チャリス・スクール
それから四年後の、晩秋の朝まだきに。
英国の南西部サマーセットシャーに位置した、全寮制の男子校であるチャリス・パブリックスクールの寮で、第五学年上級生の『明生』は夢を見ていた。
夢の中で、誰かが明生の名前を呼んでいる。
((……メイ…………))
どこかぎこちないアクセントなのに、限りなく優しいテノールの声。
((……メイ…………))
聞き慣れた柔らかなその声が、再び『彼』の名を呼ぶ――――――。
「…………メイ……ねえ、メイってば…………」
「うう~ん……」
心地良いその響きを堪能しながら寝ぼけまなこで薄目をあけると、朝日を浴びて煌めく白金色の髪が、視界にとびこんで来た。
「やっと目が覚めたね。ほら、もう起きて食堂にいかないと、食べる時間がなくなるよ」
明生のルームメイトである、フランス貴族デュクロー伯爵家の長男が、澄んだマリンブルーの瞳でこちらを見下ろしながら優しく笑いかけている。
すらりと伸びた長身に、ギリシャ神話のアポロンのごとき神々しい端正な美貌。上品で洗練された、優雅な挙措――――。
それだけでも同じ生身の人間だとは信じられないくらいなのに、加えて『イエス・キリストの末裔』と噂されているほどの聖人ぶり。これで背中に白い翼でも付いていれば、このまま昇天してしまいそうだと今朝も思いながら、明生がもごもごと口を動かす。
「んんん~、ミシェル……おはよう……起きるから先に行ってて…………」
そう言うなり寝返って背を向けようとした小柄な級友を、ミシェルがすかさずゴロリと引き戻した。
「君、昨日もそう言って朝食を抜かしたよね」
「………………」
「今朝は君が一緒に部屋を出るまで、ぼくもここで待っていることにするよ」
チャリス校生達の憧れの貴公子が、この上なく優美な笑顔でやんわりと脅しをかけると、観念した明生がようやくのろのろと半身を起こした。
さすがにミシェルにまで朝食抜きにさせるわけにはいかない。
第一、そんなことになろうものなら、数多の彼の崇拝者達が黙ってはいないだろう。
ただでさえ明生は、五年生でミシェルのルームメイトになって以来、これ以上はないというほど彼等から嫉妬されているというのに。
急いで歯磨きと洗顔をすませると、ベッド際へと駆けもどる。
シンプルなベッドの横の壁には、白のシャツと制服がネクタイと一緒にハンガーに掛けられていた。濃紺のブレザーとチェックのボトムスは、黒髪に黒い瞳の明生が着ると少々地味だが、金髪壁眼のミシェルにはよく似合う。
とはいえ、ミシェルならばきっと何を着ても似合うのだろうけれど…………。
着がえる為にパジャマを脱ごうとした明生の手が、途中でふと止まった。
「あの……ミシェル、着がえるからちょっとあっちを向いててくれる?」
「またかい? わかった(ダコール)」
中国の美人画を彷彿とさせると評判の、涼やかで控え目な色白の少年にくるりと背を向けると、笑いながらミシェルが言った。
「珍しいよね、君。いつも男同士でさえ気にするんだから」
「ごめん……」
「べつにぼくは構わないけれど」
(だって、これだけはどうしてもまだ慣れないんだもの――――!)
女顔をほのかに赤らめながら、心の中で明生がつぶやいた。
四年前に愛彩が異界から戻って来た時。願い通りに兄の視力は回復し、彼女はゲッシュの結果により男となっていた。
あの時のハーシェル家での騒動は、未だに記憶に新しい。
すったもんだの挙句、最終的に彼女が手に入れたのは――――新しい『明生』という名と少年としての人生、そして心から望んでいた兄からの信頼だった。
当時の決断を、決して後悔してなどいない。
兄のユリエルも、今ではこの学校の最高学年である第六学年上級で、全校生徒代表として活躍している。それを誇りに思えども、悔いることなどありえない。
ただ、誤算だったのは、兄本人がどうしても明生を女の子に戻すと言ってきかないこと――――――。
「待っておいで。私がもう一度聖杯を探し出して、直ぐにメイを元に戻してあげるから」
兄は何度も十三本のサクラソウを持って、付近の丘を叩きに出かけていった。
実は『妖精の丘』は固有の名称ではなかったそうだが、彼がどの丘を叩いても、異界への扉は開いてはくれない。
しかし彼は、そこで諦めてしまうほどヤワではなかった。ほどなく兄は父を説得して、明生とともにこのチャリス・パブリックスクールに入学する。
チャリス校は、約五百年にもわたる歴史を持つ伝統校だ。けれども同時に、ラグビー校にならって生徒の自治を促したり、いじめの温床となりやすい下級生の大部屋を廃止した上、教育には時代に合わせていち早くITの授業を取り入れるなど、数々の改革を行って来た革新的な校風でも知られている。
十三歳から十八歳までの生徒達が集まるパブリックスクールの例にもれず、チャリス校の学年も第三学年から始まリ、最高学年は第六学年上級である。けれども、パブリックスクールの上級生が最下級生を『ファグ』と呼ばれる雑用係に指名する慣習は、現在のチャリス校にはない。
宗教色が薄く英国国教会とも一線を画しているせいか、この学校には海外のカトリック教国からの留学生も多く、ロンドン付近のパブリックスクールに劣らず国際的だ。日本人の明生には比較的馴染みやすい環境とも言える。
だが、兄がこの学校を選んだ理由は他にあった。
チャリスとは英語でキリスト教の聖杯を意味する。
実はチャリス校の創始者であるウィリアム・ジョーンズ伯爵は、聖杯探求で有名な学者だったのだ。
彼はアリマタヤのヨセフの子孫だという噂まである上に、学校の敷地はケルト神話やアリマタヤのヨセフが運んで来た聖杯の伝説が残る、グラストンベリー。
ここには必ず何かがある。兄は四年経った今でもそう確信しているらしい。
ただし、そう考えて入学してきた生徒は、彼だけではなかったのだけれども――――――。
兄が明生を女の子に戻すには、またしてもゲッシュが必要となるに違いない。
けれども、大好きな兄がその為に何かを犠牲にするだなんて、想像するだけでも耐えられない。
だから明生は、絶対に兄よりも先に聖杯を探し出そうと心に誓っている。
「ミシェル、お待たせ」
「じゃあ、行こうか」
「あ、そうだ。お願い、もうちょっとだけ待ってくれる?」
(この間あげた時に、ずいぶんと喜んでくれたみたいだから……)
ドアへと向かいかけた彼女が、急いで小皿に日本から送ってもらったカステラの小さな欠片をのせると、それを机の上に置いて戻って来た。
ミシェルが不思議そうな顔で尋ねる。
「またそれかい? それ、何かのおまじない?」
「うん、まあ、そんなような物かな?」
あいまいな返事でごまかした明生が、部屋のドアを閉める際にチラリと机を振り返ると、思わず微かな笑顔を浮かべた。
アヴァロンから帰って以来、彼女の目には異界の住人達の姿が映っている――――。
小皿の周りでは、小さな羽根を生やした妖精達が、嬉しそうに飛び交っていた。