ドクユリ
『それじゃあ、私と付き合おうよ?』
そんな言葉を投げ掛けられて、早二ヶ月が経過した。あの日から友梨は、おかしくなった気がする。いや、本当は私が気付かなかっただけで、もっと早くから彼女は狂っていたのかもしれない。
今日もまた、帰ってきてしまった。きっとまた長い夜が来る。逃げ出したいが、そうすればどうなるのかさえ危うい。ドアノブに手を乗せて、深いため息を一つ吐くと、私は玄関の扉を、ゆっくりと気づかれないように開いた。どうせ、中に入ればそんなこと、全く意味を成すことはないのに。
この部屋に引っ越してから、もうすぐ一年が経つ。月三万八千円。ワンケーの賃貸マンションだ。元々は一人で生活するはずだったのだが、ある日からその日常と、ある意味色々な夢はぶち壊されてしまった。結局、昔からの馴染みで追い出すこともできず、どうすればいいかをずっと悩んでしまっていてこの様である。
「あ、おかえり愛奈ー」
奥の部屋へと入る。先に帰ってきていた同居人の友梨が、私のベッドの上で横になりスマホでテレビを見ながら、適当な声をあげた。私よりも身長は低くて、茶色っ気が入る髪のポニーテールが可愛らしい、至って普通の可愛い女の子だ。一見、妹にだって見えてしまうような幼い体型である。実際に実妹がいる私にとって、もう一人の妹が出来たような感覚だった。……最初だけは。
「ただいま。友梨、バイトどうだった?」
テーブルの前に座って、縛っていた髪を解く。肩まで垂れた髪が邪魔であるが、だからと言って部屋で縛っているのも窮屈だ。そう自分に言い聞かせては、数年間髪型を変える勇気を出せずにいる。
「いつも通りだよ」
「そっか。ならいいんだ」
「……でもさぁ」
横になっていた友梨が起き上がる。その瞬間、私は察した。また始まる。今日もまた目覚めるのだ、あの“ドクユリ”が。私は一つ、生唾をゴクリと飲み込んだ。
「今日はやけにカップルが多かったんだよね。みんなヘラヘラ笑っちゃってさ。ホント、バッカみたい。どうして愛奈の良さにも気づけないような連中が、あんなにも笑っていられるんだろうね?」
ヘッと口元を吊り上げて笑う。その表情は、まるで別人である。
友梨は時々、私以外の人をこうやってゴミのように扱う。私だけに見せる友梨とは違い、よくサスペンスドラマなどに出てくる加害者のような人になるのだ。そんな友梨を私は、心中で“ドクユリ”と呼んでいる。
「あぁ、あと。愛奈の自称友達の明美ちゃん? だったっけ。あの子が今日お店に来てさー。『愛奈を拘束するのはやめて!』って、バカなこと言ってくれちゃってさ。だから私言い返したんだぁ。『拘束してんのはあんただろ! 愛奈のことを何も知らないくせに、友達ぶってんじゃない!』ってね。そしたらその子、涙目で帰っていっちゃったよ。ははっ」
「……そう、なんだ」
――はぁ、後で明美に謝っとかないと。
心の中でため息を吐く。これで被害者は三人目だ。以前にも二人、こんな風に友梨を説得しに行っては、結局言い返せずに帰ってしまったという。私のことを思っての行動なのはありがたいが、やめろと言っているのに、何度言ってもそれを聞かない友人達も同等な気がする。
「あ、そうそう。愛奈のためにお風呂沸かしといたよ。先に入っちゃって。その間、愛奈のために夜ご飯作っておくから」
「……うん、分かった」
そんな友梨に促されるまま、私は逃げるようにその場を去った。
「はぁ……」
首まで深く湯船につかる。こんな生活になったのも流石に慣れたが、その度に疲れとストレスは増す一方だ。
友梨とは、小学校からの幼馴染だった。だった、と言うのは、高校を卒業して友梨は一度、オーストラリアに留学したのだ。それから二年ほど連絡もせずに、のんびりと生活をしていたある日。三ヶ月前に突然友梨は日本に帰ってきては、私の一人暮らしをする家を突き止めてまでやってきて、一緒に生活しようと言いだした。
