第三十二話 分かることと、分からないこと
その日の晩、夫と話をすることが出来た。
久々に向かい合って座ることになり、若干緊張していた。
ゴシップ誌に記事が載ってしまった件について、怒られるかと思っていたけれど、そんなことはなかった。
逆に、心配されてしまう。
「ごめんなさい。わたくしが迂闊だったから」
「それよりも、どうか、気に病まないで下さいね」
「ええ、ありがとう」
一応、伯爵家から抗議文を出版社に送ったらしい。
上手くいけば、記事が載った雑誌は回収されるかもしれないとのこと。
「伯爵家の名を気付付けてしまったし、お忙しいお義兄様にも、迷惑をかけてしまったわ」
「いいんですよ。私はその雑誌に三十回ほど載りましたから」
「え?」
「私が遊び人であるという噂話が広まるきっかけになったのも、その出版社の記事のおかげですね」
「まあ、そうだったの」
「ええ。本当に、迷惑な話です。私だけならまだしも、ヘルミーナ様をもネタにするなんて」
夫はにっこりと笑みを浮かべていたけれど、よくよく見たら目が笑っていなかった。
伯爵家の名を穢すような行為を繰り返されて、我慢も限界なのかもしれない。
それにしても、まさか、夫とも因縁のある出版社だったなんて。
「そういうわけなので、兄も対処は分かっていますから、こちらは堂々としていれば問題はありません」
「分かったわ」
「しばらく噂は付きまとうでしょうが、伯爵家の者達は皆、記事を信じていませんので、ご安心を」
「だったら良いけれど」
とりあえず、ゴシップ誌は伯爵家でなんとかしてもらえるようだ。
ホッと一息吐く。
やはり、今まで感じていた不安はこの件だったようだ。
夫に相談して、少しだけ気が楽になったような気がする。
夫にお礼を言うために、居住まいを正し、頭を下げた。
「また、あなたに迷惑をかけてしまったわ」
「いいえ、これは出版社の意趣返しなんですよ。逆に、こちらがヘルミーナ様に謝らなければなりません」
「どういうことなの?」
「今までの記事の件で、兄が出版社に圧力をかけていたと聞きました。ヘルミーナ様の記事に書いたのは、伯爵家への仕返しだと思われます」
「そう」
「名誉を傷つけてしまったことを、本当に申し訳ないと」
「わたくしは大丈夫よ。気にしていたのは、あなたのご実家に迷惑をかけてしまったことについてだから」
「ですが……」
「だったら、お詫びとして、今度の休みの日に、どこかに連れて行って下さらない? もちろん、リーリエも一緒に」
「ヘルミーナ様……」
夫は苦しげな表情を浮かべ、目が合えば、顔を伏せていた。
意外と繊細なところもあるものだと思い、夫の方へ回って隣に腰かける。
「わたくしは平気。以前、あなたが話していたでしょう?」
「私が、ヘルミーナ様にお話を?」
「ええ。――『デタラメな噂話は、身の周りの大切な人だけが嘘だと知っていればいい』と」
「そう、ですね。言っていたような、気がします」
「以前聞いた時はよく分からなかったけれど、今は、わたくしもそう思うの」
そういう悪口って、わたくしのことを良く思っていない人は信じてしまうし、わたくしのことを分かってくれている人は信じないと思う。
元々、良く思っていない人達の評価を覆すのはなかなか難しいことで、名誉挽回じゃないけれど、広まった噂話をどうにかしようと奔走するのは時間の無駄なのではと、考えてしまうのだ。
膝の上に握られていた夫の手の甲に、そっと手を重ねた。
「思えば、わたくし達ってお似合だと思わない?」
社交界の遊び人である夫と、伯爵家の悪妻であるわたくし。
それは単なるデタラメな噂だけれど、夫婦揃って悪評が広まるってことは、なかなかないように思える。
「なんだか、やっとあなたとつり合えたような気がするわ」
そんな風に言えば、夫は突然わたくしの身を引いて、ぎゅっと抱きしめてくる。
何故か耳元で謝罪の言葉を繰り返すので、背中に手を回し、ぽんぽんと叩いてあげた。
◇◇◇
翌日、エミリーがわたくしを訪ねてきた。
なんとなく、タイミングを逃してしまって、夫に彼女のことについて聞けずにいた。
目的が分かったあとで相談しても遅くはない、と思っている。
