霊廟3
「――――っ!」
声にならない悲鳴を上げて、明生が出口へと走り出す。
だが、すかさず彼女を追い越したレイモンが、先回りして扉の前に立ちはだかった。
「冥土の土産にサービスしすぎたが、お喋りはここまでだ。フォカロルよ、こいつを取り込んで、異界への道筋を記憶しろ!」
彼のかけ声に応じた靄が、濃い闇へと急速に変化して、次第にどす黒い影を空間に作り出してゆく。
瘴気を放つそれが、まるで意志を持ったように蠢きながら明生の背後に回りこみ、退路を塞いだ。
闇の中心にひときわ濃い影が浮き上がると、グリフォンのごとき翼を大きく広げる。
(あれは昼間と同じ人影――?!)
恐らくは、フォカロルの影だ。
恐怖のあまりに明生がその場で凍りつくと、闇が素早く彼女に纏わり付いて来た。
表情すらない漆黒の靄から、舌舐めずりの音すらしそうな残忍な歓喜が伝わってきて、明生の全身が総毛立つ。
その蠢く瘴気の塊が、とうとう彼女を飲み込むべく、再び体に触れた時。
「ギャアアアアアアアアア――――――――ッ!」
闇が、とつぜん壮絶な苦悶の咆哮を上げた。
禍々しい影が、まるで弾けた風船のように一瞬で四散してゆく。
ふいに、霊廟に元の静寂が戻って来た。
唖然としたレイモンと明生が、思わず互いの顔を見合わせる。
気を取り直したレイモンが、険しい表情でいきなり明生に詰め寄ると、彼女の襟ぐりを掴んだ。
「お前、一体何を持っている?!」
「えっ?」
「フォカロルは悪魔の中でも大侯爵だ。聖遺物でも持っていない限り、素人がそう簡単に払える悪魔じゃない。出せ!」
「ぼくは別に何も……」
言いながら、はっと明生は胸元の重みに気が付いた。
(そういえば――――!)
シャツの中に入っていて外からは見えないが、彼女の首からはミシェルに借りた十字架が下がっているのだ。
「どうやら身に覚えがあったようだな」
明生の表情を読んだレイモンが、いきなり彼女に足払いをかけた。
「あっ――――!」
なすすべも無く床に転がった彼女の上に、素早くレイモンが馬乗りになる。
彼が明生の両手をあっさり束ねて床に押さえ付けると、乱暴にボタンを引きちぎり、白いシャツの襟を開いた。
露わになった十字架と、明生の白い肌を凝視しながら、レイモンが呟いた。
「お前、本当に男だったのか……! それに、これはデュクロー家の『ロンギヌスの十字架』じゃないか……!」
両手の拘束が緩むと、明生がシャツの胸元を急いで閉じた。
「『ロンギヌスの十字架』……?」
涙を浮かべた明生が、消えそうな声で呟く。
「デュクロー家に代々伝わる、ロンギヌスの槍を十字架に鋳直したとされている聖遺物だ。もっとも、誰もそんなことは信じちゃいないが、強力な聖遺物であることだけは間違いない」
(ミシェルは、そんな大切な物を貸してくれたんだ――――!)
ならば、なおさらこれを悪しき手になど渡すわけにはいかない。
レイモンが聖遺物に手を伸ばすと、明生がさっとそれを両手で覆った。
「手をどけろ」
「いやです!」
明生が両手に渾身の力を込めて抵抗する。
「どけろと言っているんだ!」
イラついたレイモンが、怒鳴り声とともに手を振り上げると、大きな音と同時に、明生の頬に強い痛みが走った。
「きゃあっ!」
思わず明生が悲鳴を上げる。
と、その時。
ドンドンドンドン!
霊廟の扉を、誰かが激しく連打した。
「メイ!」
「――――ミシェル?!」
「メイ、無事かい?!」
レイモンが小さく舌打ちした。
「おい、早くそれを寄こせ!」
彼が再び力づくで明生から十字架を奪おうとする。
「いやっ!」
十字架をつかんだ彼の手に、彼女が必死に噛みついた。
「うっ――――きさま!」
再び強烈な平手打ちの音が霊廟に響いた。
「きゃあああっ!」
口の中に、たちまち鉄の味が広がって行く。
「メイッ!」
普段は穏やかなミシェルが、焦燥もあらわに彼女の名を叫んだ。
ドカンッ! ドカンッ!
ドカンッ! ドカンッ!
扉を叩く音と振動が、一層激しくなる。
と、突然。
――――バアン!
ふいに重厚な扉の蝶番が外れ、扉を蹴り破ったミシェルが乱入して来た。
床でもみ合っていた明生とレイモンの動きが、懐中電灯で照らされた眩しさに、束の間止まる。
そして、ミシェルの視界に明生の破れたシャツが映った瞬間。
彼の怒りが爆発した。
「――――レイモン!」
ミシェルが従兄弟を明生から引き剥がすや否や、彼の頬を渾身の力を込めて殴り飛ばした。
(ミシェル――?!)
普段の彼からは想像もできない行為に、痛みも忘れた明生が目を見開く。
ミシェルの拳をまともに受けたレイモンが、勢いよく床に倒れ込むと、急に静かになった。
動けなくなった従兄弟を歯牙にもかけずに、ミシェルはまっすぐ明生に駆け寄っってくる。
明生を助け起こした彼が、そっと彼女を抱きしめた。
「遅くなってごめん、メイ」
「ミシェル……!」
涙を浮かべた明生が、すがりつくように彼を抱き返した。
彼女の体が震えているのに気付いたミシェルが、級友を抱く腕にさらに力を込める。
ややあって、震えがおさまった明生が顔を上げると、彼が尋ねた。
「大丈夫? 大きなケガはない?」
「うん、かすり傷だけだから大丈夫」
彼の気遣わしげな碧い瞳に、ようやく少し安堵の色が浮かぶ。
「君が無事で本当によかった……! 帰ったらすぐに薬をつけよう。顔も早く冷やさないと……立てるかい?」
彼は先に立ち上がると、手をとって彼女の体を引き上げた。
「ありがとミシェル……あっ……!」
露わになっている肌に気付いた明生が、恥ずかしそうに胸元を隠そうとする。
ミシェルがすぐさま自分の着ていた深緑のセーターを脱ぐと、彼女の頭から被せた。
「これでいい?」
彼女が頬を赤らめたまま、こくりと頷く。
彼のセーターのぬくもりに、心までもが温かくなりかけた明生だったが…………。
「うっ…………」
レイモンの呻き声を耳にすると、すぐにびくりと後ろを振り向いた。
起き上がろうとしている従兄弟を冷やかに一瞥してから、ミシェルが彼女の肩に手を回して言った。
「まずはここを出ようか……おいで」