トールの丘
「デユクロー、きさま、私の可愛いメイに何をした?!」
「兄様……?!」
「ハーシェル、どうしてまだここに……?」
ユリエルがメイの許に突進して来ると、問答無用でミシェルを押しのけて妹を抱きしめた。
「メイ、無事だったか?!」
「兄様ったら、大げさだよ。それに、別にミシェルがぼくを泣かせたわけじゃないんだ」
彼女が涙を拭きながら苦笑したが、ユリエルはがっしりと彼女に抱きついたまま離れない。
明生の視界に入らない絶妙の角度から、しっしっ、と大人げなくミシェルを追い払う仕草をしている彼に、ミシェルが半ば呆気にとられて言う。
「ラファエルがとっくに、あなたとガブリエルを連れて帰ったとばかり思っていましたよ」
「連れて帰ったって……じゃあ、兄様達はさっきまでここに来てたの?」
「そうだよ。でも、メイの枕元の座を争って、ハーシェルとガブリエルが喧嘩を始めたから、君を起こさないようにって、ラファエルが二人を部屋から連れ出してくれたんだ」
さすがラファエル、病を癒すとされる大天使の名を持つだけはある。しかも、最後の審判のラッパまで吹いて、あの二人を追い出していたとは。
けれども、ラファエルと同室で同学年のガブリエルはともかく、寮も学年も違うユリエルを見張っていることは出来なかったらしい。
「ふっ、ラファエル・ブラントごときにこの私を追い払えると思うな! 私をメイから引き離す者は、誰であろうと容赦はしない!」
病人の枕元で騒いだ挙句に追い出されたのだから自業自得なのだが、彼に全く反省の色は見られない。
さすがこちらは『ペトロの黙示録』で罪人達を火あぶりその他で苦しめる、非情な懺悔の天使ウリエルの呼び名を持つだけある。
ちなみに、彼自身は生れてからこのかた、懺悔というものをしたことがないらしいのだが――――。
相変わらずまたたびに懐く猫のように明生に貼り付いているユリエルが、ふと彼女に言った。
「ところでメイ、学校側が、聖杯劇でグライスが演じるはずだったアンコレットの役をお前にやらせようと考えているようだが、しっかり断るように。いいね」
「何で? グライスの代わりだったら、喜んで引き受けるよ!」
彼の死に責任を感じている彼女が、珍しく兄に逆らう。
ソロモンの指環のことを知らないにも係わらず、察しの良いユリエルが微かに眉をひそめて返した。
「大体の事情はお前が眠っている間に、ブラント達と一緒にデュクローから聞かされた。警察も学校も目下のところレイモン・デユクローの行方を捜しているが、未だに捕まってはいない。しかも、明日の聖杯劇であいつが何かをやらかす可能性は高いのだから、舞台に出るのは危険すぎる」
「そんな、危険なのは兄様達だって同じじゃない! ぼくにはミシェルが貸してくれた十字架もあるし、きっと大丈夫だよ。それより……」
明生が、ユリエルに向って懇願する。
「……兄様こそ、聖杯を追うあまりに無茶しないと約束して。少なくともぼくの場合は、兄様にちゃんと人生のパートナーさえ出来れば、元にもどれるんだし」
ユリエルが、そんな彼女を更に強く抱きしめると、切なげに答えた。
「お前以外に人生のパートナーなどいらない! 私はメイさえずっと傍に居てくれれば、それだけでも十分過ぎるほど幸せだというのに――――」
「兄様……!」
明生の瞳に、再びじわりと涙が浮かんでくる。
麗しい兄弟愛を眺めながらも、会話の内容がさっぱり分からないミシェルが、当惑顔で横から口をはさんだ。
「ハーシェルに人生のパートナーが出来れば、メイが元に戻れる……? 一体何の話しをしているんですか?」
明生が、パッと兄から離れると言う。
「た、大したことじゃないよ。それより、ミシェルに大事な話があるんだけど……」
チラリとユリエルを見たが、てこでも部屋から出て行きそうにない様子に、諦め顔で彼女が続けた。
「……レイモンが話していた、ミカエルの加護が強い異界への扉って、トールの丘にあるんじゃないかな」
「確かにあそこの頂上には、聖ミカエルに献じられた塔の遺跡があるし、セント・マイケルズ・レイライン――――つまり、聖ミカエルの光の(ライ)道も通っているから、ぼくも同じことを考えてはいたけれど……メイはどうしてそう思ったんだい?」
「トールの丘はもともとアヴァロンの入り口だと言われているし、それに……」
ついさっき夢の中で聞いた会話のことには触れずに、彼女が説明する。
「例の渦巻模様の印が描かれた地図を覚えてる?」
「あの地図がどうかしたの?」
「あの地図にはトールの丘も描かれているのに、そこには渦巻き印が付けられてなかったよね。最初は不思議だったんだけど、写真を眺めているうちに、その理由が分かった気がするんだ――たぶんあの丘は、それ自体が渦巻模様を表しているんじゃないかな」
トールの丘の高さは約百五十八メートル。その頂上に至るテラス状の道は丘に巻きつくようにスパイラルを描いており、上へと登るには斜面をぐるぐる回りながら進んで行かなくてはならない。
学者達はそれを、宗教的な意味合いを持つ迷路だと解釈しているが、もしも真上から丘を見下ろせば、それは渦巻模様そっくりになるはずだ、と明生が主張する。
「なるほどね……。ところでメイは、あの地図のトールの丘の麓辺りには、ごく小さな、目立たないX印が付けられているのに気がついていた?」
「X印? ううん」
「印のすぐ傍には有名な観光名所の『聖杯の(・)泉』もあるし、確かなことが分かるまでは、黙っていようと思っていたのだけれど……実はグノーシス派――つまり異端とされるキリスト教の絵画では、Xは真実を意味する印なんだ」
「真実? まさかあの地図は、トールの丘が本当のアヴァロンへの入り口だって、最初から教えてくれていたっていうこと?」
「そうなのかも知れないよ」
興奮した明生がユリエルを見上げると、我を忘れてつい口を滑らせた。
「でも、そこはあくまでも今(、)の(、)アヴァロン(、、、、)へ(、)通じる扉だよね。聖杯城がある場所はかつてのアヴァロンだから、アリマタヤのヨセフの聖杯へは、そこからはたどり着けないし――――あっ――!」
ユリエル達の表情に気付いた彼女がようやく口をつぐんだが、遅かった。




