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悪魔との契約

だが、彼女はすぐにその疑問を頭の隅に押しやると、ロンギヌスの十字架を握りしめて言った。

「とにかく、ヨアキムを助けなきゃ!」

王の許へ駆け付けようとした彼女を、ふいにミシェルが制止した。

「ミシェル?!」

「――ぼくが行くよ」

「えっ?」

「あの指環はもともとぼくの物だった――――レイモンには、今ここで返してもらう」

「でも、そんなことをしたら、今度はミシェルが――!」

レイモンのように、悪魔に心を蝕まれてしまう。

半泣きになった彼女に、束の間、彼が愛しげに微笑みかけると。

すぐさまアスタロトの影に向って叫んだ。

「止めよ、アスタロトよ! ソロモンの指環の真の(あるじ)はレイモンではない、このぼくだ!」

瘴気をまとい不気味にうごめく影から、地の底から響くような声が聞こえて来る。

((…………契約を結んでいない者の命令は、例え真の持ち主だとしても聞くわけにはゆかぬ…………))

「いずれにしろ、レイモンが正当な持ち主でない以上は、契約自体が無効のはずだ」

ミシェルが少しも怯まずにそう返すと、悪魔が、神の如きに輝く少年を値踏みしながら、ふと愉悦のこもった声で呟いた。

((…………これはまた上等な獲物だな…………))

明生の全身が、ざわりと粟立った。

悪魔は、今度は明らかにミシェルを狙っている――――。

(―――ミシェル!)

何とかして彼を守らなければ。だが、これといった妙案は浮かばずに、焦燥ばかりが募ってゆく。

アスタロトが、再び恐ろしげな声で告げた。

((あいつを止めたいのならば、今ここで血の契約を結べ……そうすれば、お前の命令を聞いてやる…………))

「わかった」

「ミシェル!」

明生が恐怖のあまりに彼の名を叫んだ。

((…………では、この誓約書に署名(サイン)しろ…………))

彼の眼前に、どこからか忽然とナイフが現れる。

「だめっ、ミシェル――!」

明生が、掠れた声で懇願した。

「心配しないで、メイ」

覚悟を決めた彼が、優しく彼女にそうと言ったかと思うと。

迷わずそのまま己の指先を切り、署名を済ませた。

(ミシェル――――!)

明生が思わず両手で顔を覆う。

と、突如としてレイモンが、その場で床へと崩れ落ちた。

それと同時に、ヨアキムの叫び声がピタリと止まる。

代わりに、肌が粟立つようなアスタロトの含み笑いが、周囲に響き渡った。

「ミシェル…………!」

明生が、絶望に満ちた声を上げる。

誰よりも神の祝福を受けた高潔な友人は、とうとう悪魔に魂を売り渡してしまったのだ。

衝撃のあまりに声すら出せない彼女達の傍らで、彼が毅然とした口調で悪魔に命じた。

「今すぐドルイド達とレイモンを元に戻すんだ。それから、悪魔達は今後どんなにレイモンが召喚しようとしても、応じないように。潰された聖杯城の『扉』も、ただちに直して欲しい」

((……よかろう…………))

アスタロトは、禍々しい声でそう応えたのを最後に、不吉な笑い声を残して何処へと消えて行った。

聖杯城の広間に、不気味なまでの静寂が訪れる。

いつの間にかミシェルの薬指には、大きな金の指環が、まるで咎人(とがびと)の枷の如くに嵌められていた。

皆が無言のまま、その指環を注視している。

「ミシェル……!」

とうとう明生が、涙を浮かべながら彼に抱きついた。

「すみません、ミシェル……」

ラファエルが、力無くうなだれて謝罪する。

「大バカね、あんたって……!」

ガブリエルが、苦しげに顔を歪めてそう呟いた。

「ぼくのせいで……本当にすまない……!」

ヨアキムが、悔しげに拳をきつく握りしめながらそう謝る。

眼前の高雅な少年が何を犠牲にしたかを悟ったドルイド達が、彼の前で次々に膝を折って敬意を表した。

ミシェルが彼等に向って言う。

「どうか悔まないで下さい。ぼくの方こそ、もっと早くにこうするべきだったのかも知れないのですから。……それよりも、聖杯の実物が安全なところに隠されてあると知って、安心しました」

