使徒の子孫
朝になって明生が目を覚ますと、ミシェルが部屋に居なかった。
(困ったな、朝一番に霊廟のことを相談しようと思ってたのに……!)
仕方なく独りで食堂へ行くと、ガブリエルとラファエルが彼女に手を振った。
手を振り返した明生が急いで朝食をトレイに載せると、彼等のテーブルへと向かう。
「おはよう、ラファエル、ガブリエル。ぼくもお邪魔していい?」
「もちろんです。おはよう、メイ」
既に朝食を食べ終わっていたジャイナ教徒のラファエルが、鼻と口を薄い布で覆い隠したまま穏やかな笑顔で答える。
殺生のタブーが厳しいジャイナ教では、呼吸の際に微生物を吸い込んでしまわないように、食事等以外の時には常にこうしているらしい。
エキゾチックで端正なラファエルの顔半分を、布で隠してしまうなんて勿体ない、などと残念に思っていると。
彼とは対照的に華やかな容貌のガブリエルが、明生の椅子を引いてやりながら、上機嫌で言った。
「おはよう、メイ。今朝は珍しくジーザスが一緒じゃないのね」
「ミシェルのこと? 彼なら、起きたらもう先に部屋を出ていたよ」
「きっとまたどこかへ説教しに行ったのよ。それより、今日はメイも聖杯劇のリハーサルを観に来てくれるわよね?」
「もちろん! 楽しみにしてるよ」
「ふふふ、メイが観に来ると思うと、やりがいがあるわあ」
ガブリエルが、メイの艶やかな絹糸のごとき黒髪の感触を、片手で楽しみながら言う。
明生が、食べながら彼に尋ねた。
「ねえ、ガブリエル」
「なあに、メイ」
「毎年チャリスの聖杯劇の最中に、本物の聖杯が現れるっていう噂は、本当なの?」
「さあねえ。まあ、あたしはその伝説があるからこそ、劇への出演依頼を受けたわけだけど」
「そうだったの?!」
「あら、劇に出演する生徒は、ほとんどそれが目当てよ。ラファエルだってそうじゃない?」
ラファエルが、長い銀色の髪を揺らして静かに頷く。
「えっ、じゃあ、その噂を知らなかったのって、ぼくだけ?!」
「メイはその、どこか抜けたところが可愛いのよねえ。例の君子然としたルームメイトと違って」
何だか、あまり褒められた気がしない。
「……そういえば、ミシェルはガラハッド役だったよね。じゃあ、もしも噂が本当だとしたら、劇で聖杯を手にするのは、やっぱりミシェルになるのかな」
一般的なアーサー王の物語では、ガラハッドだけが聖杯探求に成功するからだ。
「あら、そうとは限らないわよ。あたしもラファエルもハーシェルも、みんな聖杯を狙ってるんだもの。途中で横取りもありだと思うわ」
劇の成功など眼中にないといった様子で、ガブリエルが答える。
「これまでの聖杯劇では、けっきょく誰が聖杯を手に入れてたの?」
「それが、今一つよく分からないのよねえ……聖杯が出現するのは、決まって劇の終盤らしいんだけど…………」
ガブリエルが、珍しく当惑したように言葉を濁した。
「本物の聖杯の出現を目撃した生徒はけっこういても、実際に手にした生徒はほぼ皆無なのよ。しかも観客の生徒達なんて、舞台にとつぜん光り輝くの聖杯が出現した時も、それはそういう演出なんだと思い込んでいたらしいし。その上、昔劇で本物の聖杯を手にしたっていう生徒は今も行方不明だから、詳しい話も聞けないじゃない?」
行方不明の生徒と聞いて、ふと明生の脳裏に、聖杯城で出会った若き王の姿が浮かんだ。
「ねえ、その生徒の名前は何ていうの?」
「さあ、名前までは知らないわ」
一体、その生徒の身に何が起こったのだろう。それに、あの親切な聖杯王ヨアキムは今、はたして無事なのだろうか――――。
