妖精の丘
「にわか華族令嬢」の直後に書いた作品を、今日から投稿してみることにしました。楽しんで頂けたら何よりです。
イギリス南西のサマーセットシャーにある静かな観光地、グラストンベリー。
アーサー王の聖杯物語の舞台であり、アリマタヤのヨセフの聖杯伝説も残るこの地には、聖杯にまつわる見どころが数多く存在する。
特に、かつてはドルイド達が集う神聖な場所だったトールの丘は、妖精や死者の国でありアーサー王が最期を迎えたケルトの楽園の地でもある、アヴァロンがあったという伝説で有名だ。
あるハロウィンの翌朝。その丘をめざして、小柄な日本人の少女が平原を駆けていた。
ジーンズに白のハーフコートを着た、彼女の名前は愛彩。
小ぶりで清楚な顔立ちにショートカットの黒髪が似合う、十二歳の子爵令嬢だ。
寒風の中、白磁の頬を紅潮させながら走る姿は一見可愛らしいが、その表情は思いつめたように硬い。
季節はずれのピンクの花束をしっかりと握りしめながら、心の中で彼女は繰り返していた。
(お兄さん、待っていて。私がきっと聖杯を見つけて、お兄さんの目を治してもらうから……!)
『十三本のサクラソウで妖精の丘を叩くと、妖精の国へ行くことができる』というこの地方の伝承を、彼女がメイドから教えてもらったのは、つい昨日のこと。
「これで実際に行けた方もいるという噂ですけど、私はダメでしたねえ」
中年のメイドはそう言って笑っていたが、この話を聞いた愛彩は、憑かれたように地元の伝説について調べ始めた。
そしてついに彼女は、聖杯伝説のアヴァロンが、妖精の国だと言われていることを突きとめる。そして、トールの丘はアヴァロンだったらしいということも。
ならば、『妖精の丘』はきっとトールの丘のことに違いない――――そう考えた彼女は居ても立っても居られなくなり、翌朝すぐに温室からサクラソウをもらうと、カントリーハウスから飛び出して来たのだ。
全盲の義兄の視力を回復するという、悲願を叶える為に――――。
実は『妖精の丘』は幾つか存在するのだが、彼女はそのことを知らない。
近くに見えたトールの丘は、思いのほか遠かった。
家を飛び出してからもう随分走っているというのに、なかなか距離が縮まらなくて、もどかしさが募ってゆく。
通り過ぎて行く街には、ハロウィンの飾りがまだ残っている。この地方では、同じ日の夜から翌日の朝にかけて行われる、サウィンの祭りの方が馴染みが深いと聞いたが、あのジャック・オー・ランタンは観光客用だろうか。
息を切らせながら住宅地を駆け抜け、ようやくトールの丘に続いてゆく緩い丘陵を上り始めてから、ほどなくした時。
「あっ――!」
強風の中、黒絹の髪をなびかせ走り続けていた彼女が、草むらで何かにつまづいて、勢いよく転んだ。
二週間ほど前、日本人である彼女の母親が、英国の子爵と再婚した。
新しい父の名はヘンリー・ハーシェル卿。彼女よりも二つ年上の息子が本国に一人いる。目が不自由ではあるが、とても優秀で美しい少年なのだと、日本にいた時に父はよく自慢していた。
母が再婚して以来、一人っ子の彼女は初めてできた兄弟に会える日を指折り数えながら待ち続け、期待に胸をふくらませてイギリスへと渡って来たのだが…………。
視力を失うまで、子爵家の継嗣として将来を嘱望されて来たという美貌の義兄は、彼女を紹介されるなり白皙の端正な顔を歪めると、車椅子の上で苦々しげに吐き捨てた。
「私は人生のパートナーとなれる英国人の弟が欲しかったのだ。東洋人の妹などいらない!」
当時のことを思い出すと、今でも胸に鈍い痛みが走る。
あの日以来、彼とはずっと顔を合わせていない。
「気にしないでおくれ、メイ。ユリエルは事故で視力を失って以来、誰にでもあんな調子なのだから」
義父はそう言って慰めてくれたが、あれが彼の本音だということは、肌で感じ取っていた。
以前は兄をちやほやしていた大勢の友人達も、彼に将来性がなくなったと分かるや否や、掌を返したように遠ざかって行ったという。
彼は孤独なのだ。しかも人間不信に陥っている。
そのうえ気位が高い為、たとえ善意からであっても、同情まじりで近寄る者は決して寄せ付けようとはしない――――。
父の所有するサマーセットシャーのカントリーハウスにやって来た彼女が、グラストンベリーに伝わるサクラソウの言い伝えを耳にしたのは、兄に会ってから数日後のことだった。