第十七話 嵐を呼ぶ、想定外の訪問者
仮面舞踏会から一ヶ月。わたくしは子どもを迎えるための準備に忙しかった。
産着や肌着、ゆりかご、大量のガーゼや綿の布、赤子用の浴槽に、沐浴剤などなど、挙げたらきりがない。
おしめやよだれ掛け、体を拭くタオルやおくるみなどを母と一緒に作った。
結構大変だったけれど、ここは妥協出来ない点なので、黙々と布に針を刺すことになる。この時ほど、エルケお姉様にお裁縫を習っていて良かったと思った日はないだろう。
途中から、新しく雇った乳母も手伝ってくれた。
男爵家の奥方で、名前はイリア・フォン・ルーリンク。
おしめを縫いながら、子育てについての貴重な話も聞けた。彼女の子どもは卒乳して、今は離乳食を食べているらしい。けれど、毎日たくさんお乳が出るので困っていたとか。
「一番目と二番目の時もそうだったのですよ。一年くらいで止まるんですけどねえ、そこに至るまでが大変で」
「そうなの。母親も大変なのね」
「ええ、そうなんです」
あまりにもお乳が良く出るので、乳母になればいいと思ったらしい。
彼女はお母様の知り合いで、お茶会でその話をして、即座に採用が決まった。
「さて、大奥様に奥様、これだけあれば心配いらないでしょう」
おむつが三十枚、よだれ掛けは二十枚、体を拭く綿のタオルは十枚。
それから、靴下や帽子も編んだ。
子どもはまだキーラ・フォン・ポロバークと共に過ごしている。
お母様は情が移るから早く引き取った方がいいと言っていたけれど、出産をした母親から出る初期のお乳は赤ちゃんの免疫力を上げる成分が多く含まれていると本に書いてあった。なので、子どものためもあって、まだ彼女に預けている。
夜は子育ての勉強会となっている。会と付くのは、夫も居るからだ。一緒に子育てについて、お勉強をしてくれるとのこと。
最近は後任者にほとんどの仕事を任せているようで、早く帰宅をするし、外交にもついて行かなくなった。
結婚前は夫は留守が多いと聞いてホッとしていたけれど、最近は夫が居る方が落ち着く。
というのも、伯爵家のお付き合いが多く、たまにぎょっとするようなやんごとない御方が訪問して来る日もあるので、そういう時は夫が居た方が心強い。
まだまだ、わたくしも客人へのおもてなしは勉強中だった。
今日、夫はキーラ・フォン・ポロバークと子どもに会って来たらしい。
「言ってくれたらわたくしも一緒に行ったのに」
「長く滞在するつもりはなかったので」
「そう」
「また今度、一緒に行きましょうね」
「……ええ」
二人は別に愛人関係でもないのに、会いに行ったと聞いて心がざわつく。
どうしてかと考えているうちに、次の話題に移っていた。
「いやはや、驚きました。子どもは目元が母親にそっくりで、鼻筋と口元は殿下に」
「似ていたら駄目じゃない」
「そうですね」
まあ、父親と母親両方の特徴が合わさっているのであれば問題ないと思われる。どちらかに似ていなくて良かったと、心の底から思った。
「そういえば、キーラ・フォン・ポロバークの子どもについて殿下にはなんと言っているの?」
「もちろん、子爵との子どもだと言っています。離縁したことは知りません」
当然ながら、性行為をしたので、アウグスト殿下はキーラ・フォン・ポロバークのお腹の中の子どもが自分の子どもではないかと疑っていたらしい。
そんな彼に、夫は偽物の子どもを連れて行き、これが彼女の産んだ子だと見せたとか。
その赤子はヴァイガント子爵の特徴をしっかりと受け継いでいた。わざわざ、同じような時期に産まれたヴァイガント家の子どもを連れて来たらしい。
その工作のおかげで、殿下は自分の子どもではなかったと納得したと言う。
「良かったです、素直に騙されてくれて」
「わたくしはあなたが恐ろしいわ」
笑顔のまま首を傾げる夫。自分の恐ろしさについて、気付いていないらしい。
「きっと、あなたが嘘を吐いても、わたくしは気付かないでしょうね」
「ヘルミーナ様には嘘は吐きませんよ」
「そうかしら? あなたは、優しい嘘を吐く人だと思うわ」
そう言えば、きょとんと驚いたような顔を見せる夫。
「そういう風に見えますか?」
「ええ」
別に、優しい嘘は悪いものではないと、わたくしは考える。
全ての人が真実を受け入れられる器を持っているとも限らない。
