第二話 診察という名のドクハラ
「……それにしてもおっぱいねぇ」
繭子はカルテを手に考える。思春期を迎えた男子の乳房が膨らんでくるのはそこまで珍しいことではない。このくらいの年代の子はホルモンバランスが特に乱れやすいからだ。それが原因なら、さほど心配することも無いのだが……。
「……朔はアジア某国にあるとされる呪泉郷の一つ、豊胸手術をした可愛らしい男の子が溺れ死んだとされる呪いの泉『豊胸娘々男溺泉』に修行中に落ちたって記憶はない?」
「何ですか、ソレ? そんな泉に落ちて無いっていうか、それって漫画ですよね? 水をかぶると猫だったり子豚だったり、おさげの女の子に変身しちゃうヤツですよね!」
「朔の言っている意味が解らない」
「自分で振っておいてそれですか!」
「そもそも、なんで本物の女の子よりもずっと女の子らしい男の子にわざわざ胸までふくらんでくるのよ。ちょっと欲張り過ぎってもんじゃないの? 自粛しなさいよ」
「ボクだってふくらましたくてふくらんだ訳じゃないです!」
「ホント朔ってずるいよね。すっごく可憐だし、スタイルはいいし、色白だし、髪はロンゲのくせに枝毛一つ無くて黒くて細くて真っ直ぐで艶やかだし、まつげは長いし、なで肩だし、ムダ毛は無いし、髭も腋の毛も生えてないし、匂いは桃のような良い香りするし、それに付け加え胸? ハッ、どんだけ完璧超人って話よ!」
「ボクだって本当は嫌なのに、普通の男の子になりたいのにそんなこと言われても……」
「それに……アソコだって……まだ生えて無くてツルツルなんでしょ?」
繭子は朔から視線を逸らしながら口ごもる。朔は繭子の発言が一瞬理解できなかったが、すぐに理解が追いつくと熟れたトマトのように顔を真っ赤にした。
「な、なんで……なんで、そんな事まで知っ――じゃなかった、何言ってるんですかあなたは!」
朔は思わず余計なことを言ってしまったと気付き、言い直すが手遅れである。繭子はにこにこしながらカルテに無毛と記入すると、満足げな顔でカルテを閉じた。
「もう、帰っていいですか?」
「えっ、どうして?」
朔はげんなりした顔で問いかけると繭子が驚きの声を上げた。朔はこの場に及んでまだ「どうして」という言葉が出てくるのか不思議でしょうがなかった。
「「どうして」じゃないでしょう。だって、真面目に診察する気があるとは思えないです」
朔の言葉に繭子は「なるほど確かに問診だけじゃ解らないなぁ」と呟くと、
「じゃあ朔、上半身裸になって」と、あっけらかんと言った。
「……えっ?」
「だから、早く服を脱いで言っているの」
「本気ですか?」
「本気も本気。だって実際に見て検査してみないと何とも言えないでしょ」
「まぁ、そうですけど……」
朔はしぶしぶながらも繭子の言葉に従いセーラー服とシャツを脱いだ。中からリボンが可愛らしいブラジャーが顔を覗かせる。色は純白で清楚さが引き立つチョイスだ。朔は柔肌が人目に晒されて恥ずかしいのか、頬を薄く紅潮させた。繭子はにやにやしながら指摘する。
「へぇ、朔って男の子のくせにブラジャーしてるんだ♪」
「ち、違うんです! これは知り合いにこの年でノーブラはおかしいと言われたから着けているだけであって、別にボクが着けてみたかったからとかそういうものじゃないんです! ホントですよ!」
朔は手を握り締め、顔を真っ赤にして弁明した。その必死さがこの上なくいじらしい。
「あははっ、別に良いじゃない。だって、乙女なんでしょ? それなら嗜みとして着けてないとね」
「うっ! うぅ……」
朔は自分の立場を忘れて弁明していた事に気がつき、自分の修行不足を実感する。
「じゃ、そのブラジャーも取ってよ」
「……どうしても?」
「うん、どうしても。……何なら私が代わりに脱がしてあげてもいいんだよ♪」
「自分でやるから結構です!」
朔はブラジャーを外そうと背中に手を回す。しかし着け始めてからの日が浅いためかフックを上手く外せず手間取った。その姿がなんとも艶めかしく、繭子のリビドーに火をつけた。
「あっ、っん。はずれないなぁ……あっ、はずれたぁ――って、きゃうっ!」
「いやー、若い子の肌はたまらんね! すべすべだよすべすべ! すