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第三十一話 憂愁

 夫から逃げるために、迷路のようになった庭園を駆け抜けていく。

 こんなこともあるかもしれないとわたくしは今日、踵の低い靴を履いて来ていた。まさか、本当に役立つことになるとは。

 ドレスも生地が軽い物で、走る際にも足さばきの邪魔にならない仕様になっている。


 歯を食いしばりつつ、地面をつま先で強く叩き、先へと進む。


 駆け足には自信があった。

 幼少時、追い駆けっこをしている時、捕まったことは一度もなかったのだ。


 なのに、夫はわたくしを猛追している。


 大人になってから追いかけっこをする機会などなかったので、己の実力を過信していたのかもしれない。


 必死に腕を振って走っていたけれど、ドンドンと距離が狭まっているのが分かる。


 わたくしは、人生で初めて逃げられないかもしれないと思ってしまった。


 最終的に、行き止まりに辿り着いてしまい、追い詰められてしまった。

 肩で息をしつつ、恐る恐る振り返れば、笑顔の夫が。

 同じ距離を走って来たのに、息が乱れていないのが怖すぎると思った。

 無言でじりじりと近づいて来る。

 背後は薔薇の苗なので、後ずさることも出来ない。

 夫がわたくしに手を伸ばした瞬間、瞼をぎゅっと閉じてしまった。

 衝撃に備え、心の準備をしていたけれど、なかなか襲って来ない。


「――?」


 不審に思い、瞼を開く。

 目の前に夫は居なかった。

 一体どこに行ったのかと辺りを見渡せば、地面にしゃがみ込んでいる姿を発見する。

 頭を抱え込み、微動だにしていなかった。


「え、やだ! ちょっと、大丈夫なの!?」


 寝不足状態で全力疾走したのが良くなかったのだろうか。

 わたくしもその場にしゃがみ、夫の顔を覗き込む。


「具合悪いの? 果実汁飲む?」

「いえ……」

「どこかで腰を下ろして休むような場所は――」

「体の調子が悪いわけではないのです。これは、自己嫌悪に陥っているだけですから」

「は? なんでそうなっているの?」


 顔を上げた夫は、今まで見せたこともないような、悲痛な表情を浮かべていた。


「どういうことなの?」

「……自分の望みを我慢できずに、嫌がっているヘルミーナ様を追い詰めてしまいました」


 イグナーツ・フォン・サイネークと同じ行為を働いてしまったと、静かな声で呟く。


「……別に、嫌じゃないけれど」

「え?」

「逃げたのは、あなたが血走った目をしていて怖かったから」


 わたくしの言葉を聞いて、ポカンとする夫。

 立ち上がり、手を差し出す。


「しっかり睡眠を取ったあとで、ゆっくり話をしましょう。この前のお礼だってきちんと言えていないし」

「そんな、お礼なんて……解決方法だって、強引なものでしたし」

「わたくしが言いたいから言うのよ。あなたの気持ちなんて関係ないんだから」


 不思議そうに目を瞬かせていた夫の手を勝手に掴み、立ち上がらせた。

 その刹那、騎士団所有の時計塔の鐘が鳴る。どうやら休憩時間は終わったようだ。


「そろそろ家に帰らなきゃ。あなたも、お仕事があるのでしょう?」

「ええ、そうですね」

「今日の帰りは?」

「なるべく早く帰ります」

「じゃ、待ってる」


 まだ、呆然としているようだったので、活を入れるように夫の背中を叩く。


 わたくしと夫は、庭園の道を戻ることになった。


 ◇◇◇


 帰宅後、わたくしは叫んでしまった。


「――やっぱり、気持ち悪い!!」


 当然ながら、夫のことではない。

 わたくしを落ち着かない気分にさせているのは、数日前から感じていた胸騒ぎだった。

 これは、絶対に夫への恋心ではない。

 別の何かだ。


 ドクンドクンと鼓動が早くなる。

 口元を押さえ、長椅子に腰かけようとしたその時、私室の扉が叩かれた。

 やってきたのは執事。

 顔面蒼白状態であった。


「お、奥様――」

「何? どうかしたの?」


 執事は、震える手で銀盆の上の冊子をわたくしに差し出してくる。

 それは、貴族の噂話などが書かれたゴシップ誌だった。

 表紙には、とんでもないことが書かれている。


 ――ヴェイマール伯爵家の悪妻ヘルミーナの、真昼の異性交遊!?


