第三十三話 難しい問題
エミリーは仕事を仲介してくれた担当者に話を聞きに行くと言っていたが、わたくしは止めた方がいいと止めた。
「ですが、許せません! 私の文章をでっちあげの記事に使うなんて!」
「ええ、怒りたい気持ちはわかるけれど、あの出版社、怪しいのよ」
報復のためにデタラメな記事を書いたり、依頼した文章を違う目的で不正流用したり、普通ではないなと思った。
仮に、乗り込んで行ったら、返り討ちに遭うことは目に見えている。
「夫に相談しましょう」
「エーリヒさんに、ですか?」
夫の名を出せば、険しい表情をさらに難しくさせていた。
二人の間に何かあったのか。なんだか気になったので、聞いてみる。
「あの人との婚約は、私がお断りをしたんです」
「どうして?」
「エーリヒさんは、完璧過ぎたんですよ」
会う時は必ず手土産を持参し、ドレスを褒め、どんな話も広げてくれる。紳士的な態度を崩さず、一緒に居て不快になることもない。
夫は誰にでも、同じような態度で接していたようだ。
わたくしはそれに対して何も思わなかったけれど、エミリーはそうではなかったらしい。
「なんていうか、毎回そういう態度だと、なんだか息が詰まってしまって」
「ふうん?」
「感情がまったく読み取れないですし、何を考えているか分からなくて、怖くなったといいますか」
確かに、夫のことを怖いと思うことは多々あった。彼女とは違う意味だけれど。
「わたくしも、結婚最初は隙がない人だと思っていたわ。けれど、最近は夫もわたくしと同じ人間なのねって、感じるようになったの」
笑顔を浮かべていても目が笑っていない時もあるし、余裕がない時は顔が怖くなる。
好きになれと強要したり、わたくしに触れたいからと全力疾走で追い駆けて来たりなど、子どもっぽいところもあった。
そういう一面は出会った当初は見せてくれなかったので、ようは慣れなのかなと思ってしまう。
「ヘルミーナさんはすごいです」
「そんなことないわ。長く付き合えば、嫌でも慣れてしまうものなんじゃないの?」
「いいえ、きっと、お二人は感覚が似ているんですよ」
「感覚が似ている、ね……。それもそれで複雑なような」
夫のことを散々変わり者だと思ってきたので、似ていると言われたら微妙な気分になる。
まあでも、それで上手く付き合えるのであれば、いいことだと思うようにした。
「婚約も突然こちらからお断りをしましたし、エーリヒさんに会うのは気まずいと言いますか」
「だったら、わたくしから言っておくわ」
「すみません、ありがとうございます」
夫に相談するまで行動を起こさないように言っておく。
エミリーはしっかりと頷いてくれた。
◇◇◇
その日の晩、エミリーのことを夫に報告することになった。
「エミリー・フォン・オークレール、ですか。懐かしい名前ですね」
「彼女、オークレール家の人だったの?」
「ええ、ご存知なかったのですか?」
びっくりした。
オークレール家は長い歴史と多大な財産を持つ大貴族で、行政面において国に仕え、国内でも大きな影響力を持っている一族である。
「だから、家名を名乗らなかったのね……」
もしも、オークレール家の者であると露見してしまえば、彼女を利用しようとする輩も現れるだろう。
現在どのような家名を名乗っているのかは定かではないが、言いたくない気持ちも理解することになった。
「彼女には、手酷く振られてしまいましてね」
「ええ、聞いたわ。あなたが完璧過ぎて、嫌になってしまったのですって」
「完璧……? 私が、ですか?」
「ええ。本当にわたくしもあなたが完璧? って聞き返したくなったわ」
そういう風に言えば、夫は意外そうな顔をする。
「ヘルミーナ様の前では、完璧な夫で居るつもりでしたが?」
「あら、そうだったの?」
「はい。ヘルミーナ様が完璧な妻だったので」
「ふうん。そういう風に見えていたの」
「ええ。ヘルミーナ様は、世界で一番可愛らしい、完璧な妻ですので」
