#1 ファーストコール
人生なんて、まったく割に合わない。
校舎へと続く無駄にうねった坂道を登りながら、ひとりつぶやいた。
今月から、自分もいつのまにやら高校3年生。
反抗期も中二病もいい加減終わりをむかえるべき年頃かもしれない。
だけどいまだに、人生割に合わないとかそんな風に考えてしまう。
だってこの上り坂、入学当初から毎朝歩いてもいまだ一向に慣れないんだよね……。1日のはじまりを象徴するには、いささかエネルギーを奪いすぎじゃないのか、と悪意を感じずにはいられない。
坂道の両側から出迎えてくるのは、いつでも名も知れぬ常緑樹たち。
「日本には四季という素晴らしいものがあります」なんて言うのなら、せめて桜とかいう風情あるもののひとつでも植えて春の高揚感をアシストしてほしいものだと思う。
まぁ人生に文句を言う原因は、これだけじゃないんだけど。
華の高校生? とか言われるけど、今の生活はいわゆる『リア充』からはほど遠い。
「今頑張っておけば後々楽になるから」
なんて親や大人達にそそのかされ、昔ちょっとだけ勉強した結果通っているのが今の高校。
進学実績がどうこうとか、母校の出身者が誰それとか、そんなの何も知らない。
将来への目標とか憧れとかから選んだわけじゃない。
決めた理由は、ただ、『そこにあったから』。
全国の登山家が聞いたら、「一緒にするな」とクレームを入れてきそうなものだった。
暑い日も寒い日も、学校指定の決まりきった服に袖を通してきた。
そして気づけば3年が経っていて……。
楽になった実感なんて1ミクロンもないんだけど、どうなってるの?
そんな憂鬱な気持ちのまま教室に入り、すぐに始業のチャイムが鳴った。始業式から数日たった今、初期段階特有の短縮授業なんてものもなくなった。今日からはまた単調な日々だ。
陰鬱で瀕死の状態の中、とどめを刺してきたのは、担任の数学教師だった。
「今日はこのクラスのみんなに、将来の進路を書いてもらうぞ!」
朝イチのホームルームから、現実を突きつけてくるなんていい趣味している。
『進路調査』ねぇ……。
クラスメイト達は、いわゆる普通の高校生ばかりだった。
最高学年としての自覚なんてまだあるように見えない。
学生気分のお気楽感情、だから進路なんてピンと来ていない様子。
教室中が、卒業を意識して軽くざわつく。
そもそもウチの学校の生徒はほとんど大学受験をするんだから、漫画みたいなベタな進路調査なんて意味ないんじゃないの?
同じ考えだった人は、他にもいたのかもしれない。
そんな不平不満を察してかしないでか、担任の小柄な男性は、黒板に大きく『仕事』という文字を大きく書いて語り始めた。
「キミたちは若いんだから、何でも出来る。まずは今配った進路調査票に、自分が将来就きたい仕事を自由に書いて提出してくれ」
ムダに熱い。4月だというのに。ますます四季の彩りが遠のく。
世間の言う『自由』ほど不自由なものはないと思う。
たとえば、水泳の『自由』型と言われたら、みんな十中八九クロールを思い浮かべる。
『自由』に作文を書けと小学生に言っても、みんなネットで調べた同じような感想しか並び立てない。
世間は自由が苦手。命令に従ってる方が楽だもんね。
ホントはイヤだけど……。
将来の仕事、もし「サーカス団のピエロになりたいです」と書いて提出したらどうなるだろう?
この担任は、今と同じだけの熱量をもって夢を応援してくれるのかな。
「生徒のために、体育の授業を玉乗りや綱渡りにしてください!」
とか、校長先生に進言してくれるなら、心から良い先生だと賞賛しようかな。
……なんて冷めた目で見るクセはあるんだけど、あくまで考えてるだけ。
先生の神経を逆撫でして、怒られるのはごめんだ。
だからって、
「人の夢って書いて儚いって読むんだよね」
とかのたまっている前の席のメガネ君ほど、センチメンタルでポエミックなロマンチストかつペシミストにもなれない。
仕方ないから、とりあえず進路調査票には『サラリーマン』とだけ書いて提出することにした。
自由とか言いながら、暗黙のルールは存在する。
それに従うしかないんだもん。
他の案なんて持ってないし、持っていたとしても行動するかは別問題。
みんなだってそうでしょ?
