悪魔の指環
「え……?」
思わず立ち止まった明生の様子に気付いていないミシェルが、生徒達の流れに押されて先に礼拝堂へと入ってゆく。
明生が声の主を探して振り向くと。少し離れたところから、黒髪のミシェルによく似た上級生がこちらを見ていた。
なぜか制服ではなく黒い式服を着ているその生徒を見ながら、明生が記憶をたどる。
(確かあれは、ミシェルの従兄弟だっていうレイモン……?)
だが、ミシェルはレイモンの自毛は金髪だと言っていた。だとしたら、あの黒髪は染めているのだろうか。顔だけでなく身長や体形まで似ているので、これで髪の色まで同じだったら本気で間違えてしまいそうだ。
とはいえ、すらりとした優美な容姿と、どこか俗世を超越したような印象はミシェルと共通しているものの、纏う雰囲気は全く違う。
ミシェルが四大天使の、『神に似た者』と呼ばれるミカエルだとすれば、レイモンはまるでルシファーだ。いくら彼がイエスの末裔だと言われても、信じる気になど到底なれそうにはない。
どこか邪悪な光を帯びた壁眼と視線が交差したが、彼が話しかけてくる様子は見られなかった。
(……気のせいだったのかな……?)
首を傾げて踵を返しかけた時。
ふいに、明生と彼の周りだけが、紗に覆われたように薄暗くなった。
どこからか黒い霧が広がり始めると、辺りの気温が急激に下がり、彼女の肌がざわりと粟立ち始める。
言い知れぬ不安を覚えた彼女が、急いでその場から立ち去ろうとした。けれども、体は石と化したようにびくとも動かない。
(え……?!)
必死でもがいてみたが、無駄だった。
立ち止まったまま凍り付いている明生に、レイモンがゆっくりと近付いて来る。
彼の周囲を取り巻く霧のような闇が凝り始めると、さっきまで彼女の近くで戯れていた風の(フィー)精や地の(ー)精達が、怯えて逃げ出した。
闇は次第に形をとり始め、悪魔にも似た恐ろしげな姿に変わってゆく。
よく見ると漆黒の霧は、レイモンが嵌めている大きな指輪から立ち上っていた。
凍りついたままその光景を凝視している明生の頭に、再びあの声が響いた。
((フォカロルよ――――行け!))
そしてその命令に応じるかのように、闇が大きくうねったかと思うと。
突然、彼女に襲いかかった。
「――――!」
助けを呼ぼうとしても、声が出ない。
眼前の生徒達は、まるで明生など存在しないかのように談笑しながら、気にも留めずに彼女の脇をすり抜けてゆく。
彼女の視界がたちまち黒一色に染まった。
(苦しい……誰か……!)
呼吸すらも出来ない瘴気の霧の中で、闇を凝らせたような恐ろしい影が、まるで意志を持っているかのごとくに蠢いている――――。
その禍々しい闇に触れた途端。明生の中に、影の意識が怒涛のごとくに流れ込んで来る。
これにより影の意図を察した彼女の全身が、瞬時に総毛立った。
その強大な影は、あろうことか明生を飲み込んで、己の一部にしようとしているのだ――――。
((……オマエサエトリコメバ………ヲタドッテ……ニイクコトガデキル………))
今度は地獄の底から響くような影の声が、とぎれとぎれに頭に伝わって来た。
(……助けて、誰か……ミシェル……!)
だが、周囲の誰も彼女の苦境に気付かない。
ドロリとした影が、ゆっくりと明生の体に纏わりついてゆく。
底なしの邪気に飲み込まれてゆく彼女が、最後の意識の欠片で級友の名を呼んだ時。
ふいに眼前の闇を落雷のごとき閃光が切り裂くと、輝く何かが明生の肩をつかんだ。
彼女を取り込みかけていた影が、絶叫とともにたちまち体から剥がされる。
同時に、全てを覆い隠していた濃厚な闇が、その何かに蹴散らされるかの如く、一瞬のうちに霧散して行った。
清浄な空気を求めて悲鳴を上げていた肺が、一気に外気を取り込んだとたん、明生がむせて咳込んだ。
閉じた瞼の裏に、暖かい光が降り注いでいる。
傍らから優しげな、それでいて芯の強そうな凛とした声が、気遣わしげな口調で彼女の名前を呼んだ。
「……メイ!」
(ミシェル……?!)
見上げると、青い顔をしたミシェルが、いつの間にか彼女の肩を支えていた。
薄目を開けた明生の瞳に映った、神々しいまでに眩しいミシェルの輝きが、再び彼女の世界を光で満たしていく。
視界に日常の光景が戻り、ようやく安堵の息をついた時。気が付くと明生は、礼拝堂の前の地べたに座り込んでいた。
レイモンの姿は、もうどこにも見られない。
代わりに白金髪を朝陽に煌めかせたミシェルが、心配そうに彼女の顔を覗きこんでいる。
「メイ……大丈夫かい?!」
「ミシェルがあれを追い払ってくれたの……?」
「あれって……? 君に何かあったの?」
首を傾げるルームメイトの様子を見て、少しだけ落胆を覚えながら彼女が答える。
「……ううん、何でもない」
やはりミシェルにも、明生に何が起こっていたのかは、見えていなかったのだ。
落胆とともに闇に取り込まれかけた記憶が蘇り、彼女の心臓が再び凍りつく。
あの闇は、明らかに彼女を目がけて襲って来た。
それに――――。
(……あの指輪は一体何だったんだろう。第一、何でレイモンがあんなことを……?! それに、あの影はまるで…………)
本物の悪魔のようだった。その姿を思い出すだけで、再び明生の身の毛がよだつ。
(そうえいば、レイモンはあれに何て呼びかけていたっけ……確かフォカロルとか何とか言っていたような…………?)
