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妻が突然十二歳

 結婚記念日とは市役所に婚姻届を提出した日か、結婚式を挙げた日か。その解釈は人によって違う。


 僕にとっては式を挙げた日で、妻の瑞菜みずなにとっては市役所に届けを出した日。ただそれだけの違いだ。 

 しかしそれを些細なことと捉えるか、重大なことと捉えるかもまた、人によって解釈が違うようだ。


 結婚して二年。

 僕と妻の初めての喧嘩はそんなことが原因だった。


「明日なんの日だと思う?」


 昨日そう訊かれた時、もう少し考えるべきだったろう。少なくともバラエティ番組のコントのオチよりは大切なことだった。

 「さあ。知らない」と振り返りもせずに答えたのが、彼女の逆鱗に触れてしまった。


「結婚記念日忘れるなんて最低! あり得ないし!」


 いつもは怒っても拗ねるくらいの瑞菜が珍しく声を荒げた。慌てて弁明したものの後の祭りだった。

 いくら勘違いの事情を説明しても、謝っても、機嫌をとっても許してはくれなかった。

 まだ二十四歳の瑞菜は、十歳年上の僕から見るとやや子供っぽいところもある。普段はそういうところを含めて愛らしかった。

 でも昨日の怒って拗ねる態度はさすがにちょっと行き過ぎだったと思う。


 その怒りは一晩寝たくらいでは治らなかったようで、今朝も一言も口をきいてくれなかった。

 それでもきちんと朝ご飯を作ってくれるところはやはり可愛い。たとえ卵焼きが目玉焼きにワンランクダウンしていたとしても。


 そんなご立腹の妻が待つ家に帰宅する僕の手には、彼女が好きな洋菓子屋の袋がぶら下がっている。お詫びの意味を込めて買ってきたのは瑞菜が一番好きな洋菓子屋のレーズン入りチーズケーキ。

 これで懐柔できるほど甘くはないだろうが、反省と誠意を女性に対して形に変える時は、甘いものか花束にするのが一般的だし効果的だ。


「ただいまぁ」


 ドアを開けて室内に呼びかけると、奥の方でガタガタッと慌てて動いた気配がした。しかし返事はない。

 やはりまだ怒りはまだ収まっていないようだ。


「はあ……」


 お留守番をしていた犬のような駆け寄ってくるようないつものお迎えまで期待していなかったが、一応玄関までは来てくれると思っていただけに出鼻を挫かれた気分だった。


「瑞菜ぁー。ただいま」

「きゃあ!」


 ドアを開けると()()()()()()()()()()()()


「え?」


 その少女は僕を見ると、懐かない野良猫のような勢いで部屋の隅へと這い逃げていく。

 その目は恐怖と困惑、そして深い悲しみを感じさせるように涙で滲んでいた。

 泥棒にしては態度がおかしい。そもそもこんな小学生くらいの女の子が空き巣をするとも思えない。


「だ、誰? どこから家に入ったの?」


 見ると部屋には古いアルバムがいくつも広げられて散らかっていた。

 金目の物を物色した散らかり方とは明らかに違う。


「こ、来ないでっ!」


 尖った声でそう言いながら、彼女は近くにあったリモコンを握り締めて凶器のように僕に向けてくる。もちろん迫力はゼロだ。

 よく見るとその少女の左頬には、小さなほくろがあった。


「えっ!?」


 そこにほくろがある女性を、僕はもう一人知っている。他ならぬ僕の妻の瑞菜だ。

 それだけじゃない。ほくろ以外にも黒目勝ちな瞳や顎の小さい輪郭、困ったときに見せる眉尻の下がった表情などが瑞菜にそっくりだ。


「まさか……瑞菜、なの?」


 何でそんなことを言ったのか、自分でも分からない。でも確かにその少女の中に『妻』を感じた。

 野良猫に手を差し伸べるように恐る恐る訊ねると、少女はビクッと体を震わせ、あどけない目を大きく見開いた。


「あなたは、誰? なんで私の名前を知ってるの?」



 ────

 ──



 まったく理解できないが、少女の言うことを鵜呑みにすればこういうことだ。


「つまり君は瑞菜で、突然小学六年生からタイムスリップして来たっていうこと?」

「多分……そう」


 十二歳から二十四歳の現在にやって来たと言うことは、十二年も未来に来てしまったということになる。

 一瞬瑞菜が姪っ子でも利用して僕を困らせるために騙そうとしているのかとも思ったが、彼女は一人っ子だから姪などいない。

 それに喋り方や表情、顔の特徴などは確かに瑞菜本人だった。

 本気で怯えたり不安そうにしている姿も、とても演技には見えなかった。

 それでも僕は目の端を光らせて、どこかに隠しカメラなどが設置されていないか伺っていた。


 彼女が言うには突然一時間ほど前、気が付いたらこの部屋にいたそうだ。

 何が起こったか分からず、テレビをつけると見知らぬ番組だらけで、家を出てみたら全く知らない土地だった。怖くなって一旦この部屋に帰ってきたらしい。

 飾られている写真を見て、自分に似ていると感じた。不審に思い、アルバムを広げて確認していたところに僕が帰ってきた。

 瑞菜を名乗るこの少女は僕にそう説明した。


「それで、その」


 物言いたげに瑞菜は上目遣いで僕をちらっと見た。彼女が一方的に喋っていたので、僕は誰何の問いにまだ答えていないことを思い出した。


「あ、えっと、僕は四ツ葉(よつは)道彦みちひこ。その、つまり、君の、夫なんだけど」


 瑞菜の目に明らかに失望と悲しみが浮かんで、自然と溢れたように涙が溢れて頬を伝っていく。


「うそ……そんなの嘘! 絶対嘘!」


 納得いかない様子で怒り出し、充血した目で睨まれた。


「だっておじさんだもん! ダサくてイケてないおじさんなんかと結婚するはずない!」

「それは、その……ごめん」

「写真で見たけど、私はまだ若くて綺麗なお姉さんだよ? おじさんと結婚とかあり得ないでしょ」


 おぞましいものを見る目で見られ、さすがに凹んだ。三十四歳だからおじさんと言われて反発を覚えるほどでもないが、瑞菜に拒絶されるとさすがに辛い。

 結婚した当初、色んな人から僕みたいな冴えない奴が瑞菜みたいな可愛い子と結婚することについてからかわれた。

 しかしその度に瑞菜は「私は道彦さんじゃないと駄目なんです」と笑って答えてくれていた。


「まあ、そうだよね。普通に考えたら不釣り合いだよね。瑞菜は若くて美人だし」


 もっともすぎる指摘に力なく笑って答えると、瑞菜はばつが悪そうにそっぽを向いた。


 これまでどういう生活をしていたのかという説明をする状況じゃない。ましてや僕たちの馴れ初めなどを聞かるなんてもっての外だ。

 ひとまず落ち着けさせ、インスタントのラーメンにチャーハンを僕が作って食べさせた。

 もっとも食欲がなかったのか、彼女はほとんど食べなかった。

 余所余所しい態度でほとんど喋らず、時おり泣き出す瑞菜を見ていると僕も胸が痛かった。

 今日はとても話ができる状況ではなさそうだ。


 「もう一度明日ゆっくり考えよう」と優しく諭して瑞菜を先に寝かせる。明日になれば元通りになっているんじゃないかという甘い期待で問題を先延ばしにした。

 念のためパソコンで『タイムスリップ』や『入れ替わりドッキリ』などを検索する。しかし当然ながら満足する結果は得られなかったし、いつまで経っても「びっくりした? ドッキリだよ」と笑いながら種明かしする瑞菜は現れなかった。


「タイムスリップねぇ……」


 瑞菜の小学校の卒業アルバムを開いてみると、確かにベッドで眠る少女が映っていた。まだ旧姓の『上垣うえがき瑞菜』という名前で。

 どうして急に小学六年生に戻ってしまったのか、理由は分からない。しかしこの少女は確かに僕の最愛の妻のようだった。そして妻が苦しんでいるのであれば、夫の僕がなんとかしなければならない。


 押し入れから毛布を引っ張り出してそれに包まってソファーに寝転んだ。

 明日は朝一番で病院に連れて行くべきだろうか。それともこれは警察の範疇なのだろうか。

 とにかく上司に連絡をし、明日は有休を取らせてもらう連絡をした。


 大丈夫。きっとなんでもない。

 明日の朝、目を醒ませばきっと瑞菜は元通り戻っている。そうなればせっかくの有休を取ったのだから、軽くドライブでもしよう。今は秋の行楽シーズンだ。どこに行くのも悪くない。

 そんなことを考えている内に、僕も意識が薄れていき、眠りについていた。



「ねぇ、ちょっと。あのー!」


 隣の家から呼び掛ける感じの声で目が醒めた。

 目を開けるとそこには少女となってしまった瑞菜が立っていた。

 裾を折ったジーンズと肩がはだけ気味のカットソーというサイズの合っていない服で、警戒を表したように少し離れた位置から僕に呼び掛けていた。

 髪は年相応に二つ括りのおさげにしてある。


「おはよう」


 何ごともなかったように挨拶をしたものの、瑞菜は警戒心を露わに目を逸らしてしまう。


「まだ小学六年生のままなんだ」

「うん……」

「そっか」


 動作が重くなったスマホを一旦電源オフにすれば元に戻るように、一晩寝れば元通りなどと期待していたが甘かったようだ。


「ソファーで寝てたんですか?」

「え? あ、まあ」


 瑞菜は物言いたげな顔をしたが、結局なにも言わずに僕に背を向けた。二つ括りの後頭部は、真ん中に頭皮の肌色の筋が一本通っている。


「朝ご飯、作りましたんで」

「瑞菜が作ってくれたの?」

「一応」


 見るとベーコンエッグにレタスとキュウリのサラダ、トーストが並べられていた。それは毎朝の食卓と似た光景だった。

 でも少し焼きすぎの卵や野菜の切り方の粗さなどの違いがある。


「へえ。上手だな」

「親が共働きなんで家事はある程度出来るんです」


 少し誇らしげに語る姿が可愛らしい。

 味の差が出るメニューではないけれど、それは確かに瑞菜が作ったものの味がした。

 瑞菜はTVのリモコンを操作し、ニュース番組を転々としたのちにEテレでチャンネルを落ち着かせた。

 歌のお兄さんお姉さんの溌剌とした声が懐かしく感じさせられる。六年生が観る番組としては幼すぎるのだろうが、ニュースよりはましと判断したのだろう。


「今日は仕事を休んだから病院に行こうか?」

「えっ!? 病院?」

「ネットで調べてみたけれどそれらしい症状は分からなかった。でももしかしたらお医者さんに見てもらえば──」

「病院なんて行かない」


 瑞菜は悲しげに首を振り、僕を見た。


「でももしかしたら何か不思議な病気かも」

「私は過去からタイムスリップして来たの。病気とか、そういうんじゃないから」


 瑞菜は泣き出す寸前の顔だった。ちょっと無神経すぎたと反省する。

 いきなり小学六年生から二十四歳になったとしたら、かなり不安もあるのだろう。ましてや病院に連れて行かれてあれこれ検査なんてさせられたら恐怖を感じるのは当然だ。


「わかった。ごめん」


 妻を守り、助けるのが夫である僕の務めだ。焦って病院に連れていくよりも、まずは瑞菜を落ち着かせることの方が大切だ。何らかの病名を与えてもらえたら安心できるのは僕だけで、瑞菜としては不安が大きくなるだけだろう。


 病院に行かないことを伝えると安心したのか、瑞菜は少しだけ緊張を解いた様子で「ありがとう」と頭を小さく下げた。

 嘘をついている様子はない。それに記憶だけが十二歳というのならば記憶喪失などの線もありうるだろうが、今の瑞菜は見た目も幼くなってしまっている。信じられないことだが、とりあえず今は受け入れるしかない。


「あ、そうだ」


 僕は冷蔵庫にしまってあったレーズン入りのチーズケーキを取り出す。


「これ、昨日買ってきたんだ。食べよう」


 皿に乗せて出すと、瑞菜は恐る恐るそれを口にした。


「美味しい!」


 途端に目を輝かせ、顔を綻ばせる。子供の頃から瑞菜の味覚は変わらないようだった。

 昨日の夜からはじめて笑ってくれたことで安心する。


「それは瑞菜が大好きだったケーキなんだよ」

「へぇ。そうなんだ。いいもん食べてるんだね、十二年後のわたし」


 こっそり机の下を確認すると、瑞菜はぷらんぷらんとさせていた。美味しいものを食べると脚を振る癖はやはりこの頃からあったようだ。


 こうして突如小学六年生に戻ってしまった妻との奇妙な夫婦生活が始まった。



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