第三話 朔のしんぱいごと
「それじゃ繭子さん、帰りますね。あ、ご飯は作っておきましたから」
すっかり日の落ちた宵の入り。朔は診察室で作業をしていた繭子に声をかけた。繭子は作業の手を止めて朔に歩み寄る。
「いつもすまないねぇ、ごほごほ」
「……小芝居はいいですから、冷めないうちにちゃっちゃっと食べてください」
「もぅ、朔は手厳しいなぁ」
「繭子さんの相手をいつまでもしているほど暇ではないですから」
「ははは、こやつめ! そういえばちょっと気になっていたんだけど、一人称が「ボク」になっているのはよくないと思うよ。このまえ外で会った時はちゃんと「私」って言っていたよね?」
「あう、すいません。繭子さんと二人っきりだとついつい気が緩んじゃって……」
朔はしょぼんと項垂れた。繭子は素直で可愛らしい朔に苦笑いを浮かべつつ忠告する。
「まあ、それくらいで男だとばれる心配はないと思うけど、念には念を入れた方がいいわ。それから、ひょんなことから秘密ってばれるから余計なことには絶対に首を突っ込まないようにね」
「はい、気を付けます」
「うん、よろしい。おっと、そういえばもう一つ……」
繭子は注意ついでに何かを思い出したのか、机の引き出しを開けごそごそと中を検め始めた。
「……あったあった。ハイこれ」
繭子は桜色した紙に猫を模したキャラクターが印刷された、若干子供っぽいセンスの封筒を朔に差し出した。封筒に差出人の名前はなく、あて先も繭子宛だ。
「……ボク――じゃなくて、私にですか?」
「まぁ、そんなところ。中は帰ってから確認してね♪」
「はぁ、解りました」
朔は怪訝に思いながらも封筒を受け取ると、肩から袈裟懸けにしていた鞄に封筒を忍ばせた。
繭子がニヤニヤしているところを鑑みるに、まぁ中身は碌でもない内容なのだろう。
以前に貰った封筒には繭子が書いたという、女性医師と女性患者の百合モノの小説と『読んだ感想を聞かせてね』と書かれたアンケート用紙が入っていたから、新作でも出来たのかもしれない。
そんなふうに朔が漠然と封筒の中身について想像していると、繭子が何かを閃いたのかぱっと明るい顔をして朔に向かって人差し指を上に突き上げた。
「そういえば小耳に挟んだんだけど、希がついに天道大学付属病院を退院するんだってね!」
「ええ……そうですね」
朔は笑顔の繭子とは対照的な浮かない顔で頷くと、そのまま顔を伏せた。
「あれ? あんまり嬉しくないの?」
繭子は頭を左に傾げて意外そうな表情を浮かべた。もちろん朔にとっても双子の妹である希が病院を退院し、母と妹の家族三人で一緒に暮らす事は夢であり目標だった。それが、ついに果たされるのだから嬉しさでいっぱいである。
しかし、それでも朔にとっては不安の方が大きかった。金銭面では母の収入が少なからずあるし、家事などの生活面は朔が全て担っており、日常生活においては何の心配はない。
唯一の心配は希の体だ。希は体が弱く生まれてからこの年まで病院暮らしだった。中学に上がる年になってからは日常生活に戻るためのリハビリを開始したが、その途中で急病により大掛かりな手術を挟んだためその実現が危ぶまれたのだ。
だがその後は順調に回復し、短期退院による経過観察を終え、ついには本格的な退院にまで漕ぎ着けたのだ。主治医も日常生活に戻ることに太鼓判を押してくれたが、それでも朔の中では『もしも』が渦巻き、いつまでも不安が拭えないでいた。
「……正直、不安の方が大きいんです」
「主治医って小児科の生月君でしょ? 彼が大丈夫って言ってるんだから心配ないと思うよ」
「でも、病院なら何があってもすぐに処置できますけど、家で何かあったらと思うとどうしても……不安で……」
朔は俯き今にも泣きそうな表情を浮かべ、ぽつりと漏らした。すると、繭子は優しい顔つきで朔の頭を撫でた。
「ふぇ? 急にどうしたんですか?」
「朔は本当に妹想いの良いお姉ちゃんだね」
「……お姉ちゃんじゃないです」
「希の前では昔も今もお姉ちゃんでしょ。心配はわかるけど、どこかで一歩を踏み出さないと先に進めないよ。それがきっと今なんだよ。希は大丈夫。そんなに弱い子じゃないのは朔だって知っているでしょ。だから朔は自信を持って迎えてあげて」
「……そうですよね、迎える私の方がおろおろしていたら、希に笑われちゃいますよね」
「そう、その意気だよ!」
朔はふぅと一度深呼吸し、繭子を見据えて深く礼をした。
「ありがとうございました。私、がんばります」
「別に礼には及ばないよ。代わりにちょっとばかしおっぱい揉ましてくれるだけで良いから♪」
「……ホント、繭子さんってサイテーですね」
その言葉とは裏腹に朔の顔はとても晴れやかだった。