エクソシストの死
さすがに危険を感じた彼女がじたばたと暴れるが、ガブリエルは顔に似合わず力が強く、身動きがとれない。
彼の艶やかな紅い唇が、問答無用で明生の唇に触れようとした時。
いつの間にかテーブルのこちら側に来ていたミシェルが、絶妙なタイミングで朝食のトレイを二人の間に割り込ませた。
「ストップ! チャリス敷地内での不純同性行為は禁止だよ」
トレイで鼻頭を打たれる形になったガブリエルが、鼻を押さえたまま彼を睨む。
「何寝ぼけたこと言ってんのよ。どっちにしたって、この全寮制の男子校に女がいるわけないじゃない!」
「そうだね。ついでに不純異性行為ももちろん禁止だけれど、同性愛者の君には関係ないかな」
この隙にミシェルが明生の腕を引くと、すかさず自分の後ろに回り込ませる。
あと少しというところで獲物を横取りされたガブリエルが、いまいましげに怒鳴った。
「メイ、あんたも気を付けなさい! 女嫌いのミシェルだって、ホモに転ぶ可能性は十分にあるのよ! だいたい、こういう君子然とした男が、実は一番危ないんだから!」
「えっ、そうなの?!」
ミシェルが物言いたげな表情で、絶句しながら明生に振り向くと、これまで事のなりゆきを静観していたラファエルが、テーブルの向こう側から明生に言った。
「大丈夫ですよ、メイ。少なくともミシェルは、無理強いはしませんから」
「……ラファエル、それってぼくのことを庇っているようで、実は引導を渡しているよね」
さすがにげんなりした様子でミシェルがぼやいていると。
突然、カラフルな柄のネクタイを着けた赤毛の生徒会役員が食堂へやって来て、大声で皆に告げた。
「今朝の授業は急きょ全校ミサに変更になったそうだ! 食事が済んだら各自礼拝堂に直行するように! 以上!」
一瞬の沈黙が訪れた後。生徒達の間に、さざ波のようなざわめきが広がってゆく。
明生が不安そうにミシェルの制服を掴んで彼を見上げた。
「もしかすると、また例のアレなのかな……?」
「さあ……でも最近多いよね。警察は悪魔崇拝のカルトの犯行とみなしているらしいけれど……」
入り口付近で食事をしていた生徒が、出て行こうとする生徒会役員の彼に尋ねた。
「何でいきなりミサに? まさかまた牧師様が亡くなったとか?」
「そのまさかさ。今度はゴードン牧師が亡くなられたそうだ」
「ゴードン牧師って、グラストンベリー唯一のエクソシストじゃないか……! ひょっとして今度も悪魔払いの最中に死んだんじゃないよな?!」
「詳しいことは僕も知らないが、ご遺体の近くには魔法円が描かれていたそうだ。教師達は口止めされているようだけど」
食堂が、一斉に静まり返る。
「何て(モン)こと(・デュ)だ(ー)…………!」
ミシェルが思わず十字を切った。
ここグラストンベリーは、ヨーロッパでは有名なパワースポットだ。
数多くの伝説が残され、「異界の入り口」や「妖精の丘」などと呼ばれているトールの丘を中心に、この地は実際に数々の「レイライン」の結節点となっている。
「レイライン」とは、風水でいう龍脈のような大地のエネルギーラインのことだ。
ヨーロッパ最大の「聖ミカエル・レイライン」もここを通っており、名高い「聖ミカエル=聖マリア・レイライン」はトールの丘のまさに頂上で交差している。他にも数多のレイラインがこの地で交わっていることは、ダウジング調査で既に証明済みだ。
そのせいなのか。トールの丘周辺ではしばしば、複数で浮遊する奇妙な色の光球やUFOなどが目撃されており、キリスト教よりはるか古代から続くこのミステリアスな聖地に魅かれて集まる者は、現在も絶えることがない。
グラストンベリーではミステリーマニアや魔女、呪術師、それにフラワーチルドレン(ヒッピー)くずれのような者まで様々な人達に会える。が、中でも異色なのは、この二十一世紀にありながら魔術を使って宝探しをしようと試みる、魔術師くずれのトレジャーハンター達だ。
このところチャリスの敷地内では、この種のトレジャーハンターに使われたと推測される、悪魔召喚の魔法円が続けて発見されていた。
チャリスでは過去にもこういった宝探しの為の魔法円が見つかったことがあり、今回も学校側は「これまで通りに、地元の牧師に儀式に使われた場を清めてもらう」と発表しただけで、特に変わったことなど無いかのように振舞っていたのだが…………。
地元に広まりつつある噂は、学校側の公式発表とはかなり違っていた。
結局ろくに食べられなかった朝食のトレイを片付けると、明生はミシェルと一緒に礼拝堂へと向かう。
歩きながら、おもむろに彼が呟いた。
「また牧師様が亡くなられたっていうことは、あの噂は本当だったのかな……」
「最近発見されている魔法円は、実は宝探し用の物ではないという噂?」
「うん……」
「有り得ない話じゃないとは思うけれど、牧師様の連続死に関しては、ぼくは警察の意見の方に賛成かな」
「牧師様を殺したのは、悪魔じゃなくてカルト信者の犯行だっていうこと?」
「そうだよ」
「でも、世の中には、たとえ目には見えなくても存在する物もあると思うんだ」
窓の外を通り過ぎる風の(ル)精達を眺めながら、明生が反論する。
級友の視線の先を追って微かに首をかしげながらも、ミシェルが答えた。
