#4 革命前夜「ろ」
人生とは、受け身でいたって進まない。
下校時刻もとっくに過ぎた放課後の教室。
外の運動部の声も次第にまばらになり、耳に広がるノイズの森から音の木が1本、また1本と消え去っていく。
今や残されているのは、教室のアナログ時計の針の音、室内機の低い唸り声、そして、延長戦授業のテーマも告げ終わってエンジンがかかってきた羽鳥の高くてよく通る声だけだ。
昨日は存在すら認知できなかった女の子から、謎に人生に関する考え直しを促され、そして流されるまま働き方のレクチャーを受けている。
もし今この風景を写真で撮られ、来年渡されるであろう高校の卒業アルバムの一角に飾られているのを誰かが見つけたとしたら、クラスメイトたちの頭には『なぜ羽鳥がこんなことを?』『というかこれ、羽鳥だよね?』なんて大きなクエスチョンマークしか浮かばないだろう。
というか、3日前の自分ですら今の状況は理解できないんだけどね。
「じゃあここからは経済の話ってことで」
『稼ぐ』とか『働く』とか、そういう高校生が漫然としか認識していないテーマ(大人もあんまり深く考えてるとは言えないだろうけど)についてひとしきり話し終えたところから間をおかず、次に羽鳥は黒板に大きな丸を3つ書いた。
緑茶畑の地図記号のようだった。
そして、
「あたしたちは普段、お金を生み出して、手に入れて、そして使ってる。この一連の流れのことを、『経済活動』と言います」
赴任したての新人教師のように張り切った熱弁をふるいつつ、それぞれの丸の中に『生産』『分配』『支出』と言葉を書き入れた。
「今日のお昼、何を食べた?」
「なにって……パンだけど」
こういう雑談なのか明確な意味があるのか曖昧な質問を唐突に羽鳥からされると、まだまだ戸惑ってしまう。
平静を装ったつもりだったけど、その唐突さで声が上ずってしまったのはなかなか恥ずかしかった。
「じゃあ、パンでいいや。例えば、あなたがお金を使ってパンを買うまでの流れで、この『経済活動』を説明するわね」
あ、適当に答えても別に良かったのね。
人差し指を頬に当て、んー……と小さく喉を震わせながら少し思案を巡らせたあと、羽鳥はまた話し始めた。
「ここに書いた『生産』とは、文字通りパンを生産する、つまりは作るってこと。そしてこのとき、作られたパンのことを経済用語で『財』と呼びます」
「『財』って、財宝とか財産とか、あの『財』?」
「そう聞くとお金そのものっぽいけど、それだけとは限らないかな。パンを作る時に使う……なんだろう、空気、水、小麦、ゴムべら、オーブン、クッキングシート……ぜんぶ『財』なの」
「へー」
金ピカの輝きを失って、イメージの中には料理番組で材料紹介をする、ごくごく平凡な場面が現れた。
財産という言葉からは縁遠い。
「そっか、このへんも説明しなきゃね。もう少しだけ細かく「財」を分類しておくわね」
言いながら、羽鳥は机においていた自分のノートを数ページ前に戻した。
「『財』は、その内容によってさらに細かく呼び方が分けられるの。
たとえば、『自由財』。空気とか水みたいに、あたしたちが基本無料で利用できる財のことね」
ミネラルウォーターは有料だけど……、と言おうと思ったけど、やめた。これ以上脱線させるのも悪いし、あとでまとめて聞けばいい。
羽鳥の説明は続く。
「それに対して小麦などの材料やオーブンなどの機械みたいに、有料である財のことを『経済財』と呼びます。
特徴は……そうね、数に限りがあるって感じかな。もちろん、経済財を使って作ったパンそのものも、『経済財』ね。
で、その『経済財』はさらに、『生産財』と『消費財』に分類されるの。
パンを作る時には、小麦とかオーブンとかそういう作るためのものは『生産財』。完成したパンは『消費財』。
わかる?」
「なんとなく……」
「別の例で言うと、ほら、トマトってあるでしょ?
