#2 オンリーワンダー
人生とは、そんな劇的に変わるもんじゃない。
放課後、忘れ物(進路調査票のことね)を取りに教室に戻った。
そんな何気ない日常のひと幕だった。
そこで出会ったのが、羽鳥。
目鼻だちの整った、それでいてかなり変な女の子。
で、気づけば考え方を改めるよう促され、妙なコミュニティに入るよう打診されていた。
ここまでがつい昨日の話。信じられる?
めちゃくちゃ人生が変わった気がした、それくらい濃い夕方だった。
だけど朝から学校に来てみたところで、別になんら変わっちゃいないと気づいた。
校舎までの上り坂を踏みしめる足取りは、例に漏れず重いまま。
クラスメイト達を見ても、平々凡々な高校生のまま。
『自分なりの』生き方に目覚めているなんて兆候は、どこからも誰からも全く感じなかった。
ちょっぴり拍子抜け。ぜんぶ、いつも通りだ。
だけど意識の変化として気になったことがひとつ。
それは羽鳥という存在そのものだった。
少しだけ注意してクラスメイトの雑談を聞いていると、彼女は思いのほか希有なキャラクターのようだった。
耳をすませば、スクールカースト上位層の男女が、今も羽鳥の噂をしている。
「知ってる? 今朝後輩が羽鳥にコクって振られたらしい」
「見てた見てた。顔を見るなり『あんたは違う』って吐き捨ててたわ」
「あの男子って、下の学年でもかなりイケメンで通ってる子なんでしょ?」
「っていうか男女問わず、羽鳥さんってあの感じなんだってさ」
「マジ? 友達とかも作る気ないのかな?」
「せっかく美人なのに性格キツいなー……ショック……」
「なに? あんた狙ってるの? やめときなって」
……こんな状況下で、誰かと昨日の話を共有する気なんて起こらなかった。
そもそも信じてもらえなさそうだし。
もっとも、自分はスクールカーストの上から2番目と3番目を行き来する程度の存在。
話ができる友達自体がさほど多くないんだけどね。
昨日のこと、家では色々考えた。
考えてみたのは、『クラスメイト全員が、オウンドベースの一員』説。
始業時刻前の朝、教室の扉を開けた途端、全員が拍手で『ようこそ、オウンドベースに!』みたいな垂れ幕とともに拍手で迎え入れる。スクールカーストの上から下までみんなが交代交代に肩をたたいてウェルカムポーズをとってのけ、『いやー、ついにこいつも仲間入りかー』なんてしみじみした顔で満足気にうなづく羽鳥とその取り巻きたち。
……ってところまではさすがにないよね、うん。
我ながらお花畑がすぎた。だけど、遠足の前日にも高校の合格発表前夜にも経験したことのないようなフワフワした感じに包まれていたのは、それなりに事実だった。
ところが、実際は予想をもっと大幅に下回ってくる。下回るというか、まるで何もなかったかのような時計の針の刻み方。上も下もない、『無』だ。
「羽鳥と関わるのはやめておこう」
その場でクラスメイトに採決を取れば、満場一致で決定事項とされる雰囲気だった。ある種、カーストの垣根を越えた団結感が見られるかもしれない。
だけどそうなると、昨日の検討は一切無意味だったことがわかる。どれだけ心の予防線を張っていたって、多少なりともがっかりはする。
ある日目が覚めたら超能力が身に付いていた、なんてことは起こらないってわかってる。
一目惚れというものにだって、その存在は半信半疑。
青天の霹靂、人生が急激に変化するっていうのはドラマの中のお話でしょ?
現実の人生っていうのは、自転車の練習みたいなもんだと思う。
気づいたら変わってた、みたいな感じ?
