夜中の来訪客
電話台の上に置かれたアンティーク調のシェードランプが視界に入る。
それは結婚する前、二人で家具を探しに行ったときに見つけたものだった。
僕は柄にもなくアンティーク調の物が好きで、そのランプを見たとき、一目惚れをしてしまった。
時代がかったそのデザインに瑞菜は「古臭くて嫌」と言っていたが、僕の熱意に負けて購入を許してくれた。
しかし実際に新居に置いてみると、意外とマッチしていた。
瑞菜は「買って正解だったね」と微笑み、それ以来常に埃掃除を欠かさず気に入ってくれている。
もうあの瑞菜と会えないかもしれない。そう思うと今さらながらに熱いものがこみ上げてきた。
「瑞菜」
呼びかけながらランプに触れた瞬間、まるで返事をしたように電話のベルが鳴った。
「わっ!?」
鳴ったのは固定電話ではなくスマホの方だ。ディスプレイを確認すると『瑞菜実家』と表示されていた。
「もしもし?」
「瑞菜です」
受話器を上げると十歳差から二十二歳差になってしまった妻の声が聞こえた。
平静を装っているけれど動揺している。語尾の僅かな震えからそれを感じ取った。
「なにか、あったのかな?」
「え?」
「気のせいならごめん。なんか声に元気がなかったから」
「へぇ。すごいね。そんなことまで分かるんだ」
受話器の向こうで空気が弛むのを感じた。
「萌莉と喧嘩しちゃって。それでちょっと凹んでた」
「喧嘩? なんでまた?」
「それは、まあ、うん……」
話したくないのか、瑞菜はごにょごにょと口籠もる。
頼る人がほとんどいない状況の瑞菜が事情を知る親友と喧嘩したとなればかなり不安に違いない。
「ま、別に昔からしょっちゅう喧嘩なんてしてたし。明日になれば元通りだよ」
自分に言い聞かせているような口調だ。自分は傷付いてなんていない。そんな素振りが痛々しくて抱き締めたくなる。
「今からそっちに行くよ」
「え? もう夜遅いよ?」
「遅いって言っても八時過ぎだ。この時間なら空いてるし十時には着くよ」
「無理しなくていいよ。ほんと、なんでもないんだし」
気を遣わせまいとして、瑞菜は無理に平気な振りをして笑っていた。心遣いは嬉しいが、瑞菜にそんな心労までかけたくはなかった。
「あ、そっか。瑞菜はまだ子供だから十時だと眠いんだね」
冗談だと分かるようにからかう口調でそう言った。
「はあ? そんなわけないし。テスト前とか十二時近くまで起きてたこともあるから」
一夜漬けを偉そうな口調で語る瑞菜がおかしくて愛らしかった。
「じゃあ待ってて。すぐ行くから。眠くなったら寝ててもいいけど」
「むかつくー。四ッ葉さんこそ居眠り運転とかしないでよね」
煽りの応酬をした後、僕は車に乗り、瑞菜のいる町へと急いだ。
確かにここ最近寝不足が続いていたけれど、気分が高揚していて眠気はなかった。
ここ数日で幾度も通った道を走り、宣言通り十時には実家へと辿り着く。
車をバックで駐車していると、音に気付いた瑞菜が玄関から出て来て出迎えてくれた。
「本当に来てくれたんだ」
「もちろん」
瑞菜は「ふぅん」と素気なく頷いたが、少し照れ臭そうに口許を緩めていた。慌てて飛び出してきたのか、ちぐはぐなサンダルも愛しさを覚える。
夜の突然の来訪というのは人を嫌な気持ちにさせるか、幸せな気分にさせるかどちらかに分かれるものだ。
瑞菜の表情や態度を見る限り、僕の存在は幸いなことに後者のようだった。
「ほら、身体が冷えるから早く入ろう」
パジャマの上にカーディガンを羽織った恰好は、深まった秋の夜には寒そうだ。
お義母さんは僕にコーヒーを、瑞菜にはココアを淹れて席を外してくれた。
瑞菜はふーふーと冷ましながらココアを啜り、その温かさと甘さに満足したように目を細める。
落ち込んでいる様子だったから来てみたけれど、もうかなり落ち着いている様子だった。
「萌莉と喧嘩しちゃったのは、まあ、お互い様って感じで」