彼等の身を案じながらも、明生がふとガブリエルに尋ねた。
「ねえ、ガブリエルはどうして聖杯を探しているの?」
「そうねえ、半分は単なる趣味で、半分は家の義務、かしら」
「義務?」
「あたしの実家のアルディーニ家には、あたし達がイエスの使徒の子孫だっていう嫌な言い伝えがあるのよ。その関係で、あたしも聖杯を見つける為に、このチャリスに入学させられたっていうわけ」
「そうなんだ……!」
「別に、驚くことじゃないわよ。チャリスには他にも似たような出自の生徒がけっこういるんだから。ラファエルの先祖だって、イエスと関わりがあるらしいし」
「えっ、ラファエルまで?!」
明生がつい、大声で聞き返した。
ラファエルは北欧系とのハーフだとはいえ、れっきとしたインド人だ。
北欧もインドも、イエス・キリストとはあまり関係ない気がするのだが……。
彼女の戸惑いを察したラファエルが、いつもの如くに穏やかに答えた。
「あくまでも言い伝えですから。けれどもインドでは、イエスがかつてインドに居たということは、常識として広く知られているのですよ」
欧米では、このことは長らく黙殺されていますけれども。そう断ってから、ラファエルが更に説明をしてくれる。
イエス・キリストは三十三歳頃に磔刑で死んだが、マルコの福音書による十二歳の記述から、三十歳でヨハネの洗礼を受けて布教活動を始めるまでの十七年間は、キリスト教では一切謎のままだとされている。
ところが、西チベットの僧院に伝わる『聖イッサ伝』によると、イエスは十三歳になりイスラエル人の妻を迎える年になった時に、エルサレムを離れて商人達とともにシルクロードを通って、チベットやラダーク、シンド(パキスタンの東南地域)にやって来て仏教の教えを極めて悟りを開き、二十九歳でエルサレムに戻ったという。
『聖イッサ』とはもちろんイエスのことだ。
『聖イッサ伝』には更に、イエスは磔刑では死なず、仮死状態の後に復活してカシミールに戻り、百二十歳の天寿を全うしたと書いてあるとか。
インドには他にも、イエスの十二使徒であるトマスが、紀元五十二年にインドにキリスト教を伝えたという伝承があるらしい。
ちなみにイッサは、シンドではジャイナ教徒のアーリア人の間に落ち着いていたという。
「そんな話、全然知らなかった……」
生れて初めて耳にした言い伝えに驚嘆していると。
今度はラファエルが尋ねて来た。
「日本にも青森に、イエス・キリストのお墓だと言われている遺跡があるそうですね」
「ラファエルってば、よくそんなことまで知ってるね。実はぼくの母方の先祖は、そこの地元の出身なんだ。でも、母はそのお墓にイエス様の遺体は入っていないし、本物かどうかは疑わしいって言ってたよ」
「キリストの墓と呼ばれる物は大抵そうですよ。もともと彼は、死後にそのまま天に昇って行ったとされていますから、お墓に遺骨が無くても問題はありませんし」
明生が、ふと浮かんだ思いつきを口にした。
「それって何だか、ブッダの仏舎利(釈迦の遺骨)の話とちょっと似てるよね。だって世界中の仏舎利を全部集めたら、象数十頭分の大きさになるんでしょ?」
「随分と大きなお釈迦様ですね」
ラファエルが、ヴェールの下でクスリと笑った。
「そういえば、ラファエルはどうして聖杯を探しているの?」
「ガブリエルと一緒ですよ。そういうメイこそ、なぜなのですか?」
「えっと、それは……その……」
問い返されるとは予想してなかった明生が、つい口ごもる。
どうやって誤魔化そうかと、せわしなく頭を回転させていると。
ふいに、色柄のネクタイを着けた背の高い生徒会役員が、食堂に顔を出すと大声で告げた。