普通に進学して、普通に会社で働いて、普通に手が届きそうな夢を持って、夢に共感してくれる普通の友達と普通の居酒屋で普通に酒を飲んで、普通の恋人を作って、普通に結婚して、普通の家に住んで、普通に笑って、普通に泣いて、普通に怒って、普通に楽しんで、そして普通のお墓で普通に眠る。
誰だってそうなるもんだと思うでしょ?
普通の人生なんて割に合わないけど、逆らえないしどうしようもない。
そう思ってたんだ、この時までは。
そのあとは、ごく普通の青春の1ページを過ごした。
古文単語の暗記をもう少し早くからやっておいたらよかったな、と授業中に後悔した。
数学の小テストがそこそこの点数だったのでホッとした。
昼休みには、中庭でお弁当を食べながら友達とおしゃべりした。
友人の甘酸っぱい恋の話を冷やかし、旅行に行く約束をした。
放課後には部活に行った。後輩が何人か入ってきた。
そんな感じの1日。
10年後にはきっと、特に記憶にも残っていないような1日。
だけど、このあと起こることは、10年後もきっと覚えていることだろう。
その日の部活終わり。
もうすぐ引退かー、なんて部活仲間数人とだべりながら廊下を闊歩していた。
そして、下駄箱にたどり着いたところで気づいたんだ。
朝にもらった進路調査票、教室の机の上に置きっぱなしだ。
特に内容のない紙切れ1枚だけど、誰かに見られるのは恥ずかしい。だから、取りに戻ることにした。
友達には先に帰るよう促し、来た道を小走りで戻り、階段を1段飛ばしでかけ上がり、急いで教室に着いた。
終業時刻から時間はかなり経っている。
ここまでの間に誰かにチラ見をされていた可能性はまぁ否定できないけれど、まさか教室で誰かと鉢合わせるなんてことはないだろう。
教室の引き戸を恐る恐る開ける。
よかった、誰もいなかった。
1日の大半を同じ場所で過ごすのに、解放後もなお同じ場所にとどまる物好きなんて、さほどいない。
机の上にA4用紙が無造作に置かれている。
『サラリーマン』という、夢とも現実とも言えない『仕事』が書かれている。
紙を手に取り、文字を眺めながら教室を出ようとした。
そのとき初めて、その澄んだ声を聞いた。
「サラリーマンになるのが夢なの!?」
悔しいけど、調査票を置き忘れて本当によかったと思ってるよ。
肩の辺りで切りそろえられた黒い髪。
黒く輝く大きな瞳と長いまつげ。
ハッキリした鼻筋と薄ピンクの唇が顔のバランスを整えている。
衝撃というか憧れに近い感情さえ覚えた気がする。
かわいいと美人を顔の上でキレイにブレンドすると、きっとこんなに眩しくなるんだろうな。
沈む夕陽が全身を照らす。
異性同性を問わず100点の女の子が、そこにいた。
「誰……ですか?」
調査票を見られた怒りよりも、まず驚きの方が大きかったね。
「私? 隣のクラスの羽鳥よ、覚えといて」
羽鳥の名前は聞いたことがあった。それも数日前に。
『高3デビューした女の子がいる!』。
最高学年になった始業式の日、唐突に教室およびフロア中を駆け巡った噂の出所が、今目の前にいる女の子らしい。
どうしてこんな中途半端な時期に『デビュー』?、なんて愚問をことごとく弾き返し、切り払い、なぎ倒していけるほどのポテンシャルが湧きたち躍っている。
役者は遅れてくるものだ、とか言うけれど、まさかここまで人を呆気にとるような美貌の持ち主だったとは。
学校指定のダサいセーラー服すら完璧に着こなすその姿。
今月の学年女子人気ランキングのダークホースとして、男子の間で大躍進することだろう。
「で、あなたの夢ってサラリーマンなの?」
近寄ってきた羽鳥は、思ったよりも背が低い。
しかし胸を張った立ち居振る舞いが、気の強さとオーラを醸し出している。
「いや、夢ってほどじゃ……」
「じゃあなんでサラリーマンって書いたの? 悪ふざけ?」
真剣なまなざし。
「だってそれが普通じゃん。良い会社に就職して、良い生活がしたいって、誰でも思うでしょ」
「私は全く思わないけど。良い会社に就職しても、その会社が倒産するかもしれないし、そもそも給料をもらって、欲しいものを買って、お金が足りなくなったら会社の文句を言って……みたいな繰り返しって、良い生活かしら?」
「それって、サラリーマンになるのが悪いってこと?」
「誰も悪いなんて言ってないじゃない。めちゃくちゃ立派だと思うわよ」
なんだこの子は。会話の方向性がまるっきり読めない。
どうやら、お説教をしたいわけではなさそうだ。
「サラリーマンとして働くのは間違っている!」とか、「もっと良い稼ぎ方がある!」とか、そういうことを言いたい様子はない。
じゃあいったい何を……?
