第二十話 一難去ってまた一難
あの日から、わたくしはアウグスト殿下と文通を始める。
かの御方は小難しい話ばかり書いて、わたくしを困らせてくる。話題はもっぱら経済について。
話の内容が分からないことに腹を立て、夫の書斎で経済の本を読み、いろいろと調べながら、手紙を解読している。
もちろん、子育てについての話を乳母のイリア・フォン・ルーリンクから聞いたり、赤ちゃん用の布小物の準備もしたりもしていた。
夫はといえば、近衛騎士の教育係になったらしい。
最近は定時に帰って来て、夕食を共にしている。
相変わらず、蜂蜜のような人で一緒に居る時間が長くなって、若干胸やけしそうになっている。
アウグスト殿下とのささやかな交流について、夫に話をしようと思っていたけれど、なんとなくタイミングを掴めずに今に至っている。
だんだんと日にちが経つにつれて言いにくくなり、今では秘め事のようになっていた。
奇しくも、殿下も似たような状況になっているらしい。夫とは頻繁に会っているらしいが、今まで言えずにいたとか。
殿下から説明してくれとお願いをしたけれど、絶対に無理だと言われてしまった。
わたくしも、夫に追及される場面を想像したらぶるりと震えてしまい、絶対に無理だと思った。
この件で、殿下との結束が高まったというか、仲も深まったような気がする。
手紙の内容も堅苦しい経済の話から、夫との思い出話に代わっていた。二人は教師と生徒というよりも、兄弟のように育ったことが窺えた。
「楽しそうですね」
「ええ、微笑ましくて――」
緩んでいた頬の筋肉が、一瞬で固まる。
目の前の長椅子に夫が座っていたからだ。いつの間に帰って来ていたのか。
「ち、ちょっと、なんで声をかけないのよ!」
「ただいま帰りましたと、失礼します、は言いましたが」
「……あ、そうだったの」
どうやら手紙に集中するあまり、夫の帰宅に気付いていなかったようだ。
わたくしは焦りから、ぎこちない動きで手紙を折りたたんで封筒に入れた。
これで大丈夫と思いきや、夫の視線は手紙にある。わたくしは両手の下に手紙を隠した。
「今日ですね、職場で……」
「え、ええ」
いつもの蜂蜜の笑みを浮かべ、夫が話しかけてくる。仕事の話をするのは珍しいなと思いながら、聞いていたが――。
「アウグスト殿下に用事があって、部屋を訪問したんです。すると、先ほどのヘルミーナ様みたいに、頬を緩ませながら手紙を読んでいて」
「!?」
それは多分、今日のお昼くらいに届くように手配したわたくしの手紙だ。
殿下はすぐに返事を書いてくれたようで、つい一時間前に届けられたのだ。
まさか、互いに読んでいるところを見られていたとは。
ちなみにわたくしが書いたのは、夫が勤労のご褒美に頬にキスを望んだ話。そんなに面白い話だったかと首を捻る。
「それで――」
「!」
物思いにふけっていたら、夫の少しだけ硬い声が耳に響き、ビクリと肩を揺らしてしまった。
夫はいつの間にかたまに見せる、目が全く笑っていない笑顔となっている。
「殿下が最近女性と文通しているという話を聞いて、やっと春が来たのかと、とても喜んでいたのですが――」
「え、ええ」
嫌な予感しかしない。
わたくしは長椅子に置いていた扇を広げ、顔半分を隠す。動揺した顔は見られたくないと思ったからだ。
「殿下が隠したお手紙の筆跡がちらりと見えたのですが、なんだかよく知る文字に似ている気がして」
よく知る? だったら、わたくしではない?
