聖杯
一日の授業を無事終えた明生が、ちょうど約束の時間に寮の部屋へ戻って来ると。
ミシェルが写真を入れた大きな黒いファイルを用意して、彼女を待っていた。
「お待たせミシェル。これが例の写真?」
「そう(ウ)だよ(イ)。さっき家から届けて貰ったんだ」
さらりと返された答えを耳にした明生が、一瞬遅れで固まった。
「家からって……ミシェルの実家はフランスじゃあ……」
「うん、だから待たせて悪かったね」
ミシェルが、まるで大したことでは無いかのように、あっさりそう返答する。
(フランスに置いてあったなんて、聞いてない――――!)
あらかじめそのことを知っていたら、こんなに気軽に頼めなかっただろう。
しかも、彼が彼女にこれを貸すと約束してから、まだ六時間そこそこしか経ってはいないのだ。
ここグラストンベリーは、フランスどころかロンドンからの交通の便も良いとは言えないのに、一体どうやってそんな短時間でここまで運んで来たというのか。
デュクロー家には、たとえイエス・キリストの子孫という噂がなかったとしても、十分に謎が多い気がする。
深くは追求しないことに決めた彼女が、とにかくお礼を言った。
「どうもありがとう、ミシェル」
「どういたしまして」
ミシェルが、美の女神ですら嫉妬してしまいそうな端麗な面に笑顔を浮かべると、彼女に尋ねる。
「ところでこの写真だけれど、枚数が多いから、全部ちゃんと見ようとするとかなりの時間がかかると思う。メイはどうしたい?」
「もちろん、できれば全部しっかり見たいけど……ミシェルさえ迷惑じゃなかったら、しばらくこの部屋に置かせてもらっていい?」
ためらいがちにそう尋ねてみると。
ミシェルの高雅な瞳が、一瞬、獲物が罠にかかる瞬間を目にしたハンターのような光を帯びた。
心なしか機嫌の良さそうな声で、彼が返答する。
「いいよ、あんまり長くは無理だけれどね。そのかわり、条件があるんだ」
「条件?」
「うん。ぼくがいいと言うまで、君がこの十字架を、寝る時も肌身離さず着けていること」
言いながら彼が、かなり古そうなアンティークの十字架を差し出して来た。
くすんだ銀色の十字架には、五弁の薔薇と難解な文字で装飾が施されている。
「デュクロー家に代々伝わる、霊験あらたかな十字架だよ」
「それって、もしかすると家宝なんじゃない?! 何でまた、そんな大事な物をぼくに――?!」
「最近、この辺りも何かと物騒だからね」
ミシェルは多分、牧師達の連続死事件のことを言っているのだろう。
「でも、お守りの十字架なら、ミシェルだって必要なのに……」
「僕はすでに一つ身に着けているから大丈夫。決断は君しだいだけれど、どうする?」
「そんなの、決まってるじゃない!」
明生が意を決したように十字架をとって、首にかける。
けれども、今さらながらに何かに気付いた彼女が、恐るおそる彼に尋ねた。
「ところで……これの値段って、いくらなのか聞いてもいい……?」
ミシェルが、有無を言わさない類の笑顔で、やんわりと質問を却下した。
「たぶん聞かない方がいいと思うよ。大丈夫、君さえ四六時中離さないでいてくれればいいだけだから」
「………………わかった、そうする」
明生が、頬を引きつらせながらも自分の机に戻って、早速ファイルのページをめくり始めた。
写真は霊廟の内部全体を写した物から、壁の絵画の細部をズームで撮影した物まで、様々だった。
少なく見積もっても、百枚以上は余裕でありそうだ。
しばらくファイルの写真を眺めていた彼女が、ふと、隣の机で学校からの課題に取り組んでいるルームメイトに声をかけた。
「ねえ、ミシェル、ちょっといい?」
「いいよ、何だい?」
「今朝からずっと考えてたんだけど……アリマタヤのヨセフって、どうして一緒に亡命して来た親しい人達から離れてまで、わざわざこんな遠くに聖杯を運んで来たのかな」
