第二十八話 エーリヒ・フォン・ヴェイマールの本気
何故、隣国で任務に就いているはずの夫がここに!?
わたくしは開いた口が塞がらない状態でいた。
そんな夫はすたすたとこちらに歩いてきたかと思えば、傍にいた馬鹿男をそっと押して離し、何故かわたくしを抱き締める。
「ヘルミーナ様、もう、大丈夫ですから」
――いや、さっき悲鳴あげたの、あなたを見たからなんだけど。
そんな言葉が浮かんできたが、夫の声を聞き、優しく抱き締められていたら心底ホッとしてしまったので、どうでも良くなってしまった。
わたくしは夫に体重を預け、ほうと安堵の溜息を吐く。
「手紙を読んで、何かあったのではと思っていましたが……」
「ええ、まあ」
手紙の内容からいろいろと察してくれたようだ。
相変わらず、切れる人だと思う。
「それにしても、この状況は一体――?」
先ほどまでの蜂蜜のような声色から一変して、低く冷たい声を発する夫。
視線は背後に居る男にあるようだった。
ふと我に返り、他人の目があるのに抱擁を受けているなんて恥ずかしいと思い、離れようとしたが、夫は放してくれなかった。
一体、どうして……。
夫は馬鹿男に話しかける。
「あなたは確か、うちの部隊に異動となる、イグナーツ・フォン・サイネーク卿、でしたね」
しっかり相手の顔と名前を把握していたようだ。
どうやら一度、二人は顔合わせをしたようである。
今、あの男はどんな顔をしているのか。
わたくしが彼の立場だったら、地面に膝を突いて許しを乞うていたかもしれない。
それくらい、今まで聞いたことがないような冷たい声で夫は話しかけていた。表情は見えないけれど、きっと酷く険しいものだろう。見えなくて良かったと、夫の胸に顔をうずめた状態でこっそり思う。
「サイネーク卿、少し、二人でお話を致しましょうか?」
「い、いや、その……」
「休暇期間中なので、お時間はたっぷりとありますよね?」
「……それは」
「他人の妻と過ごす時間はあって、未来の上司と過ごす時間はないと?」
「い、いいえ、大丈夫です」
「ありがとうございます」
話がつけば、やっと夫はわたくしを解放してくれる。
乱れた前髪を手櫛で戻しつつ、ちらりと夫の顔を見た。
怒っているのかと思えば意外にも、困った顔をしていた。
「あ、あの、わたくし――」
「ヘルミーナ様、すみませんでした」
「え?」
「来るのが遅くなってしまって」
――いや、早すぎてびっくりしたんだけど。
そう言おうとしたら手を包むように握られ、ドキリと胸が高い鼓動を打つ。
「なるべく早く戻りますので」
「え、ええ。待っているわ」
「はい、頑張ります」
これから一体何を頑張るのか。怖くて聞けなかった。
わたくしは夫から離れ、背後に居た男を振り返る。
びっくりするくらい顔を真っ青にしていて、その場に立ち尽くしていた。
夫はどんな顔で話しかけていたのか。若干気の毒に思ってしまう。
声をかけようとしたら、夫がわたくしを背後から抱き締める。
「ヘルミーナ様、随分と疲れているようにお見受けします。早く私達の家に帰って、休まれて下さい」
「え、ええ。そうね」
耳元で囁かれ、カッと顔が熱くなるのを感じてしまう。
なんだろうか、この、過剰な触れ合いは。
そう思っていたら、先ほど夫のことが好きだと堂々宣言したことを思い出し、耐えがたい羞恥を覚えた。本当に、タイミングが悪かったと思う。否、危ないところだったので、タイミングは良かったのか。
とにかく、言われた通り、早く帰ろうと身を捩って夫から離れる。
「では、また」
「ええ」
男にも「それでは、ごきげんよう」と別れの挨拶をしたけれど、どうやらわたくしの声は届いていないようだった。
会計を済ませようとすれば、店主はすでに夫が支払いを終えていると言っていた。
従者に命じていたようである。
どこまでも抜かりない人だと思った。
◇◇◇
帰宅後、娘の顔を見に行って、風呂に入ることにした。
派手な服を雑に脱ぎ散らし、濃い化粧を落として湯船に浸かる。
ここでも、はあ~と盛大な溜息を吐いた。
まだ何も結果を聞いていないのに、この件に関しては大丈夫だと思ってしまう自分が居る。
それほどに、わたくしは夫を信頼し、頼りにしていた。
結婚を聞かされた当初からは考えられないほどの心変わりだろう。
夫への気持ちも、宣言したもので間違いないと確信している。
なんだか気恥ずかしいものだけど、大切にしたい感情だと思った。
けれど、帰って来た夫にどういう顔を向けて良いものか分からない。
今日は帰って来なければいいのにと思うし、早く帰って来て欲しいとも思う。
これは、哲学的には二律背反というものだろう。
それらの理念について考えるには、入浴時間中には長すぎる。
そもそも、恋愛感情を哲学に置き換えるのは愚の極みなのかもしれない。
わたくしの感じる感情は最もシンプルで、分かりやすいものだろう。
小難しく考える必要はないのだ。
火照った体を冷やすために、湯から出る。
体を清め、身なりを整えたあと、夫の帰りを娘と待つことになった。
夫の帰宅は娘が深く寝入り、日付も変わるような時間帯であった。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい」
さすがの夫も疲れた顔をしていた。
聞けば、任務を終えたあと、急いで帰って来ていたらしい。
「部下はどうしたの?」
「一緒に帰って来ました」
「そ、そう」
どうやら関係のない人達まで巻き込んでしまった模様。
「彼らもいい経験になったと思いますよ」
「だったらいいけれど」
夫は一度、寝室に言って娘の顔を見に行った。
天使のような寝顔だったと言って、笑顔で戻って来る。
寝室は暗い。
ここで、夫は夜目も効くことが分かってしまった。恐ろしい人!
そんなことはどうでもいいとして、恐る恐る話し合いの結果を聞く。
「話は全てイグナーツ・フォン・サイネークから聞きました」
「ええ」
「結果を言えば、解決したと言えるでしょう」
「本当に?」
「はい。もう、心配ありません」
「よ、よかった……!」
ホッと胸を撫で下ろす。
やっぱり、夫を頼って正解だったのだ。
話し合いは数時間に渡って長引いたみたいだけれど、無事に解決となり、非常に嬉しく思う。
ドロテアお姉様やお忙しいお義兄様にも迷惑をかける事態にならなくて、本当に良かった。
「疲れたでしょう?」
「さすがに、そうですね。ずっと剣を交えていたので」
「――え?」
「汗を掻いたので、今すぐお風呂に入りたいです」
「ど、どうぞ?」
「ああでも、もう少しだけ、このままヘルミーナ様とお話もしたい」
「わたくしは待っているから、ゆっくりお湯に浸かってくればいいわ」
「お疲れなのでは?」
「いえ、わたくしはあなたを待っている間、休んでいたので」
「でしたら、お言葉に甘えます」
夫はすっと立ち上がり、部屋から出て行く。
部屋に取り残された中、不可解な話について考えて、首を傾げた。
夫は今まで、イグナーツ・フォン・サイネークと剣を交えていた、と。
一体どうして?
答えは推測すら浮かばなかったので、大人しく夫が戻って来るのを待つことにした。
数十分後、夫は部屋に戻って来る。
きっちり整えていたひよこ色の髪はふわふわの状態に戻り、衣服も寝る前の寛いだものとなっていた。
「おかげさまで、すっきりしました」
「それはよかった」
長椅子の向かい合った場所に腰かけ、にこにこと蕩けそうな笑顔でわたくしを見る夫。
なんだか照れてしまって、顔を背けてしまった。
とりあえず、話を先ほどのものに戻す。
「それで、どうやって解決したの?」
「簡単な話です。王家の秘密を口外すれば、本人どころか家まで危なくなりますよ、と言っただけです」
「あ!」
そうだった。
王家が隠そうとしていることを話せば、国王様も黙っていないだろう。
処分は本人どころか、家も巻きこむことになる。
あの男はなんて恐ろしいことをしていたのかと、身震いをしてしまった。
「この件は、私達だけの秘密にしておきました」
「どうして? お義兄様には言わないの?」
「はい。彼も、色々と危うい位置に居るらしいので」
「危うい位置って?」
「イグナーツ・フォン・サイネークは、前サイネーク侯爵の愛人の子どもなのです」
「まあ、そうだったの」
五歳の時に母親が亡くなり、侯爵家の五男として引き取られたらしい。
確か、彼と出会った時期もその頃だったような気がする。当時、礼儀がなっていなかったわけを理解することになった。
「侯爵様に報告して、一族より放逐されるのが一番適切な処罰だとは思いましたが、彼は私の部下になるので、侯爵家の名があった方が――都合がいい。ヘルミーナ様が望むのなら、侯爵様に報告致しますが?」
「いえ……」
夫の部下として傍に居る方が辛い罰になるのではと思ってしまった。
まあ、あの男へは頑張ってくれとしか言いようがない。
「とまあ、そんなわけで、話し合いは三十分ほどで終了しました」
「そ、そうだったの?」
ということは、残りの数時間は全て剣を交えていたことになる。
「何故、そのようなことを?」
「個人的に、許せなかったのですよ」
「何を?」
「ヘルミーナ様に、邪な感情を抱いたことを、です」
「ああ……」
これについては、わたくしもびっくりした。
異性より言い寄られた経験がないので、戸惑いの方が大きかった。
話し合い後、夫は訓練をすると称し、彼を数時間にわたって痛めつけた模様。
訓練という正当な目的があって私闘扱いにはされず、正しい手続きを以て報復措置をしてくれたようだった。
「もう、彼がヘルミーナ様に接触してくるようなことはないので、安心して下さいね」
「あ、ありがとう」
若干やり過ぎではと思ったが、何も言わないでお礼を言っておくことにした。
次話、イグナーツ・フォン・サイネークの視点になります。




