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俺は腹がへったので、一階に下りて行った。
正確に言うと、腹がへったであろう時間が経過しているから食べ物を探しに下りたのだ。
そもそも食べたいとか、そろそろ食べなきゃ、とかそういう感情は湧かなかった。のども乾いているし、それなりに時間が経っているから、腹になにか入れておこう、というだけだった。
一階は誰もいなかった。
居ない時間を見計らって下りているのだから、居なくて当然だった。
母、父、妹…… それぞれずいぶんと長く会っていない。父母は俺が引きこもった三年前ぐらいからずっと、妹は二ヶ月ぐらいは会っていないだろうか。けれど寂しくはない。他の人間は、よく人と関わる煩わしさに耐えられるな、と思うくらいだ。俺にとっては人と関わるくらいなら一人でいる方が何倍もマシだった。
食パンと卵があったので、目玉焼きとトーストを作った。
目玉焼きには中濃ソースをたっぷりとかけた。
うまくも不味くもないが、食べ終わるころ、一階のふすまを開けて妹が出てきた。
「?」
妹は、少し慌てたような顔をしていた。どうやら、俺と会話しようとして戸惑っているようだった。
俺は何も言わすに食器を流しに置いて、二階に上がっていった。
数段上がったところで、後ろを振り返ると、妹がちらっとこっちを見た。
「……」
少しなんの意味かを考えたが、そのまま無視して二階に上がった。
布団に入ると、俺は寝ていた。
引きこもった当初は、父も母も、部屋の外から就職しろとうるさく言っていたが、一年も経つとそんなことすらなくなった。お互いが無関心になって、干渉しなくなっていた。
父と母の喧嘩、妹と母の喧嘩。父が妹の服装を注意する声。
そういう俺の部屋の外の喧噪については、まったく関心がなくなっていた。
外の音には全く関心がなかったのだが、その日の夜は少し様子が違った。
何やら唸るような声で、部屋のすぐ近くから声がしていた。女の声だが、母でも妹の声でもどちらでもないよう思えた。ただ、声は地声ではないから、母が出しているといえばそうも思えたし、そういう意味では妹でもおかしくはなかった。もし、まったくの他人が上がり込んでそんなことをしている、という可能性もあった。
お線香の匂いではないが、何か煙を焚いているように扉から匂いが入ってくる。
ただ、起き上がって何をしているか確かめる気力はなかった。
母、妹、第三者。どのパターンであっても面倒で非常に厄介なことになりそうだった。
「……」
俺は布団を頭まで被って寝た。
何回か、声の抑揚が高まる場面があり、その時は布団のなかでさらに耳を手を当てた。
しかし、その声は、まるで俺の頭の中を直撃するように聞こえてきた。
「うるさい!」
俺は布団から顔を出して、自分の部屋の天井に向かってそう叫んだ。
そとの声がぴたりと止まった。
俺はもう一度布団をかぶったが、聞こえないはずの声が頭の中に何度も繰り返されて、なかなか寝れなくなっていた。
頭のなかでリピートする声に疲れたころ、自然と寝ていた。
日中に一度目が覚めたが、布団の中でグズグズしているうちにまた寝てしまった。
次に起きた時、俺は時計を見て、父も妹もいないだろうと予測し、部屋を出て一階に下りた。
冷蔵庫を開けて、卵を取り、おいてあった食パンを取り出した。
「……」
ふと、昨日の卵の個数、食パンの枚数を思い出した。
俺が食った後、誰も卵、食パンを食べていない。
食器は洗われて、立てられ、水が切れるのを待っているようだった。だが、そこにある食器は昨日俺が使ったものだけだった。そう言えば…… 俺は気が付いた。
卵はなくなると補充され、食パンも無くなると買ってきているようだった。
おそらく、母がそうしてくれているはずだ。
しかし、その減り方を思い出すと、昨日と今日と同じなのだ。
つまり、この家で食事をしているのは俺一人…… ということになる。
いや、そんなことはない。
俺は思い返した。
食パンが俺が食べた以上になくなっていることはなかったが、米びつに入っている米は減っている。
俺以外の食器もたまに現れて立てかけられているのは見たことがある。
けど……
なにか数が少なすぎる。
少なくともあと三人、この家で生活をしているのだとしたら、食器の使われ方が三倍あってもおかしくない。
俺は気になって風呂場の方へ行った。
洗濯ものの数だ。
俺は外にも出ないし、ろくに動かないからほとんど着替えることがない。
着替えるが、5日とか、一週間とか着っぱなしが普通で気にすることもなかった。
洗濯用のカゴには着替えたような様子がない。
洗っていない服や下着が置かれていないのだ。
母が洗った、確かにたまたま今日洗ったのかもしれない。
俺は庭を見てみる。
何が干されているわけでもない。
干して、取り込んだ後なのだろうか。
しばらく庭を見つめていると、俺は疲れてしまった。
もうそれ以上考えないことにし、目玉焼きを作って、トーストと一緒に食べた。
食べ終わると、満たされた気分になって二階にあがり、部屋に入って寝てしまった。
夜中、俺は気分が悪くなって目が覚めた。
昨日と同じ香の匂いがした。
だが、耳を澄ましても念仏のような、あの低い唸り声のようなものは聞こえてこなかった。
もし部屋の外に誰かいるとしたら面倒だ、俺はそう思って布団をかぶって耳を押さえた。何も聞こえないのに。
そして、耳を押さえているうちに疲れて寝てしまった。
再び起きた時、俺は時計を見た。
父も妹ももう会社に出ている、そう確信してから、部屋を出て一階に降りる。
食器は俺が使った皿と箸すらなかった。洗って食器棚にしまわれていた。
俺は昨日と同じように風呂場へ行って、洗濯用のカゴをみた。
何も増えていない。
俺は時計を見る。
父と妹は会社に出ただろうが、洗濯をして、干して、取り込んで…… という作業がすべて終わっているほど時間はないはずだった。夜中に洗濯して、部屋干ししているのなら話は分かるが、部屋干しするならそれなりの仕組みが中に必要なはずだ。
俺は同じように庭の物干しざおを見た。
何が干されているわけでもない。というより、何も変わっていない……
まるで同じ時間を何度も過ごしているような錯覚が頭の中に過ぎるが、食パンと卵の数は減っている。
確実に、昨日から一日経っているのだ。
寂しいとは異なる感情が、俺の中に湧き上がってくる。
この家に住んでいるのは、俺だけなんじゃないのか……
いや、まさか。
食パンと卵を買い足したり、俺の使った食器を洗っている人物がいる。
その人物が洗濯もしているに違いない。だから洗濯カゴに汚れものが溜まっていないのだ。
そこまで考えて、俺は疲れてしまった。
いつものように目玉焼きを作り、トーストをつくり、中濃ソースを目玉焼きにかけた。
食べて、腹が満たされると二階に上がり、部屋に戻って布団に入った。
布団に入ると、間もなく眠っていた。