四大天使
二階の部屋から急ぎ足で一階の食堂まで降りてくると。選択授業で同じ神学をとっているラファエルとガブリエルが、テーブルから二人に手を振った。
「おはよう、ミシェル、メイ」
束ねられた銀色の長髪に褐色の肌。そして濃い銀灰色の瞳を持つ端正なラファエルが、静かに声をかけてくる。
「おはよう。ふふふ、今朝も可愛いわね、メイ」
赤茶の髪に金色の瞳の、華やかな美形オネエであるガブリエルが、色気たっぷりの微笑みとともに明生にウインクをした。
ラファエルにガブリエル――――これにミカエル、つまりミシェルを加えれば、キリスト教の三大天使が勢ぞろいだ。
将来の監督生候補でもあるこの麗しくも優秀な『三大天使』に、完全無欠と言われる全校生徒代表のウリエルこと兄のユリエルを足した『チャリスの四大天使』は、本校の生徒達の憧れの的である。
彼等がいると周囲の生徒達が沸き立つのはいつもの光景だが、本人達はともかくとして明生の方は、ともに衆目を浴びることには一向に慣れそうにもない。
幸いユリエル達の第六学年は、二年間を大学入学に必要な『Aレベル』という試験の準備に充てるべく、『アーサー寮』という独立した全個室の寮で過ごす。だから、選択授業で神学か文学をとった第五学年までの生徒が集まるこのランスロット寮で、兄が一緒に朝食を食べることなどまずない――――筈なのだが…………。
明生が食堂内をきょろきょろと見回した後、ひそかに安堵の息をついた。
(よかった。今日は兄様が来ていないみたい…………)
今ではバカがつくブラコンと化しているユリエルは、何とただ明生に会う為だけに、Aレベルの勉強もそっちのけで、しょっちゅうランスロット寮に出入りしているのだ。
「おはよう、ラファエル、ガブリエル。ぼく達もそこにお邪魔してもいい?」
「もちろんよ。でも、早くしないとあたし達はもう食べ終わっちゃうわよ」
「待ってて、すぐ行くから!」
気が付くと明生が話している間に、既にミシェルが二人分の朝食をトレイに用意してくれていた。
「あっ、ごめん。ありがとミシェル!」
「どういたしまして。ついでだから、このままぼくが運ぶよ」
ミシェルが笑顔でそう返すと、周囲のそこここから生徒達のうっとりした溜息が聞こえて来る。
毎日見ている明生ですらもついつい見惚れてしまう、極上の微笑み。男になって二番目に良かったと思えるのは、やはりミシェルと友達になれたことかも知れない。
実は女嫌いだという噂もある彼の手から、ニセモノの美女・ガブリエルが一方のトレイを受けると、自分のトレイの隣に置いてやる。
「サンキュー、ガブリエル」
「どういたしまして、イエス様」
ガブリエルが両手を胸の前で合わせて、恭しく一礼しながらそうミシェルを揶揄すると、もう一方のトレイを自分の前に下ろしたミシェルが、嘆息の後に真顔で懇願した。
「…………その言い方は止めてくれないかな、冗談にならないから。言っておくけど、ぼくの叔父がデュクロー家をイエス・キリストの末裔だって主張しているのは全くの法螺だし、これが事実だと裏付ける証拠はどこにもないんだよ」
「あら、そんなこととっくに分かってるわよ。でもねえ、気付いてるかしら? ミシェルがたった今口にした『言っておく』とか『はっきり言っておく』っていう言葉は、聖書にさんざん出て来るイエス様の口ぐせじゃない」
デュクロー家の有名な噂を持ち出すまでもないわよねえ。そう言ってカラカラ笑うガブリエルに、ミシェルが再度嘆息する。
何を隠そう、ミシェルもまた、聖杯探求の為にこのチャリスに入学して来た者の一人だ。
そもそもの原因は、チャリスの第六学年下級生である彼の従兄弟・レイモンが、この学校に入学して来たことにあるらしい。
フランスのデュクロー家といえば、現代のハプスブルクとも称される欧州の名家だ。そしてその当主、つまりミシェルの父が総帥を務めるデュクローグループは、欧州有数のビジネスグループである。
レイモンは、このデュクロー家の分家を率いる叔父の長男なのだが、この従兄弟は今、噂を流している張本人である叔父の命令でチャリスに入学し、ここを拠点にして聖杯を探しているのだ。
だが、叔父の目的は、この学校によくいるトレジャーハンター達のように、聖杯を価値ある戦利品として持ち帰ることではない。
己が吹聴している嘘の反証となるそれを、他の誰かが発見する前に、この世から永遠に葬り去ることなのだという。
イエスと最後の晩餐をともにした弟子達が持つ聖杯は、全部で十二個もある。けれども、グラストンベリーにアリマタヤのヨセフが持ってきたとされる、イエスの磔刑時に使われた聖杯は特別だ。
