#5 革命前夜「は」
人生とは、不慣れがロケット鉛筆みたいに押し出されて現れる。
羽鳥との放課後授業、2日目。
昨日と同じくクライスメイトが教室からいなくなるまでそのへんで時間を潰し、下校生が一式正門から吐き出された後でそそくさとひとり教室に戻り、扉の前に立った。
ちゃんと言いつけを守って、我ながら真面目なもんだね、うん。
高校生活最後の1年を限界まで謳歌してやろうと目論むクライスメイトたちにとって、学校とはもはや長居する場所ではない。勉強に身を置くと心に誓った者は塾にこもって「大学受験の」知識吸収に勤しみ、青春とかいうものに全エネルギーを注ぐ「今を全力で」志向派の者は友人たちとクレープを食べたり買い物をしたりカラオケに行ったりと交友関係に忙しい。
いずれにしても、出席日数稼ぎという用も済んだあとにわざわざ教室に残る物好きなど、めったにいないってことだ。
昨日は誰かと鉢合わせをするかもという気恥ずかしさがあったものの、人間とは慣れる生き物。
警戒心などつゆにも持たず(自分のクラスなんだから入るときに警戒する必要なんてそもそもないんだけど)、無心のままガラガラガラと引き戸を開けたところで……、
「……??」
新たな不慣れと鉢合わせた。
つやつやした長い髪と、猫みたいな瞳。
大きく開けてもせいぜいひとかけらのチョコがせいぜい収まるくらいじゃないなんじゃなかろうかと思しき口を結んだまま、喜怒哀楽どの感情とも似つかない目がこちらに向いていた。
「えっと……あの……」
まさか誰もいないだろうと思って抜いていた気が再び引き締まる。
こういうとき、ステータスをコミュニケーション能力に全フリしているリア充たちは、何と言って場をつなぐのだろう。
何も言わず、女性は再び手に持った本に目をやった。
彼女のことは知っていた。
村地。話したことが一度もない、というか同じクラスであるということに意識を払ったことすらない、なんとも地味な女の子。
羽鳥が言語を用いて周囲を拒むのとはちょうど対照的に、村地にはノンバーバルで人を寄せ付けない得も言えぬ威圧感のようなものがある。
うーん、沈黙がなんとも気まずい……。
この状況で天気の話題を出して場をもたせるなんてイギリス人みたいなことをするわけにもいかず、『教室に人がいるみたいだけど、どうする?』なんて連絡をとりあえず羽鳥にするかしないか迷っているうち、村地が本をめくる音を上書きするように教室の扉が開く音が響き渡った。
「おまたせ……って、あら? 村地さんじゃない」
「羽鳥さん、こんな時間にどうしたんですか?」
「ちょっとここ数日補習をしてるの」
「そうなんですか、じゃあこの人も」
そう言う村地と再び目が合った。さっきよりも『楽』の感情がこもっているように感じた。
「えっと……村地さん、羽鳥とは仲いいの?」
「よく一緒にお話しますよ。仲は……」
「この学校では仲良しの部類よ。村地さん、面白いもん」
仲が良いと答えても断言しても良いものか、という少々のためらいニュアンスが村地の中にはあったが、そのあたりがいかにも引っ込み思案な女子の典型という感じがした。
おそらく2人は本当に仲が良いのだろう。
先ほどの食い気味での羽鳥のフォローが、この一連の流れに慣れきっていることを物語っている。
羽鳥と村地に接点などあるはずがないという先入観でもって両名が鉢合わせすることに一抹の不安を感じていたものの、どうやらそれは取り越し苦労だったらしい。
「村地さんには前話した内容なんだけど、よかったら横で聞いててちょうだい」
すでに村地にも伝達済みか。ってことは、村地も『オウンドベース』メンバーなのか?
ますますよくわかんないな……。
「じゃあ時間もないし、さっさと始めましょ。今日は昨日の続きから」
そんなこんなで昨日よりも1人増えた状態で(一人は半分参加みたいなものだから実質受講者数に変更はないのだけれど)、今日も『働き方を考える』勉強会が幕を開けた。
「昨日は働き方の中でも『労働』について話したけれど、覚えているかしら?」
「あぁ、うん。『働く』と『労働』の違いとかそういうやつね」
「今日からは『労働』に当てはまらない働き方について考えていくわよ」
羽鳥の声は、昨日よりも少し大きい気がする。ギャラリーが増えたから張り切っているのだろうか……?
「今回も、パンを作る話を例に説明していくわね」
そして昨日同様、羽鳥は黒板に白い文字で知識をぶつけていく。
パンというたとえに関連した例までスラスラ描けるようになっているあたり、この瞬間のオリジナル要素まで含め家でアレンジしたものをシミュレーションしてきてくれたのだろう。
「1個のパンが出来るまでには、様々な人が原材料に付加価値をつけながら労働する人として関わっているわよね。
たとえば、小麦を育てている人、小麦を使って小麦粉を作る人、オーブンを製造する人、オーブンに使うネジを作る人、小麦とオーブンを使ってパンを作る人……まぁ挙げだしたらキリがないわね」
二度目の『オーブン』の字を黒板に書いたあたりで、羽鳥は板書をやめてこちらを振り返った。
「多くの人が様々な形で『労働』してるってことか」
「そう。だけど、上に書いた人以外にも、何も作っていないのにお金を稼いでいるという、なんとも不思議な仕事の人がいるの。たとえばどんな人だかわかる?」
羽鳥は明らかに意見を出すことを求めている。
小学生みたいに無邪気に発言できたら良いのだろうけど、改まるとなんとなく気恥ずかしい。
ましてや村地というニューカマーがいる以上、的はずれなことを言ってバカのレッテルを張られるのも怖かった。
だからしばらく考えておずおずと出した答えは……、
「情報発信をしている人?」
これまでの羽鳥の話から推測して導き出した、なんとも抽象的な答え。
しかも、
「あなた、よくわからずにごまかして言ったでしょ、それ」
羽鳥には一瞬で見破られた。より恥ずかしい。
「けどまぁ、遠くはないわね。
パンの作り方を教えたり、おいしいパンの情報を集めてブログを書いている人も、情報発信者と言えるし。
だけどそれはどちらかというともう少し後に出てくる話かしら」
気恥ずかしさという面で、羽鳥よりも村地のことが気になった。
良くも悪くも、村地はこちらに何の興味も関心もなさそうにハードカバーの書物に首ったけだ。
「村地さん、答えはどんな人でしょう?」
「外国から小麦を輸入して販売している人とか、オーブンが壊れた時に修理する人とか……ですか?」
いや、耳ではしっかり聞いてるのかよ。
村地の脳内処理スペックに驚嘆しているのもつかの間、羽鳥の授業は今日のメインテーマへと向かっていく。
「いろんな人がいるんだけどここで確認して欲しいのは、これらの人たちは、形があるものを使って仕事をしているわけではないってことなの。
そしてこのように、形はないけれど、有料で人の役に立つことをするこの活動のことを『サービス』と呼びます」
いわゆる『サービス業』については中学校の社会でも習った気がする。
確か今の日本のだいたい70%の人がサービス業だったはず……。
「そしてこのサービス業、お金をもらって人の役に立ちさえしていれば、何でも仕事だと言えるのがポイントなの。
たとえば……」
羽鳥が箇条書きしていく内容としては、
・何かお手伝いをして役に立っている
・勉強を頑張ることで親を喜ばせて役に立っている
・毎日元気に生きていることで、親を安心させて役に立っている
やたらに『親』という言葉が目についた。
「あぁ、それで『小学生も働いている』って言ってたのか」
「そう! よく覚えてるじゃない」
一応、昨日は家で何もやることもなかったし、ちゃんと復習したからね。
どうやら小学生が親からお小遣いをもらう時だって、ここで言うところの『サービス業』を行っていると言えるらしい。
まぁ自覚は絶対にないと思うけど、幼い小学生だって、人の役に立ってるとは言えるからね。
そして、役に立っているからこそ、小学生はお金(=お小遣い)を稼げる(もらえる)というわけだ。
「あたしが最初から話していた、『働く』という言葉。
この言葉を通して伝えたいことが、ここにあるの。
『働く』とは、『人の役に立つ作業をすることでお金を稼ぐ』って意味なの。
財を作るのかサービスを作るのか、要するに形があるのかないのか、そこはどっちでも良い。
どっちが良い悪いってこともないしね」
羽鳥が熱弁を振るい始めた。
昨日羽鳥にもらった手元のプリントをよく見たら、
『どうやって働くかを考える=どうやって人の役に立つかを考える』
この部分だけ太文字かつフォントも変わって書かれていた。
よほど強調したいことらしい。
「役に立つ方法は人それぞれだし、役に立っていると「感じる」かどうかも人それぞれ。
どれだけ国民的に人気なタレントにも絶対にアンチと呼ばれる人がいるのと同じで、どれだけ人の役に立てると思うことがあってもそれを役に立つとは思わない人だっているんだもん。
逆に、自分が役に立っていないと思っていたとしても、それを役に立つと思う人だっているの」
羽鳥はちらりと教室の端の方を見た。
そこに座る女の子は、さっきまでひっきりなしに本をめくっていた手の動きを止めている。
「よく、『自分には何も出来ないし、何の役にも立っていない』って言う人がいるじゃない?