トマトをそのまま丸かじりして食べる場合はトマトは『消費財』になるんだけど、そのトマトを使ってケチャップを作る場合には、トマトは『生産財』ってことになるの」
「余計にわからなくなったわ」
トマトが嫌いな身からしたら、『財』であるというイメージにそもそも無理がある。
ガリッ、ブチュ、グチャ、の三段活用を思い出しただけで、少し鳥肌が立った。
「まぁとにかく、時と場合によって、生産財と消費財は変化するってことよ」
「それが言いたかったのね」
「話を戻すんだけど、これらの『財』を作り出すことを『生産』と呼び、生産によって出来た成果を作った人に渡すことを『分配』、その分配されたお金を使うことを『支出』と呼びます」
「じゃあつまり、パン屋さんにとってはパンを作ることが『生産』で、パンを売ったお金をパン屋さんが受け取ることが『分配』で、そのお金を使ってパン屋さんが生活用品を買うのが『支出』ってことね」
「そう! ものわかりがイイじゃない!」
黒板に書き足す手を止めた羽鳥の目は、キラキラしている。
どうやら心底こちらを褒めているようだ。
「じゃあ、ここで大事なことがなにかわかる?」
「……」
わからない。
残念ながら、そこまでエスパーではないかな……。
「大事なのは、作る材料や器具だけがあっても、パンを作ることは出来ないってことなの」
気持ち落ち着きを取り戻したように、羽鳥はすぐに答えを自ら述べた。
そして緑茶畑の中央に、大きく『人』という字を書く。
「生産するためには、作る人が必要なの。で、この時にパンを作る行為のことを、世間の人は一般的に『働く』と呼んでいる。
でも、ここでの『働く』は、あたしが最初に話した『働く』とはちょっと意味が違ってるの。
だから区別するために、ここで言うパンを作る行為のことを『労働』と呼ぶわね」
「労働って聞くと、あんまりイイ感じがしないね」
「そんなことないわよ? 基本的に、労働を加えたらなんでも財の価値は上がるもの。
さっきのパンの話で言うと、小麦とかそういう原材料を全部バラバラに購入して合わせても30円くらいにしかならないと思うの。
だけど労働を加えることで、それが1個100円のパンになる」
「なるほどね。小麦からパンを作るための手間賃が70円分になるってことか」
レストランのメニューを見て、『自分だったら半分の値段で作れるのに!』とかSNSでつぶやく人にこそ一度教えてあげたい内容だなと感じた。
「人は基本的に、労働によって財に付加価値を生んでる。
そしてその付加価値をお金として受け取ることで、稼いでいるってわけ」
「たしかに付加価値がないと、パン屋さんはビジネスにならないもんなぁ」
言いながらプリントに書かれた『付加価値』の説明欄に目を通してみると、例としてミネラルウォーターや、アイドルライブ現場の『空気』を入れた缶詰の話が載っていた。
さっきの質問を直接羽鳥にせずとも、これを読んで解決した。
モノ作りをしているサラリーマンも、レストランで働くキッチンアルバイトの人も、さらには人間国宝クラスの陶芸家だって、すでにあるものに付加価値をつけている人はみんな、労働してお金を稼いでいるってことになるらしい。
サラリーマンとして頑張っている人の中に、この「付加価値」という点から自分の仕事を考えたことがある人がどれだけいるのだろう。
お金を稼いでいるんだという実感を持つ人は、果たして存在しているのだろうか。
少なくとも、はいそうですかと急に持てるものではないんだろうな。
お金を稼いでいる人はみんな、労働によって何かを作っている。
ラーメン屋さんはラーメンを、出版社の人は本を、ブロガーの人は記事をを作って……。
「モノを作ってない人は?」
ここまで考えて、つい口に出してしまった。
「なにが?」
「いや、ブログとかメールマガジンとか書いてお金を稼いでいる人にとっても、それって『財』になるのかなぁ……って。そういうのって実際にモノとして存在してるわけじゃないけどさ」
よく考えてみたら、実在しないモノを作る仕事とか、美容師みたいなそもそも何かを作る仕事ではない仕事も世の中にはたくさん存在する。
そういう人たちは、羽鳥が言うところの『労働』を行っていない人ってことになるのではないだろうか。
「そういうことね。ブログやメルマガを書くことは、『労働』ではないわね。
さっきあたしが言った、小学生の話覚えてる?」
「ああ、『小学生も働いている』っていうやつのこと?」
「そう。モノを作っていない人の働き方はこの小学生とおんなじなの。
どうやって働いてお金を稼いでいるかと言うと……」
ー……下校の時刻となりました。まだ、後者に残っている生徒は……ー
羽鳥の言葉を遮って、軽いザーザー音とともに担任教師の声がスピーカー越しに教室中に響いた。
「今日は時間切れみたいね。続きはまた明日にしましょ」
パタンとノートを閉じて、羽鳥は黒板に書いた丸をひとつ、またひとつと消していった。
最後のひと文字が消えるまで、ぼーっとその光景を眺めていた。
なんとなく、名残惜しかった。
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坂の上の校舎から、下に見える街にライトが灯っているのを見たのは初めてだったかもしれない。
さっきまで橙色だった空に薄黒のベールがかかっているのも、教師用の駐車場に4ぶんの1ほどしか車が停まっていないのも。
「羽鳥ってさ、誰からこういうことを教わったの?」
「こういうことって、オウンドビジネスのこと?」
「そうそう」
「基本は独学だけど、キッカケは先生ね」
「先生?」
「来週にはあなたも会うことになるんじゃないかしら。今はその準備みたいなものだから」
「先生って、この学校の?」
「ええ、そうよ」
「そんな先生がいるなんて知らなかったなぁ」
「知らなかった、じゃなくて、知ろうとしなかった、だけじゃないの?」
羽鳥の発する芯を食った言葉を、ここ数日で何度浴びただろうな。
正直、まだ何もよく知らない。
なぜ今の自分がこんな風に素直に授業を受けているのかも、授業の内容そのものも、どこに興味を持ったから羽鳥が手を引いてきているのかも。
そして、羽鳥自身のことも。
だけど、今日最後に知ったことがひとつ。
「じゃ、あたしの家こっちだから」
「あ、そうなんだ」
「また明日も今日と同じ時間だからね!」
校舎からの坂を降りきったところで、凛とした背中を向けて羽鳥は去っていった。
羽鳥家はどうやら、ウチとは反対方向にあるらしい。
なにかひとつでも知ったことがあれば、それが人生を前に進めている証。
季節感がないと昨日まで託っていた坂道の常緑樹にだってほら、見ようとして見てみると、脇の方にはちゃんと菜の花が咲いている。