瑞菜は訊かれる前から話し始めてくれる。
「柚木君と希乃ちゃんが付き合ってて結婚まで考えてるとか聞いて、なんか馬鹿馬鹿しくなっちゃってさ。じゃあ私が小学六年生の時に悩んでたのはなんだったのって感じで」
「なるほど。まあ、確かに。柚木君に告白されて、勝手にそれで瑞菜が悪者にされちゃったんだもんね」
「そうだよ! 別に私が告白したわけでもないのに」
理不尽な展開に瑞菜は今現在も傷付き怒っている。でもこの時代の人達からしてみたら、それは十二年前の、遠い子供の頃の笑い話でしかないだろう。記憶というのは現状によって簡単に変わってしまうもので、消して普遍的なものではない。
「なんなのって感じ。みんなから無視されてたことも、勝手に懐かしい思い出にされて。たまんないよ」
瑞菜はココアを飲み干したマグカップを両手で握り、不服そうに唇を尖らせていた。
「なんかもう過去に戻りたくないって思ったの。だってそうでしょ? 戻ってもきっとまだしばらくは無視されたりするんだよ。将来結婚するかもしれない二人のせいで」
「それはまあ、そうかもしれないけど」
子供というのは無垢な残酷さを持っている。一度みんなで団結して『敵』と見做したら、しばらくは引き摺るだろう。
更にその関係のもつれの先で二人が付き合っていると知ったら余計に腹立たしく感じるのも無理はない。
「でもそれで元の時代に戻りたくないっていうのもどうかと思うよ」
「それはそうだけど……でもなんか納得いかない!」
「それで萌莉さんと喧嘩したの?」
今ひとつ繋がらないけれどそう訊ねると、瑞菜は首を竦めて顔を赤くして硬直した。
「萌莉が、失礼なこと言うから……」
「失礼なこと?」
「過去に戻らなければ、私は四ツ葉さんの奥さんだよって。『あんな冴えないダサい人と結婚していいの?』って」
ぽそっとふて腐れたように瑞菜が呟いた。
ちょうど瑞菜から電話を貰う前に僕が考えていた内容だった。この世界では瑞菜は二十四歳で、僕の妻だ。少なくとも戸籍上は。でも僕はそれを十二歳の瑞菜に背負わせようとは思っていない。
「そのことだけど」と僕が言う前に瑞菜は怒った顔をして、言葉を続けた。
「萌莉は四ツ葉さんのこと何にも知らないくせに失礼なこと言うからちょっとかちんってきちゃって」
「え?」
瑞菜は照れを怒りで隠すように、僕の目を見ずに早口で捲し立てる。
「そりゃ四ツ葉さんはイケメンって訳じゃないけど。でも優しいし、私のこと心配してくれてるし、大人なのに子供の私の言い分もちゃんと聞いてくれるいい人なのに」
「そんな大層なものじゃないよ」
「も、もちろん私は十二歳だしっ、結婚とか、そういうのは早過ぎるし全然分かんないけど! ただ知りもしないのに四ツ葉さんのこと悪く言うのは腹が立つというか……」
瑞菜はカーディガンから出した指先をモジモジと絡ませながら照れ臭そうに付け加える。その姿を見て、不覚にもドキッと動揺してしまった。
いくら妻とはいえ、今の瑞菜は十二歳だ。そう心に言い聞かせてみたものの、一度早まった鼓動はすぐには落ち着いてくれなかった。
純粋に妻が愛おしいと思っても後ろ暗いものを感じてしまうとは、本当に厄介な状況だ。
「ありがとう。そう言ってくれて。でも萌莉さんとは仲直りしないとね」
「……うん。ごめんね。萌莉は悪い子じゃないんだけど、ちょっと口が悪くて」
「瑞菜を心配してくれているんだよ。いい友達を持ったね」
「怒ってないの?」
「怒るわけないだろ。瑞菜の親友なんだから」
それを聞いた瑞菜は大きく頷いて笑った。
それより過去に戻りたくないという瑞菜の考えは少し困りものだ。しかし今それを全て否定しても彼女を傷付けるだけだろう。色々考え、悩んだ末の言葉なのだろうから。
今はとにかく幼い瑞菜に寄り添い、支えになる。それが僕の使命だと考えていた。