「私の仲間も起業して会社を辞めたけど、それまでは『サラリーマン』として誇りを持っていたしね。意志とか目的のあるサラリーマンなら良いの」
羽鳥にはずいぶん年上の仲間がいるんですね、と感じたのは少し経ったあと。
それよりもまず、煽られていることに対して少々の憤りを覚えた。
「結局何が言いたいの?」
「あなたが思い描いてる『働く』って、『自由』かしら?」
「自由?」
「割に合ってるのか、ってこと!」
羽鳥は机越しに身を乗り出してきた。
目を見ていると、吸い込まれてしまいそうだった。
そして、初めて会話を交わす目の前の子に、ぐうの音も出ない自分に気づく。
サラリーマンになることには、確かに疑問を持っている。
毎日満員電車に乗って、自分のせいではないのにただ頭を下げて、上司にも部下にも顔色を伺うようなことばっかりして、とにかくしんどそう。
かといって何かを対策するわけでもなく、やることといったら、
「あいつら何もわかってない。本当はもっとやれるんだ!」
って、飲み会で愚痴をこぼすだけ。
あんな大人にはなりたくない。
割に合った人生を歩みたい。
『自由な』生き方がしたい。
『自由な』働き方がしたい。
でも、代替案が思い浮かばない。
このままでいいのか。
「割にはあってない……と思う」
「でしょ? だったら変わらなきゃ!」
お説教ではなく、それは啓発に近かったのだろう。
でもそのとき、脳内の一番多くを占めていたことは、羽鳥について。
笑った顔に浮かぶ目元の柔らかいシワも頬のえくぼ。
正直めちゃくちゃかわいかった。
「そう言う羽鳥は何て書いたの、将来の仕事」
見とれている場合ではないと思い、逆に質問してみる。
「私はね、『オウンドビジネス』!」
「『オウンドビジネス』?」
「自分にしか出来ない働き方ってこと!」
抽象的な概念だなという気はしたが、目は変わらず大マジだ。
羽鳥はさらに説明を加えてきた。
「たとえば、同級生の人たちはこの先いろんな道に進んでいくわよね? どんな道を選んでも最後はきっとみんな幸せになると思うわよ。だけどそのゴール地点はハッキリ2パターンに分かれるの。それは、『自分の働きに誇りを持って大成功する人』と『なんの意志も無く漠然と働いてそこそこ成功する人』。大成功する人はきっと、社長や重役クラスになるわ。でも、そこそこ成功する人は担当部長か係長クラス止まりかしらね」
自信満々な物言いだった。
「で、その大成功する人はみんな『オウンドビジネス』をする人だってこと?」
「そういうこと。でもその前に、成功するための条件って何か、考えたことない?どうすれば人生、割に合うかなーって」
「うーん……才能とか努力とか、そんなんじゃないの?」
「全ッ然違うわ!」
「じゃあ、成功したいって、強く願って行動してたとか?」
「それも大事でしょうけど、そんな神頼みみたいなことじゃないの」
羽鳥は白いチョークを手に取って、後ろの黒板に大きく文字を書く。
「それは、『知識』なの。そしてその知識を、どうやって活かすかなの。結局それも、『知識の活用方法』っていう知識ね。これは学校じゃ教えてくれない。サインコサインタンジェントを使った三角関数が解けたところで実生活じゃそんなの話題にものぼらないし、古文単語を使う仕事につきたいと思ったら、学校の勉強なんかじゃ中途半端。でも、多くの人がそれで『知識は十分』だと思い込んでいるの。なぜなら、それを教えるもっと多くの大人達が、『それで知識は十分』だと思い込んでいるから。世間はその繰り返しで出来ている。だからあなたが自分の意志で変わろうとしなくちゃ! 知識を身につけようと思わなくっちゃ!」
