第三話 完全武装のヘルミーナ
その後、お母様に命じられ睡眠を摂ることになった。お昼過ぎまで休んでいたら、目の下のくまも少しは薄くなったような気がする。
気分を入れ替え、夜の戦いに挑むために万全を期する。
この場合武装はドレスで、要塞はお化粧、武器は扇。準備に時間を掛ければ掛けるほど、勝利への道が開かれる。
時間を掛けてお風呂に入り、指先からつま先まで綺麗に磨き上げていく。
勿論、わたくしだけでは無理なので、侍女の手を借りる。
風呂から上がれば、一杯の白湯を飲み干す。
入浴中は汗として水分が体から出て行ってしまうので、しっかりと水分補給をしなければならない。
よく、風呂上がりに倒れてしまったというご令嬢の話を聞くけれど、脱水症状になっているだけだった。
たくさん汗をかいて、余計な毒素や老廃物を体から排出し、しっかりと水分補給する。それは、美しさを保つ秘訣である。親切心で一度指摘したら、場の空気が悪くなったので、それ以降言ったことがない。
社交界では、失神したり痩せていたりと、か弱い女性がもてはやされる。
なので、風呂場で倒れた話も、「わたくしはこんなに儚い」と主張しているだけなのだ。
こういった話をお姉様達にすれば、「それは家族以外、誰にも言ってはなりません」と窘めてられてしまった。
わたくしもそれについては薄々気付いていた。
女性社会は共感を大切にしている傾向がある。周囲と違う意見を言えば、爪弾きにされてしまうのだ。なんとも恐ろしい世界の中で、わたくしは生きている。
浴室に衣装担当の侍女がやって来て、問いかけた。
「ヘルミーナ様、本日はどのようになさいますか?」
そんなもの、はなから決まっている。
「わたくしを、世界一綺麗にして」
侍女は恭しい態度で頭を垂れる。
戦闘準備も中盤に差し掛かろうとしていた。
◇◇◇
夕刻、やっとのことで身支度が整った。
お化粧は出来るだけ濃く施すように命じた。
抜けるような白い肌に、明るい色の派手な口紅。瞼は夜を思わせるグラデーションで、頬紅は春の色を選んだ。
髪は複雑に編み込まれ、後頭部でくるりとまとめられている。髪を留める飾りは、白い花を模した物。お姉様達からの結婚前祝いの品で、とても気に入っていた。
ドレスは真っ赤なものを選んだ。夜用の礼装で、袖がなく、胸の周りが大きく開いた意匠をしている。
胸元を彩るのは、大粒のダイアの首飾り。これはお母様にお借りしたもので、眩い輝きを放っている。キラキラ眩く光っているので、向かいに座る予定のエーリヒ・フォン・ヴェイマールへの威嚇行動というか、牽制というか。そういう目的で選んだ。
真っ赤なドレスは光沢のある絹が使われていて、手触りは最高。上半身は体の線に沿う形で、腰はリボンで絞られている。スカートは鳥かごのような円型の枠で、美しい形を作っていた。
鏡を見て、笑みを浮かべるわたくし。
「ヘルミーナ様、いかがでしょうか?」
「これで勝てる。確実に」
「それはそれは。ようございました」
長時間の身支度に付き合ってくれた侍女達を労う。お前達はわたくしの自慢よと。
そう言えば、涙を浮かべる者も居た。どうしたのかと聞けば、もうすぐお世話を出来なくなるのが寂しいと言っていた。
なんていじらしい娘達なのか。わたくしは感激してしまった。
けれど、あなた達も一緒に連れて行くので安心しろとは言えない。まだ、エーリヒ・フォン・ヴェイマールからはっきりとした回答を聞いていないからだ。
両手を祈るように強く組み、とりあえずお礼を言おうとしたら、指の関節がボキボキと鳴ってしまった。侍女達は「ヒッ!」と悲鳴を呑み込む。
せっかくいい雰囲気になっていたのに、台無しとなってしまった。
◇◇◇
夜、約束の時間ぴったりにエーリヒ・フォン・ヴェイマールの訪問が執事により告げられる。
わたくしは侍女から鳥の尾で作った扇を受け取り、優雅に扇ぎながら待つ。
――……?
なんだか調子がおかしい。鼻がムズムズして、喉もイガイガしてきた。
このわたくしが、風邪?
十数年前、雪の日にドレス姿で遊びに出掛け、犬と一緒に駆け回り、びしょ濡れで家に帰って来た時以来、風邪を引いていないこのわたくしの体が、体調不良を訴えているというの?
長風呂がいかなかったのだろうか?
