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ボクと妹の不適切な関係性  作者: 九巻はるか
第二章 好きと依存の境界線
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第十八話 生きる意味

「狭霧先生! あそこ! 誰かいる!」


 展望台へ続く道すがら。外輪山の峠を越えて目下に神威湖とその展望台が明らかになった瞬間、希は木菟ずくが如く視力を発揮し、車の後部座席から身を乗り出して薄暗くなった展望台の先端にゆっくりと向かう影を指差した。

 真冬花が希の指す方向に双眸を向けると確かに展望台に人影らしきものかすかに見えた。


「もしや朔さん!?」

「よっしゃ! 一気に行くよ!」


 繭子はアクセルを吹かし、そのまま飛ぶような速度で駐車場に飛び込んだ。

 急停止した車のヘッドライトが展望台の先で呆然と立ち竦んでいる人物を照らす。

 朔だ。

 希は急いで車から降りると、駐車場近くの東屋を横切り、展望台の先端に佇む朔に駆け寄ろうと全速力で走り出した。真冬花と繭子も後に続く。

 そして希があと十メートルほどまで近づいた時、


「それ以上、私に近づかないで! 今すぐここから立ち去りなさい!」


 朔から怒声が飛んだ。

 思わず希の足が止まった。

 それは希が朔から初めて受ける拒絶だった。希は涙目になりながら声を張り上げる。


「やだ、やだよ! 私と一緒に帰ろうよ!」

「それは出来ないわ。私はここですることがあるから、希は先に家に帰っていなさい」


 朔は強い調子で希に指示した。すると、繭子が問い詰めるように聞いた。


「朔はここに残って何をするつもりかな? まさか自殺とか考えていないでしょうね」

「…………」


 繭子の牽制に朔は視線を逸らし押し黙る。

 それは無言の肯定だった。

 返事の無い朔に向かって真冬花が口を開く。


「自殺なんて馬鹿なことはやめてください!」

「……そんなに、馬鹿なことですかね」

「なっ……」


 朔から聞いたことのない冷たい声色が真冬花に向けて発せられ、真冬花は思わず絶句する。

 すると今度は希がすがるように嘆願する。


「私が酷い事言ったからだよね。謝るから、だから戻ってきてよ、お兄ちゃん!」

「お兄ちゃん? どういうことですか、繭子さん」


 希にお兄ちゃんと呼ばれた朔は柳眉を片側だけ吊り上げて、繭子を見た。


「いやー、ばれちゃたんだよ。全部。本当は男だということも」

「どうしてですか? 繭子さん、裏切りました?」

「狭霧先生は何もしていません。私が突き止めたのです」


 朔は繭子に向けていた視線を真冬花に移し、腑に落ちたようにふうと溜息をついた。


「校医室で真冬花ちゃんに朔の正体を問い詰められていたときに、偶然やってきた希ちゃんに全部聞かれちゃったんだよね……」

「それはツイてないですね。それにしてもやっぱりあなたには全部ばれていましたか。あなたと係わったのが失敗だったんですね。ははっ、ざまあないですね、ボクって」


 朔は一人称を『私』から『ボク』に変化させ、自嘲するようにせせら笑った。


「朔さん、一つお伺いします。どうして、あなたは更柄拓真になったのですか?」

「ああ、あれですか? 繭子さんから聞いていると思いますけど、あるアニメが流行った時に希がお姉ちゃんよりもお兄ちゃんが欲しかったと言いだしたから、ボクは拓真になりました」

「それだけで?」

「そうですね、きっかけはそれだけです。もっとも最初は一ヶ月くらいで辞めるつもりだったんですけど、ボク自身、男として兄としての姿で希に接することが出来ることが本当に嬉しくていつまでも続けてしまったんです。結局最後は母にバレてしまい、そこで終わりでしたけど」

「ごめんなさい……私のせいで、朔は……」

「ううん。謝るのはこっち。希を騙していたのはボクだから。それに、ボクは感謝しているよ。ありがとう、拓真を好きになってくれて。……本当に最後にわかってもらえてうれしかった。希、元気でね。繭子さんの言う事をきちんと聞くんだよ」

「最後って……私を置いておかないで! ずっといっしょにいてよ! 初めて朔と会ったときずっと一緒にいてくれるって約束したじゃない!」

「約束覚えてくれていたんだ……でもごめんね。ボクはもう、希と一緒にはいれないよ」

「どうして! 私が嫌いになったから? 酷い事したから?」


 すると朔はゆっくりと首を横に振り、後悔の混じった声色で答えた。


「ボクがいると希をいつまでも危険な目に遭わせてしまうからだよ。それにボクは希を傷つけた」

「それは極論だ、朔。それに逆を言えば朔がいたからこそ希ちゃんは危険を回避できたとも言える訳だ」

「そうです。私もあなたに二回も助けられました。それが何よりの証拠です」


 朔の言葉を否定するように繭子と真冬花が言った。

 朔は少しはにかみつつも首を横に振る。


「そういってくれると嬉しいです。でも事実です。それに理由はもう一つあります。昔、母が言っていたんです。ボクの女装が発覚したら希に苦痛も苦労もかけることになる。大きな悪意に巻き込まれ、希は生きるすべを無くすると。だから女装がばれないよう、よく注意しなさいと指示されました。もし女装がばれたとき、ばれるのが時間の問題であるときは、希を不幸にしたく無ければ希の前から消えなさいとも言われました。だからボクはそれを守ります」