「何よ、それ」
夫にとっての完璧とは、妻としての務めを果たしていることではないらしい。
「可愛いって、個人の主観じゃない。それで完璧って、なんかあんまり嬉しくない」
抗議すれば、夫は蜂蜜のような甘い笑みを浮かべていた。
反省の欠片もないような顔で、申し訳ないと一言謝罪する。
「妻としての正当な評価ですか。そうですね――実家の付き合い、娘への深い愛情、使用人への心遣い。ヘルミーナ様は本来の妻としての務めも、二重丸ですよ」
「花丸じゃないのね」
「夫への愛が、まだまだ足りないですね」
「それも評価の対象なの?」
「ええ、娘への愛の次に重要でしょうか?」
自分を一番にしないところは、好ましいと思ってしまった。
それにしても、夫への愛とは、どのように示せばいいものなのか。
ちらりと夫の顔を見る。
目が合えば、嬉しそうに笑みを深めていた。
手にしていた扇で、近くに寄るように扇げば、すぐに立ちあがってやって来る。
夫は長椅子に座るわたくしの前に、片膝を突いて座った。
なんだか、こうしていると出会った日のことを思い出してしまう。
その時のわたくしは夫のことを軽薄男だと思っていて、とんでもない行動を繰り返していたのだ。
その件に関しては、深く反省をしている。
それにしても、夫への愛とはどういうことをすればいいものか。
「……リーリエにしているようなことを、あなたにもすればいいのかしら?」
「良いですね、それ」
それで良いらしいので、わたくしは夫の頬を両手で包み込み、一瞬の躊躇いのあと、額に口付けをした。
なんだか恥ずかしくなってしまい、すぐに距離を取る。
照れ隠しをするために、夫の額に付いていた口紅を指先でごしごしと力強く拭った。
「……こんなものでよろしくって?」
「はい、ありがとうございます。とても嬉しいです」
「花丸は頂けるのかしら?」
「三十丸くらいですね」
「ちょっと、厳しいんじゃない」
「愛は毎日の積み重ねですから」
「まあ、確かに」
ということは、毎日夫への愛を示さなければ花丸はもらえないということなのか。
娘へは毎日キスもするし、抱き締めもするけれど、夫へはちょっと、なんて言えばいいのか。複雑だ。
「ちなみに、私から示す愛に応えて下さる際にも、ポイントは貯まります」
「なんなの、その仕組みは」
「いかがでしょうか?」
「そうね……まあ、いいんじゃないかしら?」
自分から行動を起こすよりは、恥ずかしくないのではと思った。
返事を聞いた夫はすっと立ち上がり、こちらに接近してくる。
夫の顔を見上げたわたくしは、ぎょっとなって咄嗟に制止した。
「ちょっと待って!」
「……何か?」
「やっぱり、顔が怖いから嫌」
「……」
いまだに夫は忙しい日々を過ごしているようで、仕事を家に持ち帰って来ているようだった。若干血走っている目を見れば、昨晩も睡眠時間を削って働いていたに違いないと分かってしまう。
「……ヘルミーナ様、この状態での待ては、とても厳しいです」
「よく寝て、普通の状態の時にお願いするわ。今のあなたは、肉食獣のよう」
「……残念ながら、肉食なんですよ」
そう言ってはいたものの、夫はわたくしから離れてくれた。
ひとまず、ホッと安堵する。
夫は元の位置に戻り、しょんぼりとしていた。
その様子を見ていたら、なんだか可哀想に思う。けれど、こちらに隙を見せておいて、心配して近づけば、取って食べる気なのは分かっていたので、見ない振りをしていた。
すっかり冷えた紅茶を啜っていると、執事より来客の訪問告げられる。
こんな遅い時間にやって来るのは誰なのかと聞いてみれば、エミリーと同居をしている女性だと言っていた。
執事は続けて要件を述べる。
「なんでも、エミリー様が帰宅をされていないらしく、ここに来ていないかと――」
「なんですって!?」
夫に相談をしている間に、状況は悪い方向へ転がっていた。




