神の血脈
「どうして君は、その指輪が気になるんだい?」
「え、だってその……珍しい指輪だったし……ぼくもあんなカッコいい指輪が欲しいなあ、なんて……あはは」
どぎまぎしながら誤魔化す彼女に、ミシェルが答えた。
「……一言で表すと…………あれは、レイモンがエクソシストである為に不可欠な物らしい」
「指輪が?」
「そうらしいよ」
「ふうん…………」
(悪魔払いに指輪なんて必要だったっけ……?)
それに、あの闇は間違いなく例の指輪から発生していた。
あの指輪は悪魔を払う為の神聖なアイテムというよりも、むしろ悪魔を呼び寄せるような禍々しい物に思えてならない。
もちろん、そんな物を普通の人間が身につけていて、無事でいられるわけはないのだけれど――――。
ミシェルを見上げると、彼は深刻な顔をしたまま何やら考え込んでいる。
そんな級友を見つめる彼女の視線に気づいた彼が、微かな笑顔を向けて尋ねた。
「メイ、気分はどうだい?」
「おかげ様で、すっかり元気になったかも」
「その言葉はまだ鵜呑みにするわけにいかないけれど、確かにさっきよりはずっと顔色がよくなっているかな」
「ミシェルったら、過保護もいいところだよ。まるでユリエル兄様が二人いるみたい」
チャリスの全校生徒代表の名を耳にしたルームメイトが、わずかに苦笑を浮かべた。
「……ぼくはさすがにハーシェルほどのストーカー……いや、過保護にはなれそうもないと思うよ。それにしても、ぼくはこんなにメイを大切にしているというのに、どうして彼に嫌われるんだろうね」
「ごめん……兄様は、ぼくと親しい男友達には誰にでもああなんだ」
彼女に会いに来る度に、ミシェルに対して毛を逆立てて威嚇する猫のごとくに振る舞う兄を思い出して、明生はしごく申し訳なさそうな顔で返事をする。
しかもユリエルには、チャリスで唯一彼に匹敵する実力者でもあるミシェルに、ライバル心を燃やしているような節すらあるのだが、そんなことを当のミシェルに打ち明けられるわけもない。
話題を兄の行状から強引に変えようとして、彼女が尋ねた。
「ねえ、ぼくはキリスト教についてはあまり知らないんだけど、イエス・キリストって確か独身だったよね。それなのに、何で子孫がいることになってるの?」
せっかくなので、今まで聞く機会がなかった素朴な疑問を口にしてみると、ミシェルが少し驚いたような顔をする。
「……そうか、メイは仏教国の日本から来たから、知らないんだね。もちろん、イエスの妻帯に関して決定的な証拠は見つかってはいないけれど、少なくともキリスト教圏ではけっこう小説や映画の題材にもされているから、半ば公然の事実みたいに思っていたよ…………」
「日本にも、そういう話は輸入されて来てるよ。単にぼくが疎いだけで」
だから、良かったらかいつまんで教えて欲しい。そう頼んだ明生のお願いを、ミシェルは快く聞いてくれた。
「どこから説明すればいいかな……じゃあ、まずイエスの結婚について。彼が結婚していたとはっきり書かれている文書はないけれど、逆に独身だったとはどこにも記されていないし、福音書ですらイエスの結婚については一切触れてはいない。これは当時の文化的な背景を考えると、とても不自然なことなんだ」
「どうして?」
「当時のユダヤ人の慣習では、結婚は絶対にすべきものであって、独身主義は厳しく非難されたし、ユダヤ人の父親には息子に妻を見つけてやる義務があったから。もしもイエスが独身だったとすれば、そんな異常な行為に関して、福音書の中で何らかの言及があってしかるべきなんだ。それが無いということは、イエスは当然のように慣習に従って結婚していたと考えられるし、そもそも福音書では彼をしばしばユダヤ教の宗教指導者を指す『ラビ』と呼んでいる。正式なラビは結婚していなければなれない物で、子供がいるのも当り前だったらしい」
「そうなんだ、全然知らなかった」
「『ヨハネによる福音書』にあるカナの婚礼は、イエスが水をワインに変えるという奇蹟を起こしたとして有名だけれど、実はこの結婚式の花婿はイエス本人だったという説もある。ならば彼の花嫁は誰だったのか――――結論から言うと、イエスの妻はマグダラのマリアだったという説が最も有力なんだ」
「そうなの? でも、マグダラのマリアって、確か娼婦だったよね……?」