「そんな……私が暴いたから……」

「いいえ、あなたは悪くありません。ばれるような隙を見せたボクが悪いのです。本当ならあなたとも生徒会とも距離を置くべきだったのに、それをしなかったボクの責任です。ボクは生徒会の活動が楽しかった。人と関わることがこんなに楽しいことだなんて知りませんでした。春に初めて行った遠足と同じくらい楽しかった思い出になりました」


 朔は過去を懐かしむように述懐した。


「過去形の話なんて聞きたくありません! これからだって、あなたは生徒会の副会長なんですから、責任を持って任期を務めて下さい!」

「ごめんなさい、それはもう出来ません。出来ないんです」

「どうしてあなたはそこまで母の言葉にこだわるのですか! いつまで亡くなった人に惑わされ続けるのですか! あなたはそこまでして母に認められたいのですか! 朔さんだって、その言葉はあなたを縛るためのものだって判っているのでしょう? ならば今を生きて下さい! あなたにはその権利があるはずです!」


 真冬花の叫ぶような説得に朔は伏し目がちにくすりと笑い、ゆっくりと口を開いた。


「……母に認められたいという感情なんて疾うに無いですよ。だってボクは母が憎かったですし、大嫌いでしたから」

「朔……」


 朔はあっけらかんとした笑みを浮かべあっさりと言い切った。

 しかしその笑顔は痛々しく、無理をしているように希の瞳に映った。


「一緒に住んでいるのに目を合わせてくれない母が嫌いでした。声をかけてくれない母が嫌いでした。話しかけても無視する母が嫌いでした。仕事にかかりきりで家にほとんど帰ってこない母が嫌いでした。どんなに勉強をがんばっても、料理を頑張っても、家事を頑張っても、褒めてくれない母が嫌いでした。遠足だって学芸会だって修学旅行だって参加したかったのに許してくれない母が嫌いでした。ボクの全てを無視する母が憎かった。そのくせ、ホワイトボードに書いたメモ書きひとつでボクの行動を縛る母が憎かった。だからボクは母が大嫌いでした」

「それならどうして、そんな戯言を信じるのですか! 目を覚ましてください!」


 朔の告白に真冬花はなおも説得しようとするが、朔はそれをやんわりと受け流す。


「そうですね、母の言ったことは確かに嘘かもしれませんし、常識的に考えれば母の言葉通りにならない可能性の方が高いと思います。しかし、ボクが男であることが他者に露見しない事に母が拘ったのにも理由があるはずです。でも、ボクはそれを判断する材料なんて持ち合わせていないし、母の言葉を嘘と言えるほどの確信がある訳でもない。逆に直感では母の言葉がむしろ正しいように思えます。……それに、ボク自身、生きることにちょっと疲れちゃいました」

「疲れた?」

「ええ、ボクは憎かった、大嫌いな母に命を救われ、その変わりに母が死にました。あの事故の後、あれだけ憎かったはずの母が、あれだけ嫌いだったはずの母を、ボクはもう憎むことも、嫌いになることも出来なくなっていました。そして、今まで見返してやるために頑張っていた勉強も料理も家事も、その意味をほとんど失いました。結局、ボクが頑張ってきたことに何一つ意味なんてなかったんです。

 そんな、ボクに唯一残ったのは、なによりも、世界で一番大事な妹を……希を守ることだけでした。でもボクは、更柄拓真という嘘のせいで希を精神的に追いつめ、希を危険にさらしました。また、正体を隠すために他人とは距離を置き警戒するべきだったのにそれを怠り、母に最初に言いつけられた女装さえ隠し通せなかった。結局、ボクって四歳のあの時と同じように、母に見捨てられて当然のどうしようもない人間だったのです。希を守る力も資格も無い、言いつけも守れない駄目な兄だったのです。希に「消えて無くなれ」なんて言葉を言わせてしまう酷い兄だったんです。そんなボクが生きている意味なんてどこにも無かったんです。そう気がついたらなんだか疲れちゃいました」

