第二十九話 幕間 イグナーツ・フォン・サイネークのひとりごと
ヘルミーナ・フォン・ロートリンゲンとの出会いは十五年前。物心がついていなかったにも関わらず、何故か鮮明に覚えている。
その頃の俺は侯爵家に引き取られたばかりで、周囲に溶け込めないでいた。
それも仕方がない話だろう。
大人達は俺を愛人の子として蔑み、そんな態度を見た子ども達は空気を察して近付こうとしなかった。
当時の俺も、下町の人達とはまったく雰囲気が違う貴族と、どう接していいのか分からなかったのだろう。
ある日、貴族の集まりがあって、父に他の家の子ども達と外で遊ぶように言われた。当然ながら、仲間外れにされる。
独りぼっちとなり、他の大人に見つからないよう、庭の植木の陰に隠れた。
周りからは、楽しそうな声が聞こえている。
それを聞いていれば、酷く悲しい気分になっていた。
そんな中で、思いがけない出来事が起こる。
「見〜つけたっ!」
背後から誰かが走って来たかと思えば、ぎゅっと抱きしめられる。
振り返れば、黒髪に青い目をした可愛らしい少女が、小首を傾げながら俺を見ていた。
「――あら、あなたは?」
「……」
「ごめんなさい、おともだちと、間違えてしまったわ」
どうやら勘違いをして、抱きしめてしまったらしい。
その頃の俺は髪が長くて、後ろから見たら女にしか見えなかったのかもしれない。
にっこりと微笑みながら謝罪をする彼女こそ、ヘルミーナ・フォン・ロートリンゲンだった。
◇◇◇
驚いたことに、ヘルミーナは俺の手を引いて、仲間に引き入れてくれた。
周囲の子はぎこちない態度で接していたが、それも時間が解決してくれた。
ヘルミーナのおかげで、子どもの輪の中に溶け込むことが出来たのだ。
それが理由なのかは分からなかったが、彼女はずっと俺の中で特別な存在だった。
いつか、ヘルミーナを守れる存在になりたい。いずれ、騎士になりたいと、父に懇願をした。
頼み込んでようやく剣技を習えることになったのに、その集まりにヘルミーナが来ていたのを見た時には驚いたものだった。
彼女のことは俺が守るから、剣なんて握らなくてもいい。そんな風に言ったかは覚えていないが、何かを言ってヘルミーナを泣かせてしまったことは覚えている。
可憐なヘルミーナに剣は似合わないと思った。間違った判断ではないと、考えている。
それから数年、俺は騎士になるために必死になって剣技を身につける。
従騎士になるための試験にも合格し、家族にも祝福された。
朝の訓練を終え、木に寄りかかって休んでいれば、風を切り裂く音と木に何かが刺さる音が聞こえ、はっと我に返る。
頭上を見れば、木に紙を結んだ矢が刺ささっていた。
――これは、果たし状!?
木から矢を抜いて開いてみれば、送り主は驚くべき人物であった。
イグナーツ・フォン・サイネーク
明日、日の出後、ロートリンゲン家の庭園にて、決闘を申し込む。
ヘルミーナ・フォン・ロートリンゲンより
何故、彼女が俺に決闘を?