それを思えば、時として必要な嘘もあるとわたくしは思っている。
夫はわたくしを「不思議な人だと」評した。
わたくしも、同じ言葉をそっくりそのまま夫に返すことになった。
子どもを引き取るまであと数日と指折り数えていた時に事件は起きる。
突然、アウグスト殿下が訊ねて来たというのだ。
夫は仕事で不在。母も外出している。
わたくし一人で相手をしなければならない状況だった。
一体何用なのか。
執事の話を聞けば、殿下はわたくしを訪ねて来たらしい。
戦々恐々としながら客間へと向かった。
わたくしは長椅子に悠々と腰掛けている殿下に膝を折った。
長ったらしい歓迎のあいさつをしている途中に、いいから座れと命令された。
多少カチンときたけれど、文句を言えるような相手ではないので、笑顔で返事をして言われた通り素直に従う。
こちらの話を遮っておいて、殿下は優雅にお茶を飲んでいた。
基本的に、王族にこちら側から話しかけてはいけないので、じっと待つしかない。
久々に見た殿下は、やっぱり神経質そうで、近寄りがたい人物に見えた。
今まで挨拶程度しか言葉を交わしたことがなく、一体何を話しにきたのかと気になってしまう。
殿下は音もなくカップをソーサーに重ね、机の上に置いた。
そして、じっとわたくしの顔を見る。
「率直に言おう。突然で悪いが、エーリヒと別れてくれ」
「――は?」
思わず、棘のある声で聞き返してしまった。
黙ったままじっと睨みつけるようにこちらを見るので、「もう一度おっしゃっていただけますか?」とはっきりお願いをする。
「だから、エーリヒと別れろと言っているのだ」
「はあ!?」
二度目は、更に棘のある声をあげてしまった。
アウグスト殿下は、わたくしに夫と離縁しろと言った。
神の前で誓ったことをすぐさま反故にするなど、ありえないこと。
一体どうしてと聞けば、とんでもないことをおっしゃってくれた。
「お前のせいでエーリヒは変わった。結婚をして、腑抜けになってしまったのだ」
「腑抜けって夫が?」
「そうだ。仕事についても意見しなくなったし、定時になったらさっさと帰る。惚気話のようなこともするようになり、鬱陶しいと言ったらない。私は、エーリヒが堕落している様を見ているのが、辛い」
「そんな、夫は――」
殿下のあんまりな言葉に、ぶるぶると震えてしまう。
長年、あんなにも尽くしてきたのに、その言い方はない。
夫は腑抜けになったのではなくて、一人前に成長した殿下を見守っているだけなのだ。
まあ、惚気話についてはフォロー出来ないけれど。王族の前で何を言っていたのやら。
話を戻す。
「殿下、お言葉ですが、その認識は間違っていますわ」
「お前は本当に悪い女だ。エーリヒにも、そうやって気に食わない行動にいちいち意見して、従わせていたのだな?」
「なんですって!?」
「伯父の末娘は嫁の貰い手がつかないほど気が強いと、以前から聞いていた」
その言い様に、わたくしは言葉を失くす。そんなことを言われていたなんて、知らなかった。だからといって、めそめそと落ち込むわたくしではない。
「それは、どなたが言っていたのでしょうか?」
「さあな。誰かが話をしているのを、耳にしただけだ」
「そうですか」
残念ながら、悪口を言っていた犯人の足取りは掴めなかった。
でも、その噂は本当のことでもある。
普通の貴族の女性ならば、十六から十八の間に結婚は済ませるはずなのだ。
わたくしはもうすぐ二十歳になる。結婚適齢期はとうの昔に過ぎ去っていた。
お父様は「ヘルミーナが可愛いから手放したくないのだよ」と言っていたが、結婚を申し込んだ相手に断られていただけなのだろうことは安易に想像出来た。
その頃のわたくしは素直にお父様の言葉を信じていたけれど。
結婚をして、自分を客観的に見られるようになったなと、ささやかな変化に気付くことになった。
「――おい、聞いているのか?」
「ええ、もちろんです」
殿下を前にして、物思いに耽ってしまった。
でも、無理もないだろう。いきなり離縁を迫るなんて、失礼にもほどがある。
「子どもが出来る前ならば、問題も起きないだろう」
「心配は御無用ですわ」
「なんだと?」
まっすぐに殿下を見て、はっきりと述べる。
「わたくしは、夫と別れるつもりは微塵もございません」
 