正直なところ。中学、高校と同じ学校に通いはしたが、そこまで特別仲がよかったわけではなかった。会えば一言二言会話をするだけの、普通の関係だったのだ。
彼女がオーストラリアに行くと聞いた時も、それほど寂しさというものもなく、ただ「へぇ」「ふぅん、そうなんだ」といった感覚だった。なので、私の家までやってきた時の驚きは、そんな半端なものではなかった。
その時私は、唐突に一緒に暮らそうと言ってきた彼女の言葉を聞いて、自分の耳を疑った。今までそれほど関わったことが無い人との共同生活なんて、想像すらしていなかったのだから。
だが最初こそ嫌だったものの、意外と一緒に暮らしてみると楽しくて、居心地は悪くなかった。改めて第一印象はそれほど悪くなかったし、もっと仲良くなれるかもしれないと思っていた。
そして、話は二ヶ月前に遡る。当時私には、付き合って一年半であった彼氏がいた。同じ大学に通っていた人だったが、「性格がやっぱり合わない」を理由に、何故か突然フラれてしまったのだ。
その夜、家で落ち込んでいる私に、彼女はこう言った。あの日彼女は、まるで人が変わったかのように、妙なことを言い出し始めたのだ。
二ヶ月前――。
「それじゃあ、私と付き合おうよ?」
「……何言ってるの?」
「そのまんまだよ! そんな愛奈の良さが分からないクソ野郎なんか捨てちゃって、私と付き合おうよ!」
「クソ野郎……?」
「そうだよ! 私、愛奈のためなら何でもするよ? 家事でも、買い物でも、何でもしてあげる。愛奈のためならバイトして、お金だって貯めてあげる! だから、そんなに落ち込まないで……?」
「あの人はクソ野郎なんかじゃないよ! いつも優しくて、一緒にいて楽しかったのに……」
「……愛奈。それは嘘だよ」
「嘘……?」
「そうだよ。そいつは愛奈と一緒にいただけで、愛奈で暇つぶししてただけなんだよ。結局愛奈の良さに気が付かないまま、何が『性格が合わないから』よ? 愛奈のことが分からなかったのはそっちじゃない。愛奈は何も悪くないよ。だから、落ち込まないで? 私がこれからそばにいてあげるから、心配しなくていいからね?」
「……うん」
――何であの時、頷いちゃったのかな?
友梨の慰めのおかげで、彼との別れとはきっかり決別することができた。多少なりとも、私は彼女に感謝している。
だが一方できっと、あの頷きで友梨は、自分と付き合うということに了解したと認識したのだろう。それ故に、その日から彼女の態度が一変した。平気で私に向かって露出して体を見せてくるし、私に小さなことでも何かあると、大げさに騒ぐようになった。それはもう友達の域を超えた領域のもので、こちらのほうが疲れてしまうほどだ。
そうして、結局打開策も見つけられないまま現在に至る。きっとこのままでは一生、彼女に浸かれたままになってしまうだろう。そうなってからでは遅い。
「……上がるか」
独り言を呟くと、私は湯船から立ち上がり、ゆっくりと風呂場を出た。
「お、愛奈。どうだった? 気持ちよかった?」
台所で何やら、ステンレス製の鍋をグツグツ煮ている友梨がこちらに呼びかけた。恐らく、味噌汁でも作っているのだろう。
「うん、よかったよ」
「それはよかった! 愛奈に喜んでもらえて、私は感激だよ」
「……そっか」
テーブルの前に座ると、その上に小さい鏡を置いた。いつも使っているケースを取り出して、その中から化粧水を取り出しては肌に塗り始める。
台所の音だけが部屋に響く。偶に訪れる、彼女と会話をしないこの時間が救いだ。いっそのことこのまま、静かな部屋にいたい。一人だけの空間が欲しい。そんな切な願いも神には届かず、台所にいる友梨がこちらに話しかけてきた。