理由がまったく思いつかなかった。
剣を習っていた事実にも驚く。
それにしても、ヘルミーナに最後に見たのはいつだったか。
一人前になってから、会いに行こうと思っていたのに、想定外の出来事に直面して焦りを覚える。
おろおろとしている間に、決闘の日を迎えてしまった。
◇◇◇
その日のコンディションは最悪だった。
まったく眠れなかったし、食欲もなくてふらふら状態。
ヘルミーナに剣なんか向けたくないのに、正式な手続きをした決闘から逃げることは許されないことなので、渋々とロートリンゲン家に向かう。
久々に会った彼女は男装姿だったが本当に綺麗で、直視出来なかった。
そんなヘルミーナと戦えるわけもなく、あっさりと敗北してしまった。
悔しさよりも、一体どうしてと、決闘を申し込まれた理由に悩むことになる。
それから更に数年後。
十五になって、正式な騎士となった。
叙勲式の日に、俺は長年秘めていた思いを侯爵家の当主となった兄に告げることになる。
それは、ヘルミーナを妻として迎えたいということだった。
下町に生まれ、騎士になることなど考えてもなかった俺がここまで頑張ってこれたのは、彼女を守るため。
その想いを、兄に訴えた。
だがしかし、返ってきた言葉は辛辣なものだった。
――イグナーツ、君の努力は大変素晴らしいことだが、ヘルミーナ嬢を妻として迎えるのは難しいだろう。言い難いことだが、君の母親は平民だ。王家の血を引く彼女は、貴族の血の濃い家に嫁ぐことになるだろう。
話を聞いた俺は、頭から雷撃を落とされたような衝撃を受ける。
あんまりだと思った。
貴族社会のしきたりなんて知らない。
言葉に出来ない怒りがこみ上げてくる。
悔しさから拳を握り、奥歯を噛み締めていれば、兄が話しかけてくる。
諦めるのはまだ早い、と。
どういうことかと聞けば、騎士団で出世をすれば、もしかしたら結婚が認められる可能性がある、と。
だが、そうなるには、小隊でもいいので隊長クラスまで昇進する必要があると言っていた。
それを聞いた俺は、その日から更に騎士としての務めに力を注ぐことになる。
顔見知りの貴族達は騎士である俺を見下し、嘲笑っていた。
汗水たらし、労働に就いているということは、侯爵家の者として認められていないと言っているようなものだった。奴らは俺の生まれを知っているのだろう。
そんないけ好かない貴族達が参加をする、夜会会場の警備も必死に耐えた。
会場警備をする中で辛いことと言えば、自分と似たような境遇の者につい視線が行ってしまうことだった。
田舎から来た貴族、成金の新興貴族に、没落寸前の貧乏貴族。
その者達は、会場で居場所のないような顔をして、参加をしていた。
それはまるで、侯爵家に引き取られたばかりの自分のようで、意味もなく焦燥感に駆られる。
一年後。
ヘルミーナの社交界デビューの年となった。
彼女は、息を呑むほど美しくなっていた。
当然ながら、声なんかかけられるわけがない。
しかしながら、遠くから眺めていれば、ヘルミーナの変化に驚くことになる。
大人しい娘だと思っていたのに、いつの間にか気が強い淑女へと成長していた。
そんな彼女は至る場所で様々な騒ぎを起こす。どうしてそうなったと頭を抱えることになったが、変わらないところもあった。
ヘルミーナは、相手が誰であろうと分け隔てなく周囲と接し、夜会の雰囲気に溶け込めなかった者達も、自分の輪の中に引き込んでいた。
その姿に、深い安堵をする。
ヘルミーナは出会った時とまったく変わっていなかった。
それから数年、昇進するために、ひたすら頑張った。
ヘルミーナの結婚話が上がっていないか兄に確認し、「まだ決まっていない」という返事を聞いて、安堵する毎日を過ごす。
正騎士となって六年目に、ようやく教育部隊の副隊長への昇進が決まった。
あと少しで、結婚の申し込みが出来る! そう思っていたのに、兄から思いがけない知らせを受けることになった。
――ヘルミーナの結婚が決まった、と。
相手はヴェイマール伯爵家の次男。
まさか、今になって横取りされることになるとは思ってもいなかった。
兄に頼み込み、どうにか出来ないものかと懇願したが、今回の結婚は国王が決めたもので、どうにもならないと言われてしまう。
兄に諦めろと言われたが、難しいことのように思える。
せめて、エーリヒ・フォン・ヴェイマールがまともな男だったらと、悔しくなった。
奴は社交界で浮世を流している男で、女好きで隠し子も居るという、どうしようもない奴なのだ。
だが、王命とあれば、兄の言う通りどうすることも出来ない。
目的を失った俺は、半ば自棄になりながら毎日を過ごすことになった。
◇◇◇
