悔いを残さない生き方
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翌日の昼休みも葛原さんは休憩室で僕の前に座った。
僕がコンビニ弁当を広げているのを見て、妻が帰ってきてないことを察した目をした。
「コンビニより車で売りに来るお弁当屋さんの方が美味しいし、栄養バランスもいいですよ」
「コンビニだと朝のうちに買えるから便利でいいんだよ。ついでに飲み物とか買えるし」
素っ気なく答えると「へぇー」と「ほぉー」の中間の声で返された。
「奥さんはまだ絶賛家出中なんですね」
「だから家出じゃないから」
「でも実家に帰ってるんですよね?」
「別に普通だよ、実家に帰るくらい」
そう、実家に帰るなんて普通のことだ。問題はそっちじゃなくて妻が小学六年生になってしまったということだ。
「今ごろ初恋の人と会ってたりして」
「ぶほっ!?」
「きゃっ!? ちょっと大丈夫ですか!?」
思わず吹き出してしまった僕の粗相を慌てて葛原さんが拭いてくれた。
「ごめん」とハンカチで拭きながら謝る。
「いえ、私の方こそ。からかいすぎました」
本気で反省しているのか、葛原さんは申し訳なさそうに頭を下げていた。
「その、やっぱり初恋の人っていうのは、いつまでも気になるものなの?」
何か事情があるとバラしているようなものだと思いつつも、そう訊かずにはいられなかった。
「はあ?」
葛原さんは急に不機嫌な様子で眉をしかめた。
「そんなわけないじゃないですか。昔好きだった人をいつまでも思い続けているなんて、男性特有の思い込みですよ。女性っていうのは男の人が思うより、ずっと逞しく生きているものなんです」
その言葉には僕の質問の答え以上の意味が籠められていそうだった。
「自分で『初恋の人と会ってるかも』って言ったんだろ」
「うるさいです。というより動揺しすぎです。やっぱり家出してるんですか?」
「家出じゃないけど」
むしろ喧嘩して家出している方が何倍もマシな状況だ。妻を元の時間軸に戻す方法なんて皆目見当がつかない。
「なあ葛原さんってタイムスリップとか信じる?」
「はい?」
唐突すぎる質問に葛原さんは動きも表情も固まっていた。
「昨日の子供の頃の話しといい、今のタイムスリップといい、質問が唐突すぎる上に意味不明です。言いたいことがあるならはっきり言って下さい」
これ以上ないくらいストレートに訊いているつもりだが、葛原さんにそれが伝わるはずもなかった。
「ただの雑談だよ。タイムスリップしたらなにがやりたいとか、そういうのない?」
「ないです」
「そんなことないだろ? なんかあるでしょ。やり直したいこととか、こうしておけばよかったこととか」
どうでもいい雑談にしてはあまりに熱を持って訊きすぎてしまった。何か話しに裏があると思ったのか、葛原さんはじとっとした目で僕を睨んだ。
「ないです」
「悔いのない人生ってこと?」
「そうじゃないです」
「だったらやり直したいことも──」
「そんなことしたら歴史が変わるじゃないですか。まあそもそもタイムスリップなんてあり得ないと思いますけど」
しつこい僕を黙らせるように、葛原さんはそう言い切った。
「ああ。そういえばSFとかでよく聞くよね、そういうの。歴史を変えると未来が変わるっていう話」
タイムスリップは信じていないけれど歴史を変えると未来が変わる話は信じているらしい。中途半端に現実的だ。
でも確かに過去に戻った瑞菜がこの未来の記憶を残したまま過去に戻ったら、未来は変わってしまうのかもしれない。
お母さんの話だと過去に戻った瑞菜は二週間くらいでタイムスリップしていたことを忘れたようだったと言っていた。何か大いなる力が働き、記憶を消していった、ということなのだろうか。
「確かに私は人生に悔いも間違いもないとは言えません。けど過去に戻ってやり直すより、今を逃げずに頑張ってこれからの未来をよくする方がいいですよ」
「確かに。そうだね」
「分かったのなら四ツ葉さんの場合はまず奥さんに謝るところからです」
「だから夫婦喧嘩じゃないから」
確かにこの流れだとタイムマシンに乗って喧嘩する前に戻りたいと勘違いされても仕方ないだろう。