ところが、ヨアキムとドルイド達は互いに顔を見合わせると、当惑した様子で答えた。

「それなんだけれど……実は、僕達も本物の聖杯がどこにあるのか知らないんだ」

「え……?」

ミシェル達が、呆気にとられた表情で聖杯王を見る。

「……僕達もこれまでずっと、あれが本物のイエス・キリストの血と汗を受けた聖杯だと信じていたんだけれどね」

「では、本物の聖杯は一体どこに……?!」

「残念ながら、それはここに居る誰にも、本当にわからないんだよ」

彼等が、途方に暮れたように首を横に振った。

「な……なんですって――――っ?!」

数拍置いてガブリエルが叫び声を上げ、明生達は絶句した。

聖杯王にすら分からないとなれば、もう誰にも本物の聖杯を見つけ出すことなど叶わないだろう。

少なくともアリマタヤのヨセフの聖杯探求に関しては、これで行き止まりが決定した。

ヨアキムが、優しい銀灰色の瞳に悲しげな色を浮かべながら、ミシェルに助言する。

「君は既に悪魔との契約を結んでしまった……。残酷なことを言うようだけれど、もう君は元の生活には戻れない。その指環は恐らく君を蝕んでゆくだろうし、そうなれば、君の周囲の者達がまた巻き込まれてしまうから……分かるね」

ミシェルが無言で首肯した。

「今の君に出来るのは、その指環を使わないことと、他の誰にも渡らないようにすること、そして、万が一の事態にも対応できるような場所で生活することだ――――例えば、バチカンの修道院とか……」

ミシェルにしがみつく明生の手に、ぎゅっと力がこもる。

こんなにも突然にミシェルと離れることになるだなんて、考えてもみなかった。

それでも決してミシェルの安全が保障されるわけではない、とヨアキムは苦しげに付け足す。

一度悪魔と契約を結んでしまったら、それを破棄できない限り、彼は無事ではないのだ。

ミシェルに良く似たレイモンの、まるでルシファーそのものの言動を思い出した明生の背筋に、ぞくりと悪感が走った。

この神の如くに美しく高潔なミシェルが、いつか彼の従兄弟のように魂を蝕まれて変貌してしまうのではと思うと、想像するだけで胸が張り裂けそうだ。

既に覚悟を決めたように、冷静にヨアキムの話に耳を傾けている彼を見つめながら、明生は必死に考え続けた。

(……諦めちゃだめ! 兄様の時だって、もしあそこで諦めていたら、願いは叶わなかった――――!)

胸元の十字架を強く握りしめながら、彼女が必死に神に祈った。

(――――神様、どうか……どうか大切なミシェルをお助け下さい……!)

ミシェルから離れて一心に祈りを捧げ始めた彼女に、年老いたドルイドが近づいて来た。

彼女が顔を上げると、彼が静かに頷きながら、同じように十字架を掲げてミシェルの為に祈り始める。

他のドルイド達も、次々と跪き、神に祈りを捧げ始めた。

きっとこの場の誰もが、同じ気持ちでいるに違いない――そう思った明生が、再びドルイドから目を逸らして祈りに戻ろうとした時。

彼女の視線がふと、老いたドルイドの手に握られている十字架に留まった。

彼は大振りでシンプルな、銀のケルト十字を手にしている。

中心に輪が嵌められた、変わった形の十字架だ。

しばしその形を眺めていた彼女が。

突然、弾かれたようにヨアキムに声をかけた。

「ヨアキム!」

「どうしたんだい、メイ?」

明生の剣幕に驚いた聖杯王が、何事かと振り返る。

彼女が、若き王に駆け寄ると、両手を合わせて懇願した。

「お願いです、直ぐにぼくとミシェルをアヴァロンに連れて行って下さい!」

聖杯王とミシェルが、それぞれ銀と金の髪を揺らして微かに首を傾げた。

「アヴァロンに……?」

「はい!」

彼女が首を大きく縦に振る。

「サウィンの今なら、君達にもきっと辿りつけると思うけれど……悪魔との契約だったら、いくらケルトの神々でも、無効には出来ないよ」

「わかっています」

「それなら、どうして?」

訝りながらも協力的な姿勢を見せるヨアキムに、心の中で感謝しながら彼女が答えた。

「アヴァロンに行けば、もしかするとミシェルを助けられるかも知れないからです――――」



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