ヘルミーナはエーリヒ・フォン・ヴェイマールと結婚をした。
認めたくない話だが、事実であった。
兄夫婦にも子どもが生まれ、周囲はお祝いムードに包まれている。
そんな中である日、侯爵家に出入りをしている商人から不可解な話を聞く。
兄の子は四つ子だと聞いていたが、赤子用の品物は三つずつしか注文がなかったと。
四つ子の一人はヘルミーナが引き取っていた。
なんとなく不思議に思い、何か裏事情があるのではと、独自に調査をする。
商人には情報を漏らさないよう、大金を払って口止めをした。
いろいろと調べ回れば、とんでもないことが発覚する。彼女が引き取った子は、侯爵家の子どもではない、と。
ヘルミーナが引き取った子どもは黒髪に青目。王家の者の特徴を引き継いでいた。
エーリヒ・フォン・ヴェイマールが第二王子の近衛部隊に所属していたことを考えれば、王子の子であると予測するのが正しいだろう。
そんな重大な情報を握った俺は、ある計画を思いつく。
この件を黙っていることと引き換えに、ヘルミーナとエーリヒ・フォン・ヴェイマールとの仲を引き裂くことが出来るのではないのかと。
計画を練っている最中、異動先が正式に決まる。
奇しくも、そこはエーリヒ・フォン・ヴェイマールが隊長を務める部隊だった。
翌日、顔合わせをする。
奴の顔を見ながら話をしている間、腸が煮えくり返りそうになっていた。
まだまだ計画はあたためる予定であったが、我慢出来そうにないので実行に移すことにした。
その前に、身なりをしっかりと整えてから、彼女に会おう。
そう思って紳士用品を買いに行けば、店先でヘルミーナと偶然再会することになる。
彼女を見た途端に、眩暈を起こしそうになった。
それくらいに、ヘルミーナは美しかったのだ。
幼少期以来、十数年ぶりに近くで見たことに気付き、感動を覚える。
動揺を隠すように、軽い調子で声をかけた。
だがしかし、ヘルミーナは俺のことをすっかり忘れていた。
そこからあとの記憶は随分と曖昧なものとなっている。
彼女は度重なる呼び出しに、予想の斜め上の恰好で来たり、夫に好意を抱いているような反応をしたり、きつい態度であしらわれたり。
良い思いは一度も出来なかった。
それに、大変な事態に直面する。
密会しているところを、エーリヒ・フォン・ヴェイマールに見つかってしまった。
奴は凄まじい顔で俺を睨んでくる。
そして、こちらに見せつけるように、ヘルミーナの体を抱き締め、どうだ、羨ましいだろうと言わんばかりの視線を向けてきたのだ。
彼女はやって来た夫を見て安堵するような表情を見せ、身を任せている様子を見せていた。
軽薄で女好きの夫の元に嫁ぎ、不幸な思いをしているというのは、俺の思い込みだったと目の当たりにすることになった。
そして、エーリヒ・フォン・ヴェイマールと二人きりとなり、話し合いを始める。
確認の意味も含めて子どものことについて訊ねれば、思っていた通り引き取ったのは第二王子の子だということが発覚した。
だが、それを口外すれば、俺一人だけでなく、侯爵家も大変な事態になることを知らされる。
もちろん、周囲に言いふらすつもりなんかまったくなかったが、知らずに危うい情報を握ってしまったことを恐ろしく思った。
この落とし前はどう付ければいいのか。
エーリヒ・フォン・ヴェイマールの判断を待つ。
侯爵家から追い出され、騎士の身分をはく奪されるだろうと思っていたが、意外な処分が言い渡された。
この件については、自分達だけの秘密にする、と。
一体どういうことかと聞けば、エーリヒ・フォン・ヴェイマールは侯爵家の人間としての俺の働きに期待をしていると言っていた。
奴はゾッとするような笑顔を浮かべて言ってくる。
「兄上にバラされたくなかったら、私の部隊で馬車馬のように働いてくださいね」
この俺が、逆に脅されることになるとは。
エーリヒ・フォン・ヴェイマールは、とんでもない腹黒男だと思った。
その後、訓練と称し、長時間に渡っていたぶられる。
奴の実力は相当なものであった。
恐らく、全身青痣だらけで、明日は疲労で立ち上がれないと思われる。
そして、へとへとになった中で一枚の誓約書を書かされた。
それは今後一切ヘルミーナに近づくな、見るのも許さない、というもの。
破れば、死を以て償ってもらうと記されていた。
弱みを握られている俺は、それに署名する他なかった。
◇◇◇
振り返ってみれば、自業自得としか言えない。
そもそも、ヘルミーナを妻として迎えようと思ったことが、身のほど知らずだったのだ。
今回の件で、すっかり目が覚めてしまった。
エーリヒ・フォン・ヴェイマールには、感謝をすべきなのだろう。
これからは前を向いて、真面目に生きていこうと思った。