夫に手紙は二通しか送っていない。なので、彼がよく知る筆跡ではないだろうと思った。
殿下も、知らないところで上手くやっていたようだと考えていたら、責めるような夫の目と視線が交わる。
「な、何?」
「いえ、どうしてヘルミーナ様は、殿下と文通をなさっているのかと思いまして」
わたくしの手から、ぽろりと扇が落ちる。
夫は立ち上がり、拾ってこちらへ差し出した。
「どうぞ、落としましたよ」
「……そういうことは、しなくてもいいの」
「したいからするんですよ」
「意味が分からないわ」
雑な手つきで扇を受け取り、元居た場所に戻るように命じる。
「……やっぱり、犬がいいと思うのです」
「何が?」
「最初に言った約束、お忘れですか?」
「約束なんかしていないでしょう」
「しましたよ。私の誠意を見せると」
「あ!」
――そういえば、初対面の時跪いてなんか言ってた、この夫。
「誠意を見せるために、犬か下僕になる、だったかしら?」
「はい」
いつもの蜂蜜笑顔に戻る夫。
どうしてそうなる。
「何故犬なの?」
「可愛がっていただけるかなと」
「何を言って――、いえ、わたくし、大型犬は苦手なの」
「だったら、好きになって頂けるよう、努力します」
話がどうしてこういうところまで飛んでしまったか、理解に苦しむ。
殿下との文通の話はどこへ行った?
それよりも、誠意の話に戻る。
「あなたの誠意は十分に見せて頂いたわ」
「まだまだお見せしていない面もございますが」
「見せなくて結構」
「そんなことを言わずに」
「そもそも、何故、突然犬とかなんとか言いだしたのかしら?」
「殿下が妬ましくて」
「はあ?」
「ヘルミーナ様、私の手紙は返事を出さなかったのに、殿下の手紙はお返しを書いているみたいなので」
「……」
やっぱり、文通のことはバレていたようだ。先ほどの言葉は聞き違いではなかった。
「良く知る筆跡って、わたくしの字だったの?」
「はい」
「手紙二通で、よく判別出来たものね」
「とても素敵なお手紙だったので、暇さえあれば繰り返し読んでいましたので」
「……あの手紙、そんな風に読み返すような内容でもないでしょう?」
「そんなことないですよ。頂いたお手紙を読んで、どんな楽しい結婚生活が送れるのかと、ドキドキしていました」
……やだ、変な人。
改めて、夫のことをそう思ってしまった。
だって、一通目の手紙はこちらの無理な要求を書いただけのもので、二通目は果たし状みたいな内容だったのだ。
「ヘルミーナ様は酷いです。私も構って欲しいのに、殿下ばかり構って」
「それは、この前のことで、あなたが怒ったから」
「怒っていませんよ」
「嘘ばっかり! わたくしのことを蛇のように追い詰めていたじゃない!」
「蛇、ですか」
「そ、そうよ」
表面上は笑顔を絶やさず、冷静に話しているように見えたけれど、目の奥は決して笑っていなかった。
「そう見えたのだとしたら、謝罪します。申し訳ありませんでした」
「いや、今更謝られても……」
困惑の一言だ。
わたくしは夫の考えていることがまったく分からなかった。
「手紙のことを黙っていたのは悪いことだと思っていたわ。なんだか言い出せなくて、今に至ってしまったのよ」
「左様でございましたか。まあ、夫婦とは言っても、全てのことを分かち合う必要はないですからね。その辺の判断はお任せいたします」
「それでいいの?」
「はい。ただし、そういうことは上手く隠して下さいね」
「え、ええ、そうね」
この時、わたくしは気付く。夫に隠し事はしない方がいいと。
勘が良い人だからすぐに気付くし、今日みたいにバレた時が面倒だと思った。
「……本当に、ごめんなさい」
「お気になさらずに」
わたくしが気にしていなくても、夫が盛大に気にしている感があるのは気のせいではないだろう。
本来ならば、夫以外の男性と内緒で文通をしていたなんて、許されることではない。
やましいところがないのなら、早い段階で言うべきだったのだ。
悪い妻だと反省する。
ついでに、夫にあることをお願いしておいた。
「これから、わたくしの悪いところがあったら指摘してくれる?」
夫は「もちろんです」と笑顔で返事をしてくれた。
これで問題は解決! そう思っていたのに、夫が「では早速――」と言う。わたくしの悪いところを正す一言があるらしい。
「な、何?」
どんな言葉が飛び出してくるのか、全く想像出来ない。
思わず構えてしまった。
夫は甘い笑みを浮かべながら、驚きの内容を言ってきた。
「ヘルミーナ様は、私のことを好きになる努力をして下さい」
「はあ?」
何を言っているのか、この夫。
わたくしは心底そう思った。