「そうかもしれないね。でも、ぼくは現実主義者だから。どうしても自分の目で確かめてからでないと信じられない性質なんだ」
「ミシェルは聖杯伝説を信じているのに?」
「イエス・キリストは実在した人物だよ。聖杯に神力が宿っているかはともかくとして、彼の血を受けた杯がどこかにあったとしても、何の不思議もないからね。けれども、例えば今ここで誰かに『自分は聖杯の奇蹟を見た』と言われたとして、それを信じられるかどうかは別の話だよ」
「ふうん……」
自分が見ているこの世界は、彼の瞳に映る世界とは随分と違っている。
どんなに近くにいても、大好きなミシェルと同じ世界を共有することは決してないという事実に一抹の寂しさを感じながら、明生が呟いた。
「キリスト教ではイエス様は神の子――――つまり、神様の子なんだからイエス様もやっぱり神様なんだよね? 神様が存在するのなら、悪魔だって存在していてもおかしくないような気がするんだけど…………」
「でもそれだと、もし悪魔が存在しないのなら、神も存在しないということになるよね?」
茶化すように答えるミシェルに、明生がもどかしげに言った。
「もう、ミシェルの意地悪! とにかくぼくは、事件が悪魔のせいじゃないって断定するにはまだ早すぎるって思うんだ。悪魔は本当に存在しているのかも知れないし。昔、バチカンの教皇だったヨハネ・パウロ二世も、実際に自分で悪魔払いの儀式をしていたじゃない」
「確かにバチカンは、悪魔の存在を公式に認めているよね。そもそも悪魔は旧約聖書にすら出てくるし、バチカンには悪魔祓いの正式な規則が定められた、『ローマ典礼儀礼書』というガイドラインまであるくらいだから」
「えっ、そんな物があったの?!」
冠婚葬祭や季節の行事でしか宗教には関わって来なかった、非キリスト(ノン・クリス)教徒の明生にとっては初耳だ。
「うん。それどころか、ローマにある教皇庁立のレジーナ・アポストロールム大学には、エクソシストの司祭になろうとしている人の為の講座まであるそうだよ。けれども、だからといって、これらは悪魔が実在するという証拠にはならないし、ぼくはそもそもイエスが生身の人間ではなくて神と同一だとする『(父と子と聖霊の)三位一体説』がどうしても信じられないんだ。イエスは単なる預言者だったと言われた方が、まだ信憑性があると思う」
「どうして?」
「過去にはイエス以外にも高名な預言者がいたわけだけれど、なぜイエスだけが神と一体の特別な存在でなければならなかったのか、ぼくには納得がいかないし、そもそも三位一体説は、コンスタンティヌス帝が開催したニケーア公会議で人間が決めたことだしね」
言われてみれば確かに、誰が神様なのかを会議の多数決で人間が決めるというのは、おかしい気はするけれど――――。
「驚いた、ミシェルは敬虔なクリスチャンだと思ってたのに」
「ぼくのような考え方は、バチカンからは異端の烙印を押されるけれど、実際はそれほど珍しいわけでもないよ。イスラム教ではイエスはイーサーと呼ばれているけれど、イーサーは単に預言者ムハンマドの前駆者であって、人の姿をした神や神の子ではなかったとされているしね。それどころか、彼が磔刑で死んだということすら、はっきり否定しているくらいだから」
「でも、イエス・キリストが死んでなかったのなら、復活の奇蹟もなかったことになっちゃうけど……?」
「もしかすると、本当はなかったという可能性もあるよ」
「…………ミシェルって、実は無神論者?」
「ぼくは何も神の存在自体を否定しているわけではないよ。存在の否定を証明できない限りは、否定すること自体が非科学的だしね。人間が万物の頂点に君臨する存在だなどと自惚れるつもりもない。ぼくは単に、復活が実際に起こったのかどうかは証明できないから、頭から鵜呑みには出来ないだけだよ」
無神論者は皆、「神の存在を証明できないから信じられない」と言うのではなかったか。
そう返したくなるのをこらえ、敢えて別のことを明生が尋ねる。
「……イエス様はもしかすると、ミシェルのご先祖様かもしれないのに?」
予想通り、ミシェルが心底げんなりした顔で答えた。
「あの噂は嘘だっていうのに、君までがそんなことを言うのかい? 君も一度くらいぼくの立場になってみるといいよ。ぼくは断じて神じゃなくてただの人間なのに、会ったこともない人達から涙を流しながら拝まれたり、カルト信者に追い回されたりするんだから」
彼らが噂を信じてしまうのも、ミシェル自身がまるで神の如くに圧倒的な存在感をもって燦然と輝いているからなのだが、本人には今一つその自覚が薄いらしい。
そんな彼の仏頂面にすらつい見惚れながら、ゴシック様式の荘厳な礼拝堂へと歩いていると。途中からレクイエム・ミサ用の黒のカソックを着た聖歌隊員達が、他の生徒達の流れに合流して来た。
今日はミサの十字架も、いつもの銀色の物ではなく黒の十字架に代えられているのだろうか。彼等の姿を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えていると。
突然、礼拝堂の入り口正面で、明生の頭の中に誰かの愉悦に満ちた声が響き渡った。
((見つけた! 俺の獲物――――!))