でも考えてみて。
これまで生きてきた中で、お金を1円も持たない瞬間はあった? 多分ないわよね?」
その言葉は、どうにも引っ込み思案な『誰か』に向けられているような気がしてならなかった。
村地が羽鳥と話すようになった理由がわかったような気がする。
経済学の観点から考えても、自分が自由に使えるお金を持ったことがある以上は、確実に人の役に立つ人間だということだ。
ちょっと数字の計算を間違えたとか、上司に怒られてへこんだとか、時間通りに行動できないとか、そんなことは正直、役立っているかどうかには何の関係もない。
それは、役に立っていないと『思い込んでいる』だけで、実際に役に立っていないわけではないから。
『働く』とは、もっと長い期間で見たときの考え方なのだと思う。
役に立っていないと自分で思い込んでいるだけで、間違いなく人の役に立っている。
じゃないと、人はお金をもらえないから。
サラリーマンをしている方は、1回失敗しただけで、すぐに会社をクビになるだろうか?
起業している方は、1回失敗したら、その瞬間に破産してしまうのだろうか?
おそらく答えはどちらも、ノーだろう。
まずはベースとして、『自分は財やサービスを作り出して、役に立っているんだ』という誇りを持つこと。
その上で、今、サラリーマンやアルバイトなどでお金を稼いでいる人は、今の自分が何をして役に立っているかを、今後、就職や起業をしてお金を稼いでいきたいと考えている人は、これから何をして人の役に立ちたいかを、それぞれ意識するとより良い働き方が見えてくるに違いない。
「まぁいきなりは意識出来ないって人もいると思うの。
そんな人はまず、誰か1人の役に立つことをイメージしてね。
その1人目を探すこと!
その後でそれを2人、3人、10人、100人、1000人……と増やしていったら、間違いなく素敵な『働く男性』『働く女性』になれるんだから!」
羽鳥のこの言葉は、この教室にはいない誰かに向けて放たれたものだった。
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「それで、仮に働き方が決まったとしても次に気になるのはやっぱりこれよね」
残り時間を気にして時計を少し見たあと、羽鳥は再び手を動かした。
黒板にはこう書いてあった。
『働いて何が出来るか?/働いて、どれだけお金が稼げるか?』
思わず相槌を打ちたくなる。
「まぁ確かに、どれだけ自分が働いてももらえるお金が少ないとやっぱり嬉しさは減るだろうし、逆にどれだけお金を稼げるとしても、自分がやりたいことがイメージ通りに出来ていなかったら、それもまたモヤモヤした気持ちになると思うもんなぁ」
理想の働き方が出来ているサラリーマンと、出来ていないサラリーマン。
仕事にやりがいを感じている起業家と、感じていない起業家。
これらの差はいったいどこにあるのだろう?
その答えは、羽鳥がすぐに教えてくれた。
「お金とかやりがいはに差が出る理由は、日本が資本主義社会だというところにあるわ」
ここからは、『資本主義とは何か?』という話になるらしい。
なんか授業で習ったような気も……。
涼しい顔をして同じ空間に座る村地に慣れてきたと思いきや、また新たに勉強しなくちゃいけない不慣れが押し寄せる。
いつもいつだって、世の中はそうやって出来ている。
だけど、また慣れていくんだろうな。
いつもいつだって。