君の暮らす街
「どうすれば瑞菜が元の小学六年生に戻れるか、一緒に考えよう」
「うん。ありがとう、ございます」
辿々しい敬語を使い、自信なさげに頷く。
いきなり未来の世界に来て、そして帰り方も見当がつかない状況だ。不安にならない方がおかしい。
こんな時こそ僕が支えにならなければいけない。
「心配しないで。大丈夫。なんとかなるよ」
「はい」
「そんなに怯えないで。敬語も使わなくていいから」
夫婦なんだし、という一言は心の中だけで付け加えた。
「ひとつ確認だけど」と瑞菜は疑り深い目で僕を見る。
「なに?」
「おじさん、私を誘拐したわけじゃないですよね?」
飲みかけていたコーヒーが気管に入り咽せてしまった。
「そんなわけないだろ」
「まあ、そうだよね。ここ、本当に未来みたいだし」
確かに瑞菜からしてみればタイムスリップより誘拐の方が現実的な発想だろう。僕がドッキリかと思ったように、瑞菜の方も現実的な線を考えた結果だ。
「瑞菜はこの時代にやって来る直前はどこで何をしていたの?」
まず状況を整理することが大切だと判断し、瑞菜が未来へとやって来る前の経緯を確認する。
「修学旅行の前の日だったんだけど、急に熱が出て、頭が痛くなったの」
「それで? 発熱してきて寝ていたら、そのままこの時代にタイムスリップしてきたってわけ?」
瑞菜は二つ括りの髪を小さく揺らしてこくんと頷く。
「頭が割れるように痛くなって、目の前が真っ白になったの。で、気付いたらこの部屋に……」
「そっか。ちなみに昨日の夜のことは覚えている? この部屋にやって来てからのこと」
「それはもちろん。急に知らない部屋に来たので驚いて。すぐに帰らなくちゃって思って家の外に出たんだけど、全く知らない景色で。怖くなってすぐにこの部屋に戻って来たの」
「なるほど。それはびっくりしちゃっただろうね」
どうやら昨日の記憶は鮮明に残っているらしい。記憶喪失の症状に詳しいわけではないが、昨日の夜のことははっきりと覚えているのだから単純に記憶が消えてしまう症状ではないのだろう。
そもそも記憶喪失で体まで若返るはずがない。
「それで玄関に飾ってあった結婚式の写真が自分に似ているのに気付いて。悪いかなって思いながらも、アルバムを見させてもらったの」
昨日帰った時に部屋中にアルバムが散乱していたのはそのせいだったのかと頷く。
それなりに落ち着いてるし、説明も昨日と同じだから混乱して記憶があやふやになっている訳でもなさそうだ。
「身に覚えのない高校の卒業アルバムとか、中学生時代のような写真とかがたくさんあって。私は全然経験してないのに、それらはすべて終わってしまった後だったみたいで」
瑞菜の声は苦しそうに小さく、湿っていた。
人生でもっとも輝かしい青春時代を経験することもなくいきなり大人になってしまったのだから、当然ショックも大きいだろう。潤んだ瞳が痛々しかった。
「そこに僕が帰って来たっていうわけか」
「うん」
「そりゃ驚くよね。大変だったね」
流れを理解したところで解決策はまるで分らなかった。でも取り敢えず話すことで頭の整理もついたらしく、瑞菜も落ち着いてきた。それだけでも一歩前進だろう。
「あの……信じてくれるの?」
「なにを?」
「私がタイムスリップして未来にやって来たっていう話。本当に信じたの?」
まるで信じてはいけないことかのように問い詰められ、思わず笑ってしまった。
「確かに。急にそんな話を鵜呑みに信じたら不思議に思うよね」
「やっぱり信じてないんだ!」
「いや。信じてるよ」
「うそ! 笑ってるもん!」
瑞菜は恥じらうように怒り、僕を睨む。
「いや、まあ、話の内容は信じがたいものがあるけど。でも君は確かに瑞菜だ。見た目も話し方も性格も表情も。瑞菜がタイムスリップしたと言うなら、それは信じるしかない」
瑞菜は呆気にとられた顔に変わる。もともと表情が豊かな方だったけれど、小学六年生の頃はより一層それが顕著だったようだ。
「ありがとう」
少なくとも僕が味方だということは伝わったみたいで、瑞菜は頬を少し染めて頷いた。素直な性格はやはり昔からだったようだ。
小学六年生から二十四歳にタイムスリップしてしまうという恐怖がどんなものなのか想像もつかない。
でもいま僕がすべきことはその抜け落ちた時間の中でどんなことがあったかを説明することではなく、彼女の不安を和らげてやることだろう。
「どうやって帰れるかはこれから考えるとして、まずは今はそれまでの生活をどうやってしていくかを考えてみよう」
「うん。わかった」