「一般にそう信じられてはいるけれど、彼女が娼婦だったとは、実はどの福音書にも書かれてはいないんだ。彼女が聖なる『神殿娼婦』、つまり巫女や女祭祀であった可能性はあるらしいけれど。それどころか、彼女は王族であるベニヤミン族の血を引いていたとも言われているし、彼女が体を売る必要など無いくらい裕福だったのは明らかだったんだ。ヘロデ宮廷の高官の妻とも親しかったし、イエスに高価な香油を塗布して彼を『正統メシア』として聖別したのも、彼女だったくらいだからね」
古代中東では、女神の代理をつとめる王族出身の女祭祀が配偶者に香油をそそぎ、王の位を授ける聖婚という儀式があって、当時これは王が統治権を得るためには不可欠だった、とミシェルが解説を加えてくれる。
ちなみにメシアとは「油を注がれた王」という意味で、イエスはソロモン王やダビデ王の直系だったとマタイ福音書にもあるのだとか。
「イエス様って、貧しい大工の息子じゃなかったの? 何だかぼくの頭にある苦労人のイメージとは全然違うんだけど……」
「福音書によると、ヨセフもマリアも王家の血を引いているそうだよ」
それが本当かどうかは、誰にも分からないけれど。ミシェルがさらりとそう付け足した。
ほどなくランスロット寮の入り口に着くと、ミシェルがドアを開けて明生を先に通らせてから、自分も中へ入る。
毛足の短い絨毯が滑り止めに敷かれている階段を上りながら、彼が続けた。
「いずれにしても、マグダラのマリアがイエスの妻だったと匂わせる有力な状況証拠は数あるし、少なくともイエスに従う女性の中で、突出した存在であったことは確かだと思う。磔刑の後で空の墓を見た最初の人物だし、イエスが復活して最初に姿を現わす相手として選んだのも、マグダラのマリアだったからね」
「でも、ベダニアのマリアは? 彼女もイエスと親しかったんでしょう?」
「もちろんだよ。マグダラのマリアとベダニアのマリアは、同一人物だったという説もあるくらいだし」
「えっ……?」
「詳しいことは長くなるから割愛するけれど……ともかくイエスが磔刑になった後、ラザロ、マグダラのマリア、マルタ、アリマタヤのヨセフなどは一緒に船でフランスのマルセイユに渡った。その際に彼女は聖杯、つまり『王家の血筋』を持って来たとも言われているんだ。つまり、イエスの子供をね」
「ミシェルのご先祖様だね」
「ぼくの先祖かどうかはともかくとして、『プリウレ文書』等の伝承が本当ならば、イエスには子孫がいたし、何世紀もの間にイエスの末裔は、傍系も含めれば数えきれないほどに上っている筈なんだ。筆頭候補とされるメロヴィング王朝の子孫だけでも、十家族以上が存在しているらしいし。だからデュクロー家の噂なんて、それこそ取るに足らない氷山の一角にすぎないんだよ」
大昔とは違って、例え現代にイエスの子孫が出現したところで「ただの人間」扱いだろうし、その神性を認める者などごく一部しかいないだろうから、レイモン達がやろうとしていることは無意味でしかない。そう続けながら、階段を上りきったミシェルが二人の部屋のドアを開ける。
明生が部屋に入ると、ドアを閉めたミシェルはそのまま自分も部屋の中でくつろぎ始めた。
どうやら彼は、ルームメイトを独り残して礼拝堂ヘ戻る気など、さらさら無いらしい。
彼の過保護ぶりに半ば呆れながらも、その気遣いに感謝した彼女が提案した。
「この間日本から送って来たお菓子があるから、良かったら今から一緒に食べない?」
「ありがとう、喜んでいただくよ」
ミシェルが、何度目にしても見惚れてしまいそうな笑顔で応じる。
「じゃあ、せっかくだから緑茶も淹れるね」
嬉しそうに笑顔を返した彼女が、いそいそとお菓子をしまってある机の引き出しに手をかけた時。
ふと、机の上に小さな紙片が置かれているのが目に入った。
見慣れぬ筆跡で、短いメッセージが書かれてある。明生の机の上に置いてあるのだから、彼女宛てなのだろう。
何気なくそれを手にとって走り書きを読んだ明生が、思わず息を飲んだ。
凍りついたまま立ち尽くしている彼女に、背後からミシェルがいぶかしげに尋ねる。
「メイ、どうかしたの?」
「う、ううん、埃を虫と間違えてびっくりしたんだ……」
机から埃をとって捨てるふりをして、丸めたメモをさり気無くごみ箱へと入れる。
心臓の鼓動が、ミシェルにまで聞こえてしまいそうなくらい大きな音を立てていた。