語っている羽鳥は、同い年に見えなかった。
思わず「先生!」って呼ぶところだった。
きっとここが教室ではなく駅前の演説カーの上だったとしても、同じように立ち止まった大群衆はこの教室さながらに静まりかえっていたと思う。
で、思わず羽鳥に聞いてしまった。
思い返すと、それが「はじまりの一歩」だったんだろうな。
「その知識って、どうやったら身に付くの?」
「あなたも、『オウンドベース』に来なさい!」
またも耳慣れない単語。
今日だけで、羽鳥関連のワード知識は結構身に付いたんじゃないだろうか。
「『オウンドベース』って?」
「私たちのコミュニティみたいなものよ。みんなで一緒に、自分たちに何が出来るか、どんな風に働けば理想に近づけるかについて考えてる」
「そこでは何をしてるの?」
「基本的な経済の知識から、今のあなたが知らないような仕事の内容、自分の得意なこと苦手なことを、あなたがこれまで会ったことのないような人たちみんなで意見を交換してるわ」
「そっか」
「だからあなたも来ればいじゃない! オウンドベースに!」
これまで羽鳥を照らしていた夕陽はまもなく落ちてしまいそうになっていた。
蛍光灯の光が点される。
それは以前にも増して、羽鳥の白くて華奢な両腕を白く輝かせていた。
「……考えとく」
それだけ答えた瞬間に、タイミングよく下校のチャイムが鳴った。
そりゃいきなりだもん。
よくわからないものにイチニのサンで飛び込んで、短絡的にその手をつかんで走り出せるような熱血青春要素はあいにく持ち合わせてないんだ。
「わかった、じゃあ今日のところはこのへんにしといてあげる」
明日も何かあるのだろうか、なんて思いを馳せるのも待たず、羽鳥は黒板の文字を消して教室を出ようとしていた。
一度決めたらテコでも動かそうな片鱗は、この頃からあったなそういえば。
引き止めるつもりはなかったんだけど、なんとなく聞いてしまった。
「あのさ、羽鳥はどうして話しかけてきたの?」
振り返った羽鳥は、笑顔で答えた。
「だってあなた、真剣に考えてくれそうなんだもん。『働き方』とか『自由』とか、『人生』のこと!」
さっき見た満面の笑みとはまた違っていた。
熱意ともまた違う、つつけばすぐに崩れてしまいそうな柔らかさ。
こうして、普通の道からはちょっとだけ外れた物語は幕を開けた。
キッカケなんて些細なことだけど、
衝撃的なんかじゃ全然ないけれど、
羽鳥が教室を出ていった瞬間に窓から吹き込んだ突風を肌に受けながら、
膨らむカーテンを横目に見ながら、
確かに感じたんだ。
人生って、変わるんだって、ね。
残念なことに、今のままじゃキミは主人公になれない。
それはまだ、「変われたらなぁ......」と夢見ているだけだから。
受け身の人間を救うほど、運命というやつはヒマじゃない。
同じ作業を繰り返し、変化が起こるのを待っている。 そんな毎日、RPGの村人Aと同じじゃないか。
同じ場所を何度も移動し、同じ言葉を愚直に繰る。 そうなるために生まれてきたのか?
主人公になりたがる自分を、何人見て見ぬフリしてきた? 何度自分を殺してきた?
そうして歳をとって、限られた範囲での成功っぽいものを見つけて、
それに「理想」ってラベルを貼って、人を妬み、そして見下す。
幸いキミは、まだ動ける。世間に壊されきっちゃいないはずだ。
疲労でかすんだ目を凝らして 画面に広がる活字の群れに自分を放り込んで。
世間という汚泥の中から、ひとすくいの輝く生き方を見つけたとき、
そのときが、キミにとってのはじまりの一歩だ。