「そうだ、愛奈。来週の金曜日のバイト、夜勤当番だよね?」
「ん、そうだけど」
「その夜勤当番さぁ、どうにかできないの?」
「……どうして?」
「だって、夜一緒に眠れないんでしょ? 私寂しくて嫌だもん。私、ずっと愛奈と一緒にいたい」
「そんなこと言われても……二週間に一回の当番だもん、仕方ないよ」
「……そっか、そうだよね」
意外にもすぐに友梨は引き下がると、再び台所と向き合い始めた。どうしたのだろう、今日はやけに珍しい。疑問には思ったが、特に追及することもなくそのまま、何気ない時間を過ごした。
再び台所の音だけが響く空間がしばらく続いた後、友梨が作った夜ご飯がテーブルに並んだ。いつも通りシンプルで、ご飯にジャガイモと玉ねぎの味噌汁、だし巻き卵にウィンナーが二人分置かれた。
「それじゃあ、いただきまーす」
「……いただきます」
私は早速、友梨の作っただし巻き卵を一口、口に入れた。美味しい。だしの量も焼き加減も完璧だ。性格は性格だが、相変わらず女子力はきっと、私よりも上だと思う。
「どう? 美味しい?」
「ん? うん、美味しいよ」
「本当? よかったぁ!」
友梨はぱぁっと嬉しそうに笑ってみせると、自分でもだし巻き卵を口に入れた。
何だかんだ言いながらも、可愛らしい一面があるから憎み切れない。それが、私にしか見せない可愛さだったとしても。そんな思いがあるから、私はいつまで経っても彼女のことを捨てきれないのだろうが。
そのまま友梨の料理を食べ終わり、何気ない時間を数時間ほど過ごした後。私は彼女に了解を得ると、先にベッドに就きその日は寝付いた。
◆ ◇ ◆
一週間後――。
「それじゃあね」
私は大学で友人達と別れると、そのままバイト先へと直行した。私はいつも、インターネットカフェでバイトをしている。普段は学校帰りに夜の九時まで働いているが、学校のゼミが無い二週間に一度の金曜日は、そのまま夜勤のシフトを入れている。
大学から徒歩十分のところにあるバイト先に到着すると、私は裏から中に入った。
「こんにちはー、お疲れ様です」
他の従業員に挨拶する。……数秒程の間を介して、私の中には違和感が生まれた。おかしい、普段ならみんな返してくれるはずなのに、今日はやけに静かだ。
――忙しいのかな?
呑気にそんなことを思いながら、そのまま自分のロッカーから制服を取り出そうと扉を開いた。……しかし、中にはいつもかかっているはずの制服が無い。
――あれっ? ロッカー間違えたかな。
咄嗟にロッカーのネームプレートを確認する。……そこには私の名前など書かれてはおらず、真っ白な空白となっていた。
だが、そのロッカーの両隣を見てみると、そこには普段から隣同士だった二人の名前がいつも通り書かれていた。おかしい、ならどうして私の制服だけが無くなっているのだろう。――まるで初めから、存在などしていなかったかのように。
「愛奈ちゃん」
ふと、突然横から聞き慣れた声が聞こえた。振り向くと、制服姿の店長が立っていた。心做しか、少し機嫌が悪いように見える。
「店長、お疲れ様です。あの、私の制服が無いのですが……」
「制服? あるわけがないでしょ」
「えっ? ど、どうしてですか?」
「だって、愛奈ちゃんやめるんでしょ?」
「……待ってください、どういうことです?」
「どうもこうもないでしょ。さっき、辞めるように伝えてくれと言われたっていう電話がきたんだよ」
「そ、そんなっ!? 私、そんなことを誰かに頼んだ覚えはありません!」
「はぁ? ……それはいいとして。君、散々ウチの悪口を言いふらしてくれたみたいだね」
「悪口? 私、そんなこと……」
戸惑う私に、店長は懐からスマホを取り出すと、画面を操作してとある画面を私の目の前に突き出した。
