」
僕たちの声は出会い頭に衝突してしまい、互いにその先の言葉を慌てて引っ込めた。
「四ツ葉さんからどうぞ」
「瑞菜から言いなよ」
「いいから。先に言って。なんか話があるって言ってたでしょ」
瑞菜に両手でどうぞどうぞと促され、仕方なく僕から切り出した。
「じゃあ、まあ、僕から。取り敢えず今のところ瑞菜が元の時代に戻る方法は見つかっていない」
「うん」
「きっと帰れるとは思うけど、もしかしたらこのままかもしれないよね」
瑞菜の表情を確認しながらゆっくりと話す。まだ今は落ち着いて表情を変えずに僕の話に小さく頷いてくれている。
「でもそれがいつなのか、分からない。明日かもしれないし、来月かもしれない。もしかしたらあと数年後なのかもしれない」
「そうだね」
瑞菜は膝の上に置いた手でキュッとスカートを握る。その握る強さを想像しながら僕は続けた。
「でも心配することはない。この時代にいる限り、僕は瑞菜をサポートする。たとえ何年先であっても、元の時代に戻れるその日まで、僕は瑞菜の力になるよ」
「ありがとう」
「それまではちゃんと勉強もしないとね」
「えー? それはめんどい」
瑞菜は「いーっ」と歯を見せて苦笑いを浮かべる。
「駄目だよ。元の時代に戻ったとき、みんなについていけなかったら大変だろ」
「はぁい」
不服げに従う姿も相変わらず愛らしい。
まだ恋をしたこともない僕の妻は、これから色んな『はじめて』を経験していく。それを見守るのが僕の役目だ。
最愛の人の成長を、一番近くで見守る。こんなに光栄なことはない。
「小学校や中学校は難しいけれど高校は定時制のところなら入れる。大学だって、瑞菜が行きたいなら行けばいい」
その提案に瑞菜は静かに目を伏せた。そんなに何年も戻れないことを想像すれば気分が沈むのも当然だろう。瑞菜が辛くなることを言うのは僕としても心苦しい。
しかし嫌なことに目を背けてばかりもいられない。辛いことを未来の自分に背負わせぜ、今の自分が受け止める。
「戻れないならこの時代ですればいい。戻るまでのその場しのぎをせず、今を生きることも考えないと」
残酷かもしれない。十二歳には受け止めきれないかもしれない。でもその可能性も考えなければ、ただ時は過ぎるだけだ。
瑞菜は何か反論しようとしたのか、口を開きかけた。しかし結局は何も言わず再びその口を閉じる。
「この時代もそんなに悪くない。確かに色々不安もあるとは思うけど、こうなってしまったからには割り切って生きるしかない」
ここから先は、頭に思い描いていたことを言葉に変える機械のように話す。
「高校に行き、大学に行けば新しい出会いもある。こちらの時代の友達も出来るだろう。そのうち恋をするかもしれない」
瑞菜は驚いたように顔を上げる。彼女が何か言う前に、畳み込むように僕は早口になった。
「好きな人が出来たらならば恋をすればいい。それが自然な流れだ。勉強も、恋もして、学校を卒業したら働くのもいい。そして、いつか誰かと結婚してもいいんだ」
「でもっ」
「心配はいらない。確かに戸籍上は一度離婚したことにもなるだろうし、年齢も相手よりずいぶん年上になるだろうけど。それは僕が説明する。瑞菜はタイムスリップしたから身体の年齢と戸籍の年齢が違うと」
瑞菜は青ざめた顔で僕を見て固まっていた。躊躇いを振り切るように、僕は下手くそな作り笑いを浮かべた。どうしても言葉は早口になってしまう。
「そりゃ簡単には信じられないだろうけど、でも大丈夫だ。理解して貰えるまで何回も説明する。瑞菜が選ぶ男だ。たとえ理解できなくても受け止めてくれるよ。それでも駄目なら僕が懲らしめてやる。だから瑞菜はなんにも心配しなくていいんだ」
ハハハと付け加えたエフェクトのような僕の笑い声だけが部屋を虚しく漂い消えた。
油断すると声が湿ってしまいそうで、僕は痛いくらい強く唇を噛んだ。
「でも本音を言えば、僕は瑞菜に戻ってきて欲しい。二十四歳の、僕の愛する妻の、瑞菜に戻ってきて貰いたいんだ」
「四ツ葉さん……」
瑞菜がベッドから下りて僕の隣に座った。その温もりが、漂う香りが、当たり前だけど妻のそれとそっくりで、慌てて上を見上げてこみ上げてきたものをこぼさないように受け止めた。
「でもそれが無理なら、せめて子供になってしまった瑞菜が幸せに暮らせるようにしないといけない。それがせめてもの、愛する妻に僕が出来ることだから」
隠しようもない雫が頬を伝ってしまった。瑞菜は黙ってティッシュを数枚僕に渡してくれる。
「あれ? おかしいな。おっさんになると涙腺が緩くなるって言うけど本当なんだね。かっこ悪いなぁ」
「ううん……カッコ悪くなんて、ないよ」
瑞菜は追加のティッシュを渡しながら慰めてくれた。
「二十四歳の私は幸せだね。優しい旦那さんに、こんなに沢山愛して貰えてるなんて」
しばらく俯いていた瑞菜は、意を決したように立ち上がって机の引き出しを開けた。