ネタにされているのか、本当に心配してもらっているのか、表情に抑揚のない葛原さんはよく分からない。
それに夫婦喧嘩をしてしまったのは、計らずしも当たってはいる。瑞菜が小学六年生になってしまった騒動ですっかり忘れかけてしまっていた。
瑞菜が十二歳になってしまう前日の夜、結婚記念日を忘れたことが原因で僕たちは喧嘩をしている。突拍子もない発想だけれど、もしかするとそれは時間軸がズレてしまったことと無関係でもないのかもしれない。
そもそもタイムスリップ自体が非現実的だ。そのきっかけが落雷の衝撃でなければならないという理由はない。
「夫婦のことは夫婦にしか分からないでしょうから、私の口を出すことじゃないですけどね」
「いや、ありがとう。参考になったかも」
「お役に立てたなら何よりです」
葛原さんは語りすぎたことを恥じるように、箸で掴んだチキンカツを囓っていた。
二時間後。
僕は瑞菜の実家に向かう高速道路を走っていた。先日有給を使ったばかりだけれど、上司は快く午後の半休を許可してくれた。普段休まずに頑張っていたとはいえ、感謝せずにはいられない。
気が急いてしまい時おりアクセルを踏み込みすぎて、慌てて減速をする。油断するとすぐに瑞菜のことを思い出し、前方の車との車間距離に肝を冷やした。
一度頭を冷やすためにサービスエリアに立ち寄り、ソフトクリームを片手にベンチに腰かけた。
秋の行楽シーズンということもあるのか、団体のバスが頻繁にやって来る。乗客の老人会や外国人観光客は束の間の解放感を満喫するように腰を伸ばしながら、わずかに色づいた山にカメラやスマホを向けていた。
山間のサービスエリアの割にイカやサザエの串などを焼く屋台が出ており、醤油の焦げる芳ばしい煙が秋風に乗って僕のベンチまで漂ってくる。
瑞菜は普段節約家の割にこういうハイウェイグルメに弱く、唐揚げやら練り物の串揚げなどをしょっちゅう買っていたのを思い出す。
瑞菜とこのサービスエリアに来た記憶はないけれど、なぜだか思い出の場所のようにすら思えてくる。こうしてベンチに座っていればお手洗いを終えた瑞菜がやって来るんじゃないかと本気で感じてしまっていた。
そして一人でソフトクリームを食べる僕に恨み言を並べ、倍返しでは効かないくらいに串焼きやら唐揚げ棒を頬張りそうな気がしていた。
もちろん五分経っても十分経っても、当然ながら瑞菜がやって来ることはなかった。
休憩はとっくに終わっているのに、僕は何となく腰が重くなってしまい、立ち上がれずにいた。
そのうち先ほどの老人会の団体客が戻ってきてバスに乗り込んでいく。山を隔てた日本海側にある温泉地を目的地にしたそのバスがパーキングエリアを出ていく後姿を見るともなしに眺めていた。
瑞菜に会いに行ったところで、何も変わらないかもしれない。でも僕は行かなくてはならない。
僕がいない方が落ち着くだろうなどと心で言い訳を唱えながら瑞菜を実家に一人置いてきた。しかしそれは厄介な状況から目を逸らしたい気持ちの表れだったのかもしれない。
未来にタイムスリップしてしまった瑞菜は不安でしょうがないはずだ。そんな時そばで支えるのが夫の役割なのに、僕はそれから逃げてしまっていた。
「ごめんね、瑞菜」
胸の中の瑞菜に謝る。こちらの瑞菜は二十四歳のままだ。
ほったらかしにされた彼女はツンッとそっぽを向いて、すぐには機嫌を直してくれない。けれど優しい瑞菜のことだ。きっとそのうち許してくれる。
ふとその瞬間、数日前実家に向かった時の、十二歳の瑞菜の言葉を思い出した。
『お父さんのことも、友達のことも、先生のことも、みんな嫌になっちゃったの』
瑞菜はそう言っていた。
あの時はまだお義母さんと会う前で、僕も今より気が動転していた。この先の不安や、どうすればいいのかということばかり考えていて瑞菜の話もどこか上の空で聞いてしまっていた。
瑞菜はお父さんだけではなく、友達や先生にも不満を抱いていたと言っていた。
なにがあったのかは分からない。しかしこの時代にやってくる前に色々な悩みを抱えていたのは間違いないだろう。
そんな不安を抱えて、瑞菜は昔の知り合いと会うと決めた。それはかなりの勇気が要るはずだ。
(感傷に浸っている場合じゃない)
僕は勢いをつけて立ち上がり、小走りで車へと戻っていった。