とにかく、自分の人生よりもまず、昨日の羽鳥と世間(同級生)の抱く羽鳥へのイメージとの違いの方が、はるかに劇的だった。
あーなんか、どっと疲れが……。
とか考えているうちに、携帯が震えた。
渦中の女の子から、メッセージが1件。
『今日の放課後、あなたの教室に集合ね!』
なぜか返信する時、周りの目を気にしながらコソコソしてしまった。
『どうして?』
『昨日の話の続き! あたしが持っている知識を、あなたにも分けてあげる!』
拒絶するか、引き入れるか。活字のやりとりから溢れ出るこちらへの感情は、他のクラスメイトに対するそれとはどうやら真逆。
いや、誰に対しても多少強引でわがままな面があるって部分に関しては共通しているか。
こちらの返事を待たずして追撃のメッセージを送ってくるあたり、性格がよく出てる。
『決定ね! それじゃ、あたし今忙しいからまたあとで!』
ヒット&アウェイ戦法っていうの? それだとニュアンスが違うなぁ、彼女は逃げてるんじゃなくてむしろ向かってきているわけなんだから。
でもまぁ断る理由も特にないし、好奇心も多少はあった。
『オッケー』
だからその話に従って、部活の後に一応教室へも寄っていくことにしたんだ。
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放課後における通常の進行方向から1人逆に、廊下を歩き教室へと進む。
誰もいなくなったであろうタイミングを見計らって部室から教室に戻る際、誰かに理由を聞かれたらなんと返せばイイのかわからないから気恥ずかしい。
それゆえ一旦帰るような素振りをして下駄箱のあたりから引き返してきた。
自意識過剰なことこの上ないけど、落ち合う相手が相手だから。
友達の有無すら怪しい人物との対峙を控えているわけだから。
教室から誰もいなくなる時間は、おおよそ何時何分くらいなのだろう。
第三者と鉢合わせない時間と羽鳥を待たせすぎない時間との折衷めがけたチキンレースに挑みつつ、ノロリノロリと下校生の波を逆流した。
すれ違う教師は総じて、「早く帰れよー」と言葉を投げかけてくる。
あまりに同じことを言われるもんだから、教師みんなが仲良しであるかのように思えた。
つとめて平静を装いつつ教室に入ると、そこには昨日と同じ羽鳥がいた。
机に座って足を組み、背筋をピンと伸ばした、自信にあふれたあの姿。
「えらい! ちゃんと来たわね」
その爽やかさを遺憾なく周囲に溶け込むことに発揮したら、たちまち学園のアイドルになれると思うんだけどな……。
「まぁ、羽鳥の言うことも気になったから」
「オウンドビジネス、興味持ってくれた?」
「『自分だけ』とかはまだ正直ピンと来てないけど、知識は必要だなーとは本当に思う。それがオウンドビジネスへの興味なのかは、まだわかんない」
昨日言われたことを踏まえた、正直な気持ちの吐露だった。
「進路調査票、あれからどうしたの?」
「今朝先生に話したら、もう少し待ってくれるって。『若いうちは悩め悩め!』って、なんか嬉しそうだったよ」
「いいじゃん」
クールでいながらどこか上機嫌にも見える羽鳥。やっぱりクラスメイトが言うほど性格がキツいとは思えない。
『多重人格なの?』って聞くわけにもいかないので、なるたけオブラートに包んで噂の真相に切り込むことにした。
「同じ学校の人たちには、この……オウンドベース? の話はしないの?」
「あなただって同じ学校の人じゃない」
「いやまぁそうだけど、他の人たちは?」
「誰にでも話せばイイってもんじゃないの。一緒の仲間になるためには、あたしの話に共感してもらわないと意味ないもん」
発言内容も、少しすねたような顔をするのも、ごもっともではある。
「みんなは仲間じゃないの?」
この発言で、明らかに羽鳥に火がついた。
「卒業してからこの先、あなたはずっとこのクラスメイト達と頻繁に会い続けると思う? 仲間と生活共同体は違うの。偶然1日のうちの大半の生活スケジュールが合致しているかもしれないけれど、人間性や考え方、理想とする世界が同じであるはずがないわ」
早口でまくしたててはいるが、これまたごもっともである。
事実、小学校を卒業する時に『毎年会おうね』と約束していた友達とはここ2・3年会っていないし、『ずっと一緒にいようね』と書かれたプリクラをSNSに載っけていたクラスメイトのカップルは、その大半がすでに破局とともに過去の投稿を削除していった。
結局そんなもんだよね。
おそらくこの先大人になってからも、『ぜひまた機会があれば!』と口先だけ威勢のいい営業マンや、『ずっと先輩についていきます!』と述べた3年後くらいに颯爽と転職していくエンジニアなど、様々な人間関係を経験していくのだろう。
「だいいち、他の人たちがあたしに影響を受ける必要なんてないの。もう十分幸せそうな人生を歩んでいるじゃない。あたしの発言がかえって迷惑になっちゃう場合だってあるのよ」
「意外と考えてるんだね」
「意外、とは失礼ね」
大きな目を少し細め、腕組みをした羽鳥と目が合ったが、
「その点あなたは良かったわ」
「どうして?」
「朝学校に来てから帰るまで、あなたはずっと『人生割に合わない!』って雰囲気がダダ漏れだったもん」
「……そんなに?」
「自覚がないとは驚いた」
トータル、羽鳥に『仲間』という扱いをされることに悪い気はしなかった。
さっきからひそめていた彼女の眉は、すぐにいつもの形に戻った。
「で、今日は何をするの?」
「まずはあなたに、世の中の仕組みを知ってもらうわ」
羽鳥は自分の通学カバンから左上をクリップでとめた紙の束を取り出すと、それを机にドサッと置いた。