『あそこの店、ホント働いてて嫌になる。店長も柄悪いし、他の従業員も適当でクソ。あんな店で働くんだったら、まだ風俗やってたほうがマシってもん。とにかくホントにやばいから、みんな行かないほうがいいよ』
その文章と共に、店のサイトのリンクが貼ってあった。
「な、何これ……? 私のアカウント……いつの間に……」
私のアカウント名「lrisO913」。紹介文。フォロー数、フォロワー数。他の書き込み。全て確認するが、どれをどう見ても私のアカウントだった。
「君がやったんだろ? 君のアカウントを知っている人も何人かいる。嘘は言わせないよ」
「そ、そんなこと、した覚えはありません! きっと、誰かに乗っ取られただとか……きっと何かがあったんです! とにかく、私はそんなこと……!」
「じゃあ証拠は?」
店長が、私に右手を差し出した。それを見て何も言い返せなくなった私はただ、ぼんやりとその手のひらを見つめ続ける。
「証拠……。ありません……」
「じゃあ、これ持ってさっさと出ていくこと。被害分として一万五千円引いといたからよろしく」
店長は私に封筒を強引に渡すと、「君には幻滅したよ」と去り際に呟きながら、何も言わせる間もなくさっさと中へ入っていってしまった。私はしばらくの間、何も考えることが出来ずに、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
「ただいま……」
玄関の扉を開ける。この時間ならまだ友梨もいないはずなのに、無性に友梨の声が聴きたかった。私だけに、優しくしてくれる友梨の声が、無性に恋しく思えた。
部屋に入る。やっぱりあの普段なら面倒くさい友梨さえも部屋にはおらず、シーンと静寂が漂っている。私は何をすることもなく、ただただベッドに横になった。
ため息を吐く。どうしてあんな書き込みが私のアカウントでされたのだろう。あんな書き込みした覚えもないし、普段からスマホは肌身離さず持ち歩いているから、勝手に使われることもないはずだ。その上、しっかり六桁のパスワードだって設定してある。防犯対策は万全だ。
やっぱり誰かに乗っ取られたんだ。そうとしか考えられない。私はスマホを開くと、自分のアカウントの書き込みを順々に追った。
……おかしい。あんな書き込み、やはりされていない。どこにもあんな文章を書き込んだ形跡は残っておらず、普段通り自分で書き込んだ文章だけが並んでいた。じゃあ何故、あんな書き込みが回ったのか。
「……ああもう、ワケ分かんない。いいや、もう。……寝よう」
むしゃくしゃした私はベッドの上で呟くと、そのまま着替えずにゆっくりと目をつむった。
「ん……」
「あ、愛奈。おはよう」
テーブルの前に座って、スマホでテレビを見ている友梨がこちらに声をかけた。いつも通り、ポニーテールが似合っている。
「友梨……。今、何時?」
「今? 夜の九時過ぎ。あ、お腹空いてない? ご飯作ってあるよ」
「んん……。もう少ししたら食べる」
「はいはーい」
友梨はニコニコと笑って返事をすると、そのまま視線をスマホへと戻した。
「……今日さ、バイトクビになっちゃったんだ」
「クビ?」
「うん。私のアカウントで、何だかよく分からないネットの書き込みがされてたんだって。私そんなことした覚えないし、実際にさっき見たらやっぱり無かったんだ。不思議だよね。一体誰がやったんだろう」
「……誰だろうね」
ふと、いつにもなく友梨が素っ気ない返事をした。特に気にかけることもなかったが、珍しいな、とだけ私は思った。
「でも……私、嬉しいよ?」
「えっ? 何が?」
「だって、こうしてまた愛奈と一緒にいられるんだもん。私、愛奈がいないと寂しいよ」
「友梨……」
友梨はふふっと微笑むと、続けてこう言い放った。
「……だからね、私
バイトを辞めさせてあげたの」