「まず現状確認だけど、瑞菜はいま勤めに出てはいない。だからとりあえず掃除や洗濯、食事を作ってくれれば助かる」
部屋の構造や備品の場所を説明する。生真面目な瑞菜はそれをメモ帳に記していた。
家のことを簡単に説明した後、買い物をする店を紹介するために外出した。未来の世界は怖いだろうが、生活するのであれば外にも出なくてはいけない。
正直言えばこうして日常のことを説明している内に記憶だけでも戻ってくれることを期待する気持ちもあった。身体的な問題が残るとしても、とりあえず記憶だけでも二十四歳になって貰えたらだいぶ助かる。
でも近所のスーパーのやけに耳に残る店のオリジナル曲を聴いても、やけに元気のいい掛け声の鮮魚売り場のおじさんを見ても、瑞菜の記憶は刺激された様子はなかった。
柿やブドウなどの季節感を感じさせる青果売場からはじまり、肉や魚、玉子売場などを瑞菜に説明する。
「結構広くて綺麗な店だね」
「まあ、この辺りでは一番大きいし、新鮮なものが多いと思うよ」
説明ついでに買い物もしていた。支払いはカードなので小銭の必要もなく、瑞菜も楽だろう。
ふと彼女視線がちらちらと時おりお菓子売場に向けられていることに気付いた。
「お菓子も買っておこう」
「えー? いいの?」
「もちろん。好きなものをカゴに入れて」
瑞菜は好奇心に満ちた顔でお菓子の棚を眺めていた。十二年ほどの未来の世界なので大して変化もないだろうが、それでも彼女は見知らぬ国のお菓子の陳列棚を見るような目をしていた。
彼女が好きだったアニメのキャラはこの十二年で様変わりしたらしく、驚きの声を上げていた。
買ったものをひとまず家に持ち帰り、それからまた付近の案内を続ける。
いくら瑞菜が小柄だとはいえ、さすがに二十四歳の服は十二歳の彼女には大きすぎる。ファストファッションの店に行き、今の瑞菜にジャストサイズのものを買い揃えることにした。
浮かない雰囲気の瑞菜も、洋服選びの時は楽しそうにしている。ニットもシャツもスカートもショートパンツも今の瑞菜は選びそうにない可愛らしい柄や色のものばかりを選ぶ。さすがに服の趣味は小学六年生の頃からはずいぶんと変わったようだった。
下着を選ぶときはさり気なく僕も男性服売場へと移動する。まるで娘を持った父親の気分だ。
洋服のあとは駅前に行き、色んな店を紹介する。夜遅くまで開いてるドラッグストア、アニメが充実しているレンタルビデオ店、つくねが美味しい焼き鳥屋、大学生が夜遅くまで行列を作るラーメン屋。どこも瑞菜と開拓していった店だ。
しかし当然瑞菜はそれら全てをはじめて目にした様子でチェックしていた。
歩き疲れた様子だったので自動販売機で飲み物を買って公園のベンチに座る。
「いっぺんに覚えなくてもいいからね。徐々に覚えていけば、それでいい」
メモ帳を見て復習する瑞菜に声を掛けると「うん」と顔を上げて頷いた。
もしこのままずっとこのままだったらどうすればいいのだろうか。
確かに今はどう見ても子供だけれど、あと数年もすれば少なくとも見た目は大人と変わらないくらいに成長するだろう。もちろん戸籍も保険も、なにもかも揃っているので不自由はない。正直言って生きていくのに大きな問題はないのかもしれない。
しかし僕がよくても瑞菜の方は困るだろう。
よく知らないおじさんと『今日から夫婦です』と言われて暮らしていけるとも思えない。
ふと気付くと瑞菜は視線を足許に落とし、靴の踵で地面に穴を掘っていた。
「どうしたの?」と訊きかけて、自分の無神経さにようやく気が付いた。
休憩場所に公園を選んだのは、失敗だった。
二人乗りでブランコを漕ぐもの、携帯ゲーム機を持ち寄って通信プレイするグループ、ジャングルジムを使って鬼ごっこのようなものをする子供たち。ここは学校帰りの子供たちでいっぱいだった。
みんな生活の苦労なんて親に任せて、元気に遊び回るのに専念していた。
「家事なんて、しなくていいよ。僕がするから」
「え?」
瑞菜は顔を上げて僕を見た。
「子供は遊ぶことと学ぶことが仕事だ。瑞菜は、それをしていればいい。家事は僕がするから」
「ううん。大丈夫。私は平気だよ」
口許をむにゅっと波打つかたちで結んだ瑞菜は、以前アルバムの中で見た小学生の頃の彼女そのものだ。
二つ括りですっぴんだけど、この子はやはり僕の妻に間違いないと改めて実感した。
「元の時代に帰れるまで、お世話になるんだもん。何にもせずに居候するわけにはいかないよ」
「そっか。ありがとう。じゃあ無理のない程度で、お願いね」
「うんっ!」
どんな暮らしになるのか想像もつかないけど、今はとにかくやってみるしかない。