英語の教師がクラス全員に中間テストを返却するときに持って来る分量くらいだったかな。
「何これ?」
「日本の経済と、お金の仕組みを学ぶためのプリントよ。あたしたち高校生が習う内容のおさらいみたいなものだから安心して」
「もしかして、勉強するの?」
「当たり前じゃない! 労働について何も知らないまま、自分なりの働き方が見つけられると思ってるの?」
「それくらい、働き始めたら自然と身に付いていくんじゃ……?」
「自然と身に付くわけがないじゃない。もしかして、放っておいても誰かが教えてくれると思ってる? だとしたら考えが甘いわよ。知識がない人は、知識がある人に教えてもらえるどころか利用される運命なの。たとえば、パソコンの設置が出来ない老人が、高額のよくわからない契約を結ばされていたって事件が前にあったでしょ? あれとおんなじ、仕事でも、知らなかったから損をした、ってことがたくさんが起こるの」
まるでサラリーマンを経験したような物言いだったな。
きっと『オウンドベース』とやらのコミュニティの中に、失敗を経験した人がいるのだろう。
「でも今は他の勉強もあるし……」
「そうやって先延ばしにしてちゃダメ!」
詰め寄る威圧感はさすがのものだ。
「そこそこの人生を歩んじゃう人は、すぐ何かにつけて言い訳するの。他にやることがある、とか、張り切りすぎるのはよくない、とか、現状維持で行動しない理由を探す」
「勉強しないとは言ってないよ」
「なら今すぐ実行! じゃないとあなたはいつまでも、選ばれるのを待つだけの人間でいることになるわよ」
こういうところが羽鳥のすごさでもあり、強さなんだと思う。
彼女はいつでも『選ぶ側』でいようとしているんだ。
人の顔色ばっかりうかがって、事なかれ主義で、よく言えばそつなく、悪く言えば八方美人にものごとをこなしていく身としては、羨ましい限りだ。
「わかった、やるよ」
渋々ながら返事をしたけど、心のどこかでは、羽鳥みたいになりたいって思ってたんだろうな。
その証拠にほら、『そうこなくっちゃ!』って両手をパンと合わせた羽鳥を見て、なんだか頬が温かくなった気がした。
キッカケなんて、いつもこんなもんだよね。
やってよかったって最後に思えたら、始まりなんてたいしたことではないんだ。
「じゃあそのプリントだけもらっていくよ、帰って読んで……」
やる気も見せたし、さぁ帰ろうとしたんだけど、羽鳥は一切その場を動こうという素振りは見せない。
それどころか顎の当たりに手を当てて、うーんと考え込んでいる。
「……あの、羽鳥?」
「うん? どこか行くの?」
「いや、帰るんだけど」
「はぁ? 何言ってるの? 今から授業よ」
この時ばかりは、大きな瞳の羽鳥に負けないくらい目が丸くなったんじゃなかろうか。
「え、これ自習じゃないの?」
「あなたのことだから、どうせ何かにつけて読むのに時間かかるでしょ」
「いやいや、そんなことないから」
「そんなことある! 人に厳しく自分に甘い、目を見りゃわかるわよ」
占い師かエスパーなの?
「ってことで、今日から3日間は特別に、あたしが授業をしてあげます」
「3日!?」
「少ない?」
どうしてそうなる。どうして心から、そんなに真剣な顔が出来る。
「……いや、3日間、頑張ります……」
羽鳥には負けたよ。だって、授業するって言うなり広げたノートを見てしまったから。
めちゃくちゃ色々書き込んでて、『ここは絶対伝える!』ってメモ書きが目に入っちゃったから。
多分今日に向けて色々準備してくれてたんだね。
人生を本気で、動かそうとしてくれてるんだね。
「学んで欲しいこととしては、財やサービスについてと、株式会社、あとは資本主義と日本のサラリーマンの雇用体系、色々あるけど、まずは『労働』とは何かってところから初めていくわね」
椅子を引いて指差された場所に座るなり、羽鳥は黒板の前に立ってチョークを握った。
「人生、変えにいくわよ!」
夕方の涼しい気候と相まって、羽鳥のその声はとても冴え渡って聞こえた。
改めて、人生の歩み方と、自転車の乗り方は似ている気がするんだ。
最初は補助輪があって、誰かに支えてもらって、いつのまにか補助輪は取れていて、支えがなくてもひとりで前に進めるようになる。
たまたま今回選んだ補助輪は、そのへんの代物より頑固でわがままで、なによりピカピカだった。それだけなんだ。
この時、どうして今の羽鳥があるのか、人生のことはまだ何も知らなかったわけなんだけど、少なくとも校内放送や下校する生徒の声が耳に入らないくらい、羽鳥の教え方は上手だということだけは知れた。
この先もまだいろいろ言いたいことは出て来るけれど、一応感謝はしておこうかな。
いつか同じスピードで、なんなら追い越すくらい速く、強く、人生を漕げるようになるから。
物語の追体験、同じもの。読めば何かが変わる。
読まなければ何も変わらないから、変わりたくないなら読まなければ良い。
仕事で疲れた。寝不足で眠い。明日起きるのが早い。気分が乗らない。
他に読みたい雑誌がある。次のデートの店を決めなきゃ。
今は怒られてテンションが低い。なんだかんだ大丈夫だと思っている。
何十という選択肢と、何百という可能性から、結局選ぶのはたったひとつの現状維持?
10年後の自分に恥じないように生きよう。
10年後の自分はきっと、10年前の自分が行動することを望んでいる。
心のどこかでわかっている。今の自分が変わりたいと思っていることを。
疲労で垂れ下がった手を伸ばして 画面に広がる活字のそばに自分を追い込んで。
全身にまみれた世間という汚泥に気づければ、今より少々の泥臭さなどまったく気にならなくなる。
変わろうと磨き続けたならば、今より汚れることなんてありえないんだ。