「……友梨? な、何言ってるの?」
友梨がにんまりと嬉しそうに笑みを浮かべている。いや、この顔は友梨じゃない。ドクユリだ。それでもあんな顔は初めて見た。そこには可愛らしさの欠片もない、ただただ嬉しさと欲望に満ちた、女の顔だった。
「いいもの見せてあげるよ」
そうドクユリは言うと、押し入れの扉を開き、中から一台のタブレットを取り出した。一体いつの間に買っていたのだろう。ドクユリは楽しそうに鼻歌を歌いながら、とある画面を私に見せた。
「こ、これ……私のアカウント?」
「ううん、違うよ。私が愛奈のアカウントを作ってあげたの」
「どういうこと? 意味が分かんないよ」
「ふっふーん。愛奈は『Iris0913』ってアカウント名で使ってるでしょ? そのIの部分と数字の0の部分を、小文字のlと大文字のOにして作ったの。このフォントじゃ、一見分からないでしょ?」
ドクユリに言われて、改めてアカウント名を見る。本当だ。よく見ると、小文字のlと大文字のOだ。
「それでね。知り合いに頼んで、愛奈が書き込みしたら、自動でこっちでも同じ書き込みをするようにしたんだ。これで、愛奈のアカウントとほとんど同じに見えるようにしたの。フォロー数とフォロワー数も、愛奈のと一緒にしたの。これでほぼ一緒、凄いでしょ?」
「……じゃあ、あの書き込みをしたのは、友梨なの?」
「そうだよ。こっちの書き込みは愛奈の書き込みとは関係ないからね。愛奈のアカウントに被害はないまま、愛奈のバイトを辞めさせてあげたの。夜勤なんて辛いだけでしょ? 私だって寂しいし、見てられないよ。だから、こうしたの」
手柄を立てて喜ぶ子供のような笑顔を見せるドクユリ。
私はそんな彼女の笑顔に、これまでで一番腹が立った。夕方、彼女の声が聴きたくなった自分がアホらしい。
「……許せない」
「え?」
「許せない! もう我慢できない! 何でそんなことするの!? いつもいつも余計なことばっかりして、こっちは迷惑なの! いい加減やめてくれない!?
友梨のせいで、私はその度に疲れるの! ストレスなの! 何が私のためよ? いい迷惑よ! 急にオーストラリアから帰ってきたと思えば私の家に住み着いて! いい加減、もう出てってよ‼︎」
今までの怒りを、全てぶつけた。いや、まだ出し切れない。それでもこれ以上出し切ってしまったら、今の私じゃなくなってしまう。私は必死に、自分を見失わないように自我を保った。
「……愛奈、怒ってるの?」
「当たり前でしょ!? 友梨に余計なことされて、どれだけ私に迷惑かかってるか、分かってるの!?」
はぁ、はぁ、と息を荒げる。怒り慣れていないため、どこまで言えばいいのかが分からない。それでもドクユリには、もっとキツく言ってあげないと、きっと分からないだろう。変わってほしいのだ。ドクユリに。元の友梨に戻ってほしかった。ただ、私はそれだけだった。
「そっか……。私の想いは、愛奈に届かなかったんだね」
「っ? 友梨……どういうこと?」
反省してくれると思っていた。心を入れ直してくれると信じていた。しかしドクユリは、それでもなお、いつもの楽しそうな笑い声で、ふふふっと笑ってみせたのだ。私はそんなドクユリを見て、怒りがスゥーっと抜けていった。
ドクユリが立ち上がる。私の前まで歩み寄ると、突然ドクユリが、私の背中に腕を回した。
「なっ!?」
思わずドキリする。どうしていいかも分からずに、ただただドクユリにされるがままになっていた。
「……私はね? 中学校の時から、ずっと愛奈が好きだったんだ。愛奈が初恋だったの。そこら辺のクソみたいな男よりも、中途半端で可愛くない女よりもずっと、愛奈が好きだった。