あっ、もちろん、課題で忙しかったら、今じゃなくてもかまわないから。
急いでそう付け足したのだが、ミシェルはすぐに彼女に向き直ると、快く教えてくれた。
「……まず、アリマタヤのヨセフは君も知っている通り、イギリスに聖杯もしくはイエスの血と汗が入った瓶などを持って渡り、グラストンベリーに教会を築いて布教を始めた弟子だけれど、彼はもともとイエスにとって特別な存在だったと言われているんだ」
「特別って、どんな?」
「『最愛の弟子』説などもあるけれど……例えばグラストンベリーの伝承では、彼はイエスの叔父だとされているよね。他にも、彼はマグダラのマリアの兄だったのではないかという説などがある。ちなみにベダニアのマリアの兄はラザロだったから、アリマタヤのヨセフとラザロが実は同一人物だったという可能性も捨て切れない」
「そうなんだ……」
「いずれにしろ、ローマ総督ピラトが、イエスの遺体をあっさりアリマタヤのヨセフに引き渡していた件等からしても、彼がイエスの『家族』だったという可能性は、かなり大きいと思う。そして、ここからはぼく個人の想像だけれど…………だからこそ彼は、南フランスに亡命して来たイエスの妻や子供の存在を隠すべく、目晦ましの為にわざわざグラストンベリーまでイエスの血と聖杯を運んで来たのではないかな」
「ごめんミシェル、話が見えないんだけど……」
「聖杯は『サングラール』、つまり『王家の(グ)血筋』と解釈することが出来ると言われているのは、知っているよね」
「うん」
「……フランスへと亡命したイエスの妻と子の存在は、彼等の命を守る為にも、追手から隠されなくてはならなかった。だから恐らくイエスの使徒達は福音書の中で、イエスをあたかも独身者であったかの如くに描写しなくてはならなかったし、妻帯に言及することはタブーだったのではないかと思う。それでも何とかして後世に彼等の存在を伝えようと考えた弟子達は、苦肉の策として、福音書の随所にヒントとなる鍵を散りばめておいた――――秘密を共有するに値するような、最も優れた者だけが判るように。ここまではわかるよね?」
級友に肯きながらも、明生が疑問を呈した。
「でも、新約聖書を編纂したのはローマ・カソリックだから、イエス様に妻子がいた記録は、単に教会が意図的に福音書から削除しただけなんじゃない? 彼の人間くさい足跡は、神性を損ねるとかって。当時は教会に都合が悪い記述がある福音書を、コンスタンティヌス帝が集めさせて焚書してたって聞いたよ」
「それも確かに事実だけれど、編纂にあたって八十以上もの福音書が検討されたのに、最終的にマタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの福音書だけが選ばれたのは、イエスが所帯持ちであるのを隠してその神性を高めたい教会側と、イエスの妻子を守る為に彼等の存在に関して沈黙していた使徒達の思惑が一致したから、と考えられなくもないよ」
ちなみに、コンスタンティヌス帝の焚書を逃れて一九四五年にナグ・ハマディで発見された『ピリポ福音書』には、マグダラのマリアがイエスの伴侶だとはっきり書かれてあるそうだ。
ミシェルが話を続ける。
「けれども、マグダラのマリア達がマルセイユへ運んだとされるイエスの血を受けた聖杯の話は、容易に『王家の血筋』を匂わせ過ぎたし、南フランスのサント・マリー・ド・ラ・メールでは、彼女達と共に舟で流れ着いた黒い肌の少女・サラの伝説もよく知られている――――ちなみにサラという名前はヘブライ語で『王女』という意味だそうだ。だからこそ危険を感じたアリマタヤのヨセフは、実際にイエスの血と汗が入った聖杯を、大っぴらにイギリスに運ぶことによって、少しでも追手を錯乱させようと試みたんじゃないかな」
「アリマタヤのヨセフが実はイエスの家族だったから、そこまでしたっていうこと……?」
「ぼくはそう解釈しているけれどね」