 文字を目で追い、意味を理解すれば、膝から崩れ落ちてしまう。

 執事がわたくしの名を呼ぶ声を、他人事のように聞いていた。


 記事の内容を確認しなければならないのに、体が言うことを聞かなかった。


 一時間後、外出先から帰って来た母がわたくしの元へとやって来る。

 どうやらすでに記事は読んでいたようで、心配は要らないと励ましてくれた。

 夫の実家に行き、話もしてきたらしい。


「お母様、わたくしったら、なんてことを――」

「過ぎてしまったことは取り返せないものですよ、ヘルミーナ」

「分かっているけれど……!」


 記事に書かれていたのは、真実が半分、嘘が半分。


 内容は、夫が居ない間、男と会っていたというもの。

 イグナーツ・フォン・サイネークとの密会を、記者に見られていたようだ。

 きっと、派手な恰好をして行った日に見られていたのかもしれない。

 その後、夫が迎えに来たことは書かれず、仲睦まじい様子で肩を組んで馬車に乗り、宿屋がある方面に走って行ったと書かれてあったのだ。


「お義父様や、お義母様に会わせる顔がないわ」

「気にしないで欲しいと言っていました。大丈夫ですよ」

「でも、伯爵家の名に、傷を付けてしまった」


 母はわたくしの背中を撫で、今日は休むようにと言う。

 夫の帰りを待ちたいと言っても、心が荒れた状態で会わない方がいいと言われてしまった。話は、母がしてくれるらしい。


 昔から、母の言うことに間違いはない。なので、素直に聞くことにした。

 帰りを待つという約束は反故にすることになるけれど。仕方がないと思った。


 乳母に言って、娘を寝室に連れて来てもらう。

 娘の温かな体を抱いて、一旦落ち着きを取り戻した。

 寝入ってしまったので、赤ちゃん用の寝台に寝かせる。

 胸に抱いていた温もりがなくなれば、一気に体が冷えたように感じて、自らの肩を摩った。


 そして、今になって気付く。

 ずっと続いていた悪い虫の知らせは、この件だったのだと。

 またしても、夫に会わせる顔がなくなってしまう。

 記事の見出しにあった通り、わたくしは最低最悪の伯爵家の悪妻だと思ってしまった。


 どうしてこういう事態になってしまったのか。

 わたくしの注意が散漫だったことも、大きな原因の一つだろう。

 イグナーツ・フォン・サイネークの要望など無視して、あの日も板金鎧フルプレートアーマー姿で会いに行けばよかったと後悔。


 その日の夜は、なかなか眠りに就くことが出来なかった。


 ◇◇◇


 翌朝。

 夫は日の出前に出勤したと知らされる。執事は手紙を預かっていたようだ。

 中には気にしなくてもいいと、わたくしを励ます言葉が書き綴られていた。

 夫の優しさが、身に沁みる。


 もう一通手紙が届けられていると、執事は封筒が載った銀盆を差し出す。

 今朝方、早馬で届けられたらしい。

 手に取って差出人を見てみたが、エミリーという知らない女性の名前が書かれていた。どうしてか、家名は書かれていない。

 宛名はわたくしで間違いない。不審な手紙に首を傾げつつ、手紙を開封する。


 手紙は初めましてと書かれている。やはり、知り合いではなかったのだ。

 先を読み進めていけば、思いがけない情報が書かれていた。

 彼女はどうやら、夫の元婚約者らしい。そして、わたくしと話がしたいと。

 夫とわたくしの間に割って入りたいわけではないので、安心をして欲しいとも書かれていた。てっきり、夫と別れるように言いたいのかと思っていたので、拍子抜けをする。


 一体どういう目的でわたくしに会いたいのだろうか。

 まったく想像がつかない。


 今回の醜聞に関係のあることだとも書かれていた。

 ならば、一度会って話を聞くしかないだろうと思う。


 わたくしは、エミリーに返事を書くことにした。


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