なにしろこの聖杯には、イエス本人の血が付着しているのだから。
現代ならば、血縁関係の有無など、DNA鑑定さえできれば一発でわかってしまう。彼等にとってこれ以上に都合の悪い証拠品はないというわけだ。
どうやらデュクロー家は、件の聖杯がグラストンベリーに実在するという根拠となる、何らかの情報を掴んでいるらしい。だからこそ叔父はやっきになって聖杯を始末しようとしているし、彼が流す噂に迷惑しているというデュクロー伯爵は、聖杯を保護する為に長男のミシェルをチャリスに遣わしたのだ。
ちなみに、ラファエルとガブリエルも聖杯を探しているという。
どうしてなのかは、一度も尋ねたことがないけれど――――――。
それまで静かに二人の会話に耳を傾けていたラファエルが、ガブリエルを正面からたしなめた。
「人が嫌がることをしてはいけませんよ、ガブリエル」
「…………あんたも、イエス・キリストに負けず劣らず説教くさいわよねえ。キリスト教徒でもないくせに」
「どの宗教でもたいていそう教えていますよ。ご存知の通り私はジャイナ教徒ですが、ジャイナ教でも他人の心を傷つけることはタブーとされています」
「あらそう。でも、それを言うなら、あたしが一番嫌がることは説教よ。そんなものを毎日延々と聞かされ続けるくらいなら、自分からさっさと地獄に落ちた方がよほどマシだわ」
ガブリエルは全く反省の色も見せずに、しっしっとばかりに手を振ってそう答えると、笑顔で明生に向きなおる。
「ね~え、メイ。明日からシェイクスピア・ホールで、チャリス創立祭の聖杯劇のリハーサルがあるんだけど、見に来ない?」
「ぼくは部外者だけど、見に行ってもいいの?」
「大丈夫よ。部外者なんて毎年山ほど見学に来てるから。だいいち、全校生徒代表のハーシェルが黙認してるんだから、誰も文句なんか言えるわけないでしょ」
「兄様は、アーサー王役なんだってね」
「そうよ。せっかく上座・下座がない円卓に座っているっていうのに、明らかに一人だけ偉そうにふんぞり返ってるから、遠くからでもすぐに見分けがつくわ」
「そ、そうなんだ…………」
「ちなみに、あたしはグィネヴィア妃の役で、ミシェルはガラハッド。そこのジャイナ教徒はペレス王の役よ」
「ガブリエルはグィネヴィア妃をやるの?! じゃあ、ドレス姿を見れるんだね。それは楽しみかも!」
そう言いながら明生が黒曜石の瞳を輝かせて無邪気に喜ぶと、ガブリエルがまんざらでもなさそうな顔で色っぽいポースをつくる。
「ふふふ、そんじょそこらの女には太刀打ちできないくらいセクシーな姿で脳殺してあげるから、覚悟しておきなさい」
「ガブリエルは美形だから、お化粧もきっと映えると思うよ」
早く見たいなあ。明生が素直にそう返すと、ガブリエルが感極まったという風に、ぎゅうっと彼女の頭を抱き締めた。
「んもう、あんたったら正直者ねっ。本当に、何でこんなに可愛いのかしら」
「うわっ……ガブリエル……?!」
「あたしの好みは色気たっぷりのワイルドな男なのに、この学校で周りにいるのは説教臭い聖人くずれや、枯れたジャイナ教徒とかばっかりじゃない? でも、メイがいてくれるおかげで、チャリスもそれほど悪くないと思えるわ。ああ、癒される~!」
ガブリエルが明生の頭にキスの嵐をおみまいすると、たちまち彼女の頬が赤く染まった。
「ふふっ、その恥ずかしそうな顔がまた、男心をくすぐるのよねえ」
ガブリエルが両手で明生の頬を包み込んで、フェロモンたっぷりのしぐさで流し目を送る。これで相手がホモだったら、瞬殺されるにちがいない。
二人のやりとりと見ながら、ミシェルがぼそりと呟いた。
「メイが男でよかったよ。女だったらガブリエルの受胎告知どころか、確実に受胎させられていそうだ」
「ですが、そもそも女性は彼の守備範囲外ですから、受胎はともかく男でいる方が危ないのではないでしょうか」
ラファエルがあくまでも冷静に応答する。
明生が頬を赤く染めて彼等に抗議した。
「ミシェルもラファエルも、何勝手なこと言ってるの! 言っとくけど、ぼくはホモじゃないからね!」
横を向いた彼女の頬を、ガブリエルがぐいと彼の方に戻す。
と、今度は片手で明生の細い腰を抱き寄せた。
「本当にどうしてなのかしら。メイといると、忘れていたあたしの中の男が呼び覚まされるのよねえ。んーっ、」
色っぽい声でそう言いながら、今度はもう一方の手でついと明生の顎をすくい上げ、桜色の唇を親指でなぞり始める。
「ちょっ……ガブリエルってば!」
「ふふっ、その怯えた表情も、そそるわあ」
「えっ――――?!」
ガブリエルが、獲物に狙いを定めた肉食動物よろしく明生の唇を見据えると、ふいに彼の唇を寄せて来た。