でも、浴室は温かかったし、湯も小まめに侍女が追加してくれていた。
首を傾げ、考える。
そうこうしているうちに、エーリヒ・フォン・ヴェイマールが部屋に辿り着いてしまった。
わたくしは渋々と、椅子から立ち上がって出迎える。
開かれた扉の先には、輝く金色の髪と澄んだ翠の瞳を持つ男性が立っていた。
思わずため息が出てしまいそうな美貌を持っている。実際に見た彼は記憶の中のよりも、ずっと美しい人だった。
「――はじ」
挨拶をしようとすれば、ツカツカと笑顔で歩いてやって来る。
想像していなかった素早い行動に驚いて、その顔を扇で隠しつつ、若干のけ反ってしまった。
何をするのかと思えば、わたくしのすぐ目の前にすっと片膝を突く。胸に手を当て、見上げてきた。そして、こちらへ一言物申す。
「――ヘルミーナ様、お会いしとうございました」
「は?」
ポカンとしているわたくしに、指先に触れてもいいですかと聞いてくる。
そんなの駄目に決まっている――と言いたいところだけれど、手を掴んで口元に持っていくのは紳士の挨拶の一つだ。なので、嫌々承諾をする。
すると、この男はそっとわたくしの手を握り、爪先に唇を寄せた。
まさかの行動にぎょっとするのと同時に、全身がぶるりと震え、鳥肌が立つ。言い換えれば、悪寒というものだろう。
手袋を嵌めていればよかったと後悔した。
これは騎士が姫君に忠誠を誓う、古典的な儀式の一挙一動である。挨拶代わりにするものではない。それに、王家に仕える騎士が、それ以外の個人に片膝を突くなど、あり得ないことだった。
なんて軽薄な男なのか。
きっと、世界中の全ての女性にこういうことをしているに違いない。
これをすれば、怒っている人達も許してしまうのだろう。
分かってやっているに違いない。心底呆れてしまった。
エーリヒ・フォン・ヴェイマールは目を伏せ、憂いの表情を浮かべていた。
「ヘルミーナ様、あなたには、なんと謝罪をすればいいのか」
会いに来るのが遅れたこと、婚約披露会の準備を手伝えないどころか、当日参加も出来なかったこと、その他にもいろいろと、彼は地面に膝を突いたまま一つ一つ謝っていった。
「――許していただけるでしょうか、私の愛しい人」
本日二回目の寒気と鳥肌が立つ。
どうして、初対面の相手にこういうことが言えるのだろうか。
空気よりも軽い男だと思った。今まで、甘い顔をして下手に出て謝れば、全ての問題が解決していたのだろう。
――甘い。甘すぎる。
謝罪の一つで許してしまえば、この先もわたくしばかり苦労をしてしまう可能性があった。
寛大な女性でいることも大切だけれど、飴と鞭はしっかり使い分けなければならない。
わたくしは扇を畳み、先端をエーリヒ・フォン・ヴェイマールの顎の下に当て、軽く持ち上げた。
「今まで、そうやって許して頂いたのかしら」
「いえ、そういうわけでは……」
「でしたら、大変な不手際と迷惑をかけてしまって申し訳ないという、あなたなりの誠意を見せて頂けるかしら?」
言い終えたら、扇を引き、閉じていたものをパラリと開いて優雅に扇ぐ。
そこで、再びわたくしに異変が。
――んん? また、なんだか、鼻がムズムズするような?
大事な場面なので堪えたかったけれど、我慢なんて出来なくて、大きなくしゃみをしてしまった。
エーリヒ・フォン・ヴェイマールに「大丈夫ですか?」と聞かれてしまう。
こんな奴に心配をされるなんて、一生の不覚!!
奥歯をギリリと噛みしめていたら、ある指摘をされた。
「もしかしたら、動物性の過剰反応かもしれないですね」
それを聞いてハッとなる。
羽毛を使った扇を鼻先に近づけ吸い込んでみれば、再びムズムズに襲われた。
「なるほど」
わたくしはそう呟いて、侍女に扇を渡す。別の品を持って来るように命じた。
過剰反応だったら仕方がない。わたくしの体が脆弱だというわけではないのだ。
良かったと一安心。
思わず表情を緩ませていたら、エーリヒ・フォン・ヴェイマールと目が合う。
そうだ、この御方の誠意を訊ねているところだったのだ。
表情を引き締め、気を取り直して、問いかける。
「では、お答えを聞かせて頂こうかしら?」
「ヘルミーナ様の犬か下僕になります」
……今、なんだかとんでもない言葉が聞こえたような?
わたくしは思わず天井を仰ぐ。
気まずい沈黙が、部屋の中を支配していた。
彼の誠意は聞かなかったことにして、椅子に腰かけた。