「でも、どうしてグラストンベリーなの?」
「彼は昔、この地方の錫の交易商人だったという伝承もあるけれど、それは置いておくとして……結論から言うと、彼はグラストンベリーが、ケルトの神々の『グラール』――――つまり、『聖杯』の伝承が残る聖地だと知っていたからだと思う。ほら、チェスタトンの名言があるよね。『木の葉は森に隠せ』って」
「ケルトのグラールって、要するに大釜とか宴会の大皿とか――――つまりは豊穣の器とされている物のことでしょ? 確かにそれを聖なるグラールと呼べば、発音は同じ『サングラール』になるのかも知れないけど……かなり強引かも……」
それでも、実際にその聖なるグラールは存在すると明生は知っている。もしもミシェルの推測通りだったとしたら、アリマタヤのヨセフの目論見は、半ば成功したと言えるのではないだろうか。
しばし沈黙していると、ミシェルが話を先に進めた。
「アーサー王物語の舞台は五~六世紀のイギリスだけれど、聖杯伝説自体は十二世紀頃から西ヨーロッパで広まった物で、元はケルトの伝承だったと思われる下地をかき集めて、キリスト教的なストーリーに仕立て上げた物なんだ。聖杯城のペラム王も、聖杯探求に成功するガラハッドも、アリマタヤのヨセフの子孫とされているし、聖杯もいつの間にかイエスの血を受けた物にすり替えられているしね」
「そういえば、不具の漁夫王であるペラム王も、イエス様の脇腹を刺したロンギヌスの槍で傷つけられたんだっけ……円卓の騎士の数も、十二使徒と同じ十二人だし」
「その通りだよ。とにかく、ぼくはこのキリスト教化した聖杯伝説が十二世紀以降に急速に広まったこと自体が、本物の『サングラール』からアーサー王の聖杯伝説に目を逸らさせる為の、目晦ましの一環だった可能性があるのではないかと疑ってすらいる。だからこそ、ここグラストンベリーには必ず本物の聖杯があるような気がしてならないんだ。いくら何でも、全く根拠もなしにそんな大それた噂を広めることは至難の業だからね」
「でも、本物の聖杯は五百年くらい前から、イギリスに数多くあるテンプル騎士団の教会のどれかで、秘密の地下室に埋められていると言われているって、兄様から聞いたよ。ぼく達が探しているのはケルト神話の聖杯の方だから関係ないけど、ミシェル達はこのイエス様の聖杯を探しているんだよね?」
「それはそうだけれど、まず、テンプル騎士団が聖杯を発見したと言われている場所は、グラストンベリーではなくてソロモン王の神殿跡にあったヘロデ王の神殿の廃墟の方だし、見つかったのは杯ではなくて、『王家の血筋』に関する証拠文書のことらしい。それに、例えそれが実は杯の方だったとしても、もしもぼくがヨセフの立場だったら絶対にダミーは用意するし、実際に彼はそうしていたと思う。その上、聖杯発見の噂は他の探求者達を諦めさせる為に、意図的に流されたという可能性だってある。第一…………」
ミシェルが言いかけた言葉を途中で止めた。
「?」
「いや……何でもないんだ」
珍しく彼が口ごもると、さり気無く彼女から視線をそらした。
(そういえばミシェルはさっき、秘密があるのはお互い様だと言ってたっけ……)
きっと明生のように仕方が無いことなのだろうと分かってはいても、ふいに自覚した二人の間の距離に、一抹の寂しさを感じてしまう。
ミシェルもレイモンも、イエスの血を受けた聖杯がグラストンベリーのどこかにあると、疑いなく信じている。現実主義者のミシェルですらそう確信しているのならば、デュクロー家には聖杯について、彼女が知らない何かしらの情報があるのだろう。
(それってもしかすると、レイモンが嵌めていたあの指輪に関係あるのかな…………?)
けれども、あの禍々しい物体と聖杯の間にある繋がりなど、想像も出来なかった。
しばらくそんなことを考えていると。
ミシェルが不意打ちで尋ねて来た。