だが、記憶違いでなければ、フォカロルとは地獄の侯爵の名ではなかったか――――。
蒼白になったまま座り込んでいる彼女の顔を、ミシェルが気遣うように覗き込んだ。
「心配だから部屋まで送るよ。自分で歩けるかい?」
「うん……大丈夫、ちょっと気分が悪くなっただけだから」
気を取り直して立ち上がろうとした明生だったが、軽いめまいを起こしてすぐにまた地面に座り込んでしまう。
礼拝堂の正面から動けないでいる明生の横で屈みこんでいたミシェルが、「ちょっといいかい?」と断ったかと思うと、いきなりひょいと彼女を抱き上げた。
「うわっ……?!」
「君が途中で気分が悪くなっていたっていうのに、気が付かないまま先に行ってしまってごめん」
「別にミシェルは悪くないよ……あの、もうちゃんと自分で歩けるから……!」
だが、ミシェルは明生の言葉を笑顔で聞き流すと、お姫様抱っこをしたままスタスタと歩いてゆく。
「無理しなくていいよ。君は時々ぼくにまで隠しごとをするみたいだけれど、ぼくに対する気遣いなら無用だから。むしろ君になら何でも相談して欲しいと思っているくらいなのに」
「……ごめんなさい……ありがとう…………」
「どういたしまして。まあ、隠しごとがあるのは、お互い様なのかも知れないけれどね」
くすりと笑ってそう言いながらも、彼が足を止める様子は全く見られない。
諦めて大人しく運ばれながら、明生がぽつりとミシェルに尋ねた。
「ねえ、レイモンって、牧師様なの……?」
予期せず従兄弟の名を耳にしたミシェルの足が、一瞬だけ止まったような気がした。
「……何らかの資格は持っているはずだよ。どうして?」
「さっき彼が制服じゃなくて、黒い式服を着てたから」
「急なレクイエム・ミサに出席できる牧師がいなかったから、今日だけ代役を頼まれたんじゃないかな。それに……」
言いかけた言葉を途中で止めた彼に、彼女が首を傾げる。
「それに?」
「……レイモンは、非公認とはいえ、欧州では有名なエクソシストでもあるんだ。だから、ゴードン牧師が亡くなられた今、例の魔法円があった場所を清めて欲しいと依頼されているのかも知れない」
ミシェルが戸惑いながらも答えると、彼女が目を丸くした。
「レイモンが有名なエクソシスト?! じゃあもしかして、あの(、、)彼(、)が(、)イエス・キリストの末裔だって言い張れるのは、血筋だけじゃなくて悪魔払いが出来るからなの?」
「まあ、そういうことになるのかな」
「そんな、どう見たって彼は、イエスというよりもむしろルシファーなのに……あっ……!」
明生が級友の従兄弟に対するバカ正直な感想を口にした後で、慌てて自分の口を押さえる。
ミシェルが微かに苦笑すると、首肯した。
「全く同感だよ。けれども、イエス自身も幾度となく悪魔払いをしているし、あれは神の力を借りることが出来るほど信心深くなければ、為し得ないとされているからね」
「でも、ぼくにはレイモンが神の力を借りられるほど敬虔なクリスチャンだとは、どうしても思えないんだけど……。神の祝福を受けているのはむしろ…………」
彼女がチラリとミシェルを見上げながら口ごもる。
恐らく、デュクロー家がイエスの末裔だと信じ込まれた一番の原因は、このミシェルの存在に違いない。
彼女が言わんとすることを察知したミシェルの端麗な顔に、憂いの影が差した。
「……デュクロー家の遠い先祖は、アリマタヤのマリアの故郷であると言われ、イエスの磔刑後に聖杯を持って亡命して来た彼女達が暮らしていた、南フランスのレンヌ・ル・シャトーの出身だった――――ぼく達とイエス・キリストとの間にある繋がりは、たったそれだけだよ。いずれにしても、ぼくは一日も早く聖杯を見付け出して、この呪縛から解放されたくて仕方がないのに……」
「そうだね……ごめん。ありがとミシェル、もう自分で歩くから」
ようやくミシェルが明生を降ろすと、彼女がゆっくりと歩を進める。
級友のペースに合わせながら傍らを行く優しい彼に、彼女が尋ねた。
「ねえ、さっきレイモンが変わった指輪をしていたんだけど、ミシェルはあれが何なのか知ってる?」
「指輪……?」
いつもは冷静沈着な彼の端正な顔が、ふいに強張った。
予想外の反応に少し驚きながらも、彼女が続ける。
「うん。随分と古そうな、金色の大きな指輪」
「それは多分…………」
ミシェルが答えを返そうとして、途中で止める。
と、彼が明生の目を静かに見つめると、探りを入れるかのように聞き返して来た。