「初めまして、お会い出来て光栄です」
「わたくしも」
やって来たエミリーという女性は、パッと見て変わった装いをしていた。ハンチング帽に、男性用のジャケットにズボンという、男装姿だった。
チョコレート色の髪は、肩の高さで短く切り揃えていた。大きな赤縁の眼鏡は、女性がかけているのは珍しい。年はわたくしよりも二つか三つか年下に見えた。きっと童顔なのだろう。年齢は不肖だった。
今まで出会った女性とは何もかも違っていたので、少しだけ驚いてしまう。
「わたくしはヴェイマール伯爵家のヘルミーナよ」
「はい、存じております」
エミリーは胸ポケットを探り、一枚の紙片をわたくしに差し出してくる。
「私は、こういう者です」
「ありがとう」
手渡されたのは名刺だった。
文筆業をしていると書かれている。名刺にも、名前はエミリーとしか書かれていなかった。
「依頼を受けて、さまざまな文章を書いています」
「そう」
椅子を勧めて、本題に移る。
「ずっと、お話したいなと思っていたのです」
彼女はとある貴族の家の出身で、今は平民として暮らしていると言っていた。
話を聞いていれば、夫と婚約関係にあったのはほんの三ヶ月間だったらしい。いろいろあって破談となったとか。
夫と関係があった者として、わたくしに親近感を抱いていたと言っていた。
「それで、わたくしに何か用?」
「ヘルミーナ様は、貴族社会に疑問は持っていませんか?」
「疑問?」
「決められた結婚相手、定められた道、退屈な人生――」
……どうしよう。なんか、変な人が来た。
貴族社会の仕組みに反感を覚え、彼女は平民になったのだろうか。
理解出来ないことだと思う。
「で?」
「あ、はい。もしも、お困りなら、支援の手をお貸ししようかと思いまして」
「わたくし、困っているように見える?」
「えっと、どう、でしょう?」
なんでも、噂話を聞いて、わたくしが夫から離縁を突き付けられている状態にあると思い込んでいたらしい。
なんて飛躍した思考の持ち主だと思ってしまう。
本当に、世の中いろんな人が居るなとしか言えない。
「別に困っていないわ。噂はデタラメだし、離縁もしない」
「……どうやら、早とちりをしてしまったみたい、ですね」
「ええ、そうね」
「申し訳ありませんでした」
素直にぺこりと頭を下げる彼女を見ていたら、悪気があってしたことではないと分かった。
エミリーは居場所がないような顔をしているので、気の毒に思って話しかけた。
「ねえ、文章って、どういうものを書いているの?」
「最近のお仕事は浮気話っぽい短編ですね」
「ふうん」
「夫が出張で居ない間に、若い男の人と密会して、そのあと宿屋に行くっていう……」
「え? それって」
詳しく聞けば、なんだか覚えのある話のような気がしてならない。
というか、昨日知ったわたくしの醜聞話とそっくりだった。
少し待つように言って、私室にゴシップ誌を取りに行く。
客間に戻り、エミリーに見せた。すると、嫌悪感を示すような表情となる。
「私、この出版社の作る低俗な本や記事が嫌いなんです」
「気が合うわね。わたくしもよ」
個人的な感情は抜きにして、読んで欲しいと彼女の前に差し出した。
エミリーは嫌々読み始めたようだが、途中で目を見開き、食い入るように記事を読んでいた。
そして、顔色を悪くさせながら言う。
「こ、これ、私が書いた短編です」
「やっぱり?」
「ど、どうして、こんな――」
彼女はゴシップ誌を読んで、連絡をくれたわけではなかったらしい。
偶然、知り合いに聞いて、手紙を書いたと。
「どういう仕事として受けていたの?」
「お金持ちの奥様の、個人的な楽しみと聞いていましたが」
「……そう」
他に、何十本と背徳的な話を書いていたとか。
「なんか、勝手なイメージだけど、希望に溢れたお話とか書いているのかと思っていたわ」
「え、ええ、なるべく明るい話を書きたいと思っているのですが、そういう依頼は少なくて」
それにしても、デタラメな記事に加え、文章の不正流用をしていたとは。
ますます出版社に不信感が募ってしまった。
これは、どうするべきなのだろうか?