「朔、落ち着いて。今は心が弱っているからそう思えるのよ。自殺なんて今じゃなくだって出来るんだから、結論を急がないで。ね、朔ならわかるよね」


 繭子は朔に優しく語りかける。しかし、朔は首を小さく横に振り言った。


「いいえ、今がその時なんですよ、繭子さん。だってボクは、


 いつも変わらない服装を、馬鹿にされたこともありました。

 上靴を隠され、冬の冷たい体育館を裸足で走ったこともありました。

 つぎはぎだらけのジャージが、教室のゴミ箱から出てきたこともありました。

 トイレで水をかけられて、ずぶぬれになったこともありました。

 給食費を払えず、一人だけ図書室で時間をつぶしたこともありました。

 教科書を破かれ、教室にばら撒かれたこともありました。

 先生にはよく、腐ったみかんだといわれました。

 クラスで物が無くなった時、盗んでいないのにボクのせいになりました。

 あいつは貧乏だから、盗んだに違いないといわれました。

 盗んでいないのに謝れと、クラスのみんなに言われました。

 ボクが否定すると、うそつきコールがクラスで起こりました。

 先生にうそつきは、泥棒の始まりだといわれました。

 みんなに謝れと、先生にも言われました。

 拒否したら、髪を掴まれ無理やり土下座させられました。

 そしてその日から、ボクのあだ名は『万引き』です。

 でもそれまでは『乞食』でしたから、それほどショックではありませんでした。

 なぜかいつも、トイレ掃除を一人でさせられました。

 先生にクラスに貢献しないゴミには、お似合いだといわれました。

 みんなが運動会をするなか、ボクは空き教室で一人自習でした。

 みんなが学校祭をするなか、ボクは空き教室で一人自習でした。

 みんながバスで遠足に行くなか、ボクは空き教室で一人自習でした。

 みんながバスで修学旅行に行くなか、ボクは空き教室で一人自習でした。

 学校でボクはいつも一人でした。

 悲しくて一人泣いた夜もありました。

 悔しくて一人憤った夜もありました。


 でも、いつか、報われる。

 いつか、母に許される。

 いつか、母に必要とされる。

 いつか、母に認めてもらえる。

 いつか、本当の男の子に戻れる。

 いつか、本当のお兄ちゃんに戻れる。

 いつか、みんなで幸せに生きていける。


 と、ずっと思っていたんです。


 だから、頑張れたんです。

 だから、我慢できたんです。

 だから、笑顔を作れたんです。

 だから、希のお姉ちゃんでいられたんです。

 だから、生きてこられたんです。


 だけど、全部、幻想だったんです。

 だって、全部、ボクが諸悪の根源だったんですから。


 希の体が弱いのも、

 母が死んだのも、

 家族がばらばらなのも、

 ボクが、生まれたからです。


 ボクが生まれなければ、希は健康な体で生まれることができたんです。

 ボクが生まれなければ、母はもっと希と一緒にいれたんです。

 ボクが生まれなければ、母は交通事故で死ななくてすんだんです。

 ボクが生まれなければ、みんな幸せに生きていけたんです。


 そう、気が付いてしまったんです。


 だから、ボクは今日ここで消えます。


 学校では腐ったみかんだったボクが、家では言いつけ一つ守れず、あまつさえ守るべき存在である希を逆に追い詰め苦しめたボクに出来ることはもう、これしかありませんから。お願いですから、このままボクのことは忘れてください。玉桂朔なんてモノは最初から存在していなかったと。


 ……最後に会えて本当に嬉しかったです。想ってくれるひとがこんなにいてボクは幸せ者です。ありがとう。そしてどうか、みんなお元気で」


 朔は心の丈を全て打ち明けると、憑き物が落ちたようにすっきりとした表情を浮かべ、ぺこりと一礼した。

 そして顔にいつもの作り笑顔を張り付かせると、淀みない動作で欄干にぴょんと飛び上がり、希たちの方を向いたまま宙に身を投げ出した。

 突然の行動に繭子が驚いて目を見張る。真冬花が悲鳴を上げた。そして、希は爆発的な勢いで朔を追いかけた。その勢いは病弱な希では考えられないほどのものだった。

 希は朔が落下する直前に欄干から身を乗り出し、両手で朔の左手を掴む。朔の重さに希の体が引き摺られ、欄干に希の足が引っ掛かった状態で停止した。

 希は目を瞑り、涙をぽろぽろと流しながら朔の手を離さないように耐えた。しかし、希の体は小刻みに震え、この体勢が長く持ちそうには無かった。

 このままでは二人仲良く湖に落水である。


「何をやっているの! 直ぐにその手を離しなさい!」


 朔は驚きと困惑の表情を浮かべ叫んだ。朔の叫びによりそれまで硬直していた真冬花と繭子が我に返り、急いで二人の下に駆け寄ろうと走り出す。


「朔が死ぬなら私も一緒に死ぬから」

「何を言って……」


 朔は唖然として希の顔を見上げると、


「こんどこそ、ずっと一緒だよ」


 希は瞳を涙で濡したまま微笑み、落ち着いた声色で呟いた。

 次の瞬間、欄干に引っ掛かっていた希の足がずるりと滑り、二人は漆黒の湖へと落下した。

 そして束の間の静寂ののち、水面を叩く音が辺りに響いた。


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