でも愛奈、中学の時から付き合ってた男いたでしょ? 私はまだ弱虫だったから、ずっとチャンスを待ってたの。それでもまだ、チャンスが来ない。愛奈と同じ高校に行ったよ。まだあの男は一緒だった。まだチャンスは来ない。それで高校を卒業するって行った時、愛奈はあいつに別れようって言われたんだよね? 理由はあの男が、オーストラリアに留学するって言ったから。私、許せなかったんだ。愛奈よりも自分を優先したあのクソ男が。
だから、親の貯金引き落として、一人であの男を追ったの。見つけるまで二年も掛かっちゃった。でも、ちゃんと仕返ししたよ? あ、大丈夫。殺してはないよ。ただ、向こうで手に入れたマグナム? とかいう鉄砲で、あいつの両足を撃ったの。そしたらあいつね? 気持ちよさそうに泣いちゃったんだ。それがもう楽しくて楽しくて……ずっと見ていられたよ。その鉄砲は持って来られないから、そのまま捨てちゃったけどね。
それでこっちに帰ってきて、ようやく愛奈を見つけてここに来たの。これからはずっと愛奈と一緒にいられるんだって思ったら、また愛奈は他の男と一緒にいたでしょ? だから私、そいつに言ったんだ。『愛奈の良さが分からないお前に、一緒にいる価値はない』って。そしたらあいつ、ムキになっちゃってさ。襲い掛かってきたの。一発頬っぺた叩かれちゃってさ。だから、『強姦だって訴えられたくなかったら、別れろ』って言ったら、今度こそ別れてくれたんだ。バカだよね、男って」
私に抱き着きながら、楽しそうにワケの分からないことをつらつらと語るドクユリに、私はもう、どれが本当の彼女なのかが分からなくなってきた。ドクユリの肩を掴み、彼女と向き合うと、私は彼女に問いただす。
「……友梨。ホントにあなた、友梨なの?」
「どうして? どうしてそんなこと聞くの? 私は友梨だよ?」
「……そう。それがホントの友梨なんだね? ずっと小学校から幼馴染の、友梨なんだね?」
「そうだよ。私は、愛奈が大好きな…っ!?」
ドクユリが言葉を失う。私が、彼女の頬を思いっきり叩いたからだ。少しの間、ドクユリは動かず電池の切れた時計のようにただただ私を見ていた。
「友梨。警察行こう? 私も一緒に行ってあげるから。銃で彼を撃っちゃったんでしょ? もし本当なら、それって立派な犯罪だよ?」
「警察って……愛奈は、私がいなくなってもいいの?」
「そんなこと……そんなことないよ。でも、それでもしちゃった罪は……償うべきだよ」
「……酷い、酷いよ愛奈。私はこんなにも……こんなにも大好きで、愛してるのに。愛奈のために今まで尽くしてきたのに、愛奈は私のこと嫌いって言うんだね?」
「友梨……?」
ドクユリは私の手を突っぱねて立ち上がると、独りでに台所まで歩いて行った。一体何をするのかとも思ったが、彼女の意図が分かったときには既に遅かった。
「ゆ、友梨? まさかっ……」
しまった、そう思ったときには既に、彼女の手には包丁が握られていた。
「許せない……。許せないよ。もう、愛奈は私が要らないって言うなら……死んで?」
「な、何で!? どうしてそうなるの!?」
一歩一歩、ドクユリが私に近づいてくる。これは冗談なんかじゃない、本気の目だ。本気で人を殺そうとする、凶器に満ちた目だ。実際に見たことはないが、すぐにそれだと本能で分かった。私は思わず、ベッドの上で後ずさんだ。
「友梨、ダメだよっ! 今ここで私を刺したら、あなたはまた……また罪を大きくちゃう!」
「いいんだよ……愛奈を殺したら、私も死んであげるから。それで、ずっと一緒にいられるでしょ?」
友梨があと一歩のところまで迫る。もう逃げられない。思わず最後の叫びを私はあげた。
「いやっ! やめて、友梨!!」
ドクユリが包丁を振りかぶる。もうダメだ。……そう思ったときだった。ドクユリは、床のカーペットに足を取られて、勢いよく足を滑らせた。そのままドクユリが前に倒れる。その反動で、ベッドに落ちた包丁が、ドクユリの顔をスッと通り抜けた。
「……友梨? ちょっと、友梨?」
大きな音を立てて、ドクユリが倒れる。何が起こったのか、状況の整理が追いつかなかった私は、ただただ彼女の名を呼んだ。
恐る恐るベッドの下を覗き込む。私は彼女の一変した顔に驚愕した。ドクユリの右目が、綺麗に縦に切られてしまっていたのだ。
「ちょっと友梨! 大丈夫!? 今、タオル持ってくるから、目開いちゃダメだよ!」
ワケも分からないまま、てんやわんやになりながらタオルを持ってくる。彼女の右目をタオルで抑えると、私はすぐさま救急車を呼び出した。
「うぅ……」
ドクユリ。いや、友梨が辛そうに唸っている。きっと相当な痛みなのだろう。想像するだけでゾッとする。
「大丈夫。大丈夫だから」
私は救急車が来るまでずっと、友梨の身体に触れていた。こうしていればきっと、彼女も少しは落ち着くだろう。
救急車の到着はまだなのか。先程までの波乱など忘れ、ただただ私は、友梨の無事を祈っていた。
◆ ◇ ◆
一ヶ月後――。
友梨がこの家を去ってから一ヶ月が経つ。あの後、救急車に連れられて、友梨の右目はほとんど見えない状態にまでなってしまった。これからは、ほとんど左目だけで物を見る生活を余儀なくされるのだという。
その上、私が警察に連絡して、身柄を確保してもらった。大まかな事情だけを警察に話し、細かな話は状態が良くなってから、本人から直接聞くという結末で、彼女との決着はついた。
友梨がいなくなってからというものの、家事全般は今まで友梨がやってくれていたことに改めて感謝しなくてはいけない。やはり家のことを一人で全てをこなすのは、かなりの苦労だ。それらを難なくやりこなしていた友梨は、私よりも女子力は上なのだと改めて思い知らされる。
だがそれも、もう終わりだ。彼女はこれから、罪と隣り合わせの生活になるだろう。きっちりと牢屋の中で自分がしてきた罪を反省して、戻ってきてほしいものだ。
――っ……まさかね。
ふと、恐ろしい考えが頭を過ぎった。そんな事態になれば、自分も同罪になってしまう。それだけは御免だ。
これからはまた、新しいバイト先でも探して、新しい恋人探しでもするとしよう。一ヶ月休息を取ろうと、バイトが無い生活を送ってみたが、暇で暇で仕方が無かったのだ。やはり私には、仕事が性に合っている。
誰にも縛られること無い、新しい生活。それも悪くないかもしれない。
ピンポーン。そのとき、唐突に家のインターホンが鳴った。一体誰だろうか?
「はーい」
返事をして、玄関のドアを開ける。ふと、懐かしい背丈だ。
「っ……!?」
目の前の現実に驚愕する。嘘だ、そんなはずはない。だって今は、外に出られるはずがないのだ。それなのに、どれほど否定しても、頭に巻かれた赤黒く滲む包帯と、しっかりと束ねられたポニーテールが、現実味をより彩っていた。
これはもう、運命なのだろうか? 私は一生、縛られ続けて生きなければならないのだろうか? だとしたら私は、神を恨む。こんな人生にしたクソみたいな神が、憎くて憎くて堪らない。
追い返さなくては。理性が感性を支配しようとしても、心のどこかで嬉しさがぽつぽつと浮かび上がってくる。何も今すぐに扉を閉めれば済む話じゃないか。それなのに、何故それができない? 私の中で、二つの性が葛藤し出した。
そんないつまで経っても答えを出せない私に、目の前のそれは先手を取った。
「愛奈、ただいま」
「……ドクユリ」
ニッコリと笑ったその表情は、まるで誰もが惹かれてしまいそうな、可愛らしい笑顔だった。
最後までご一読、ありがとうございました!
他にも連載小説などを書いておりますので、そちらもよかったらぜひ閲覧ください。
ブックマーク・感想・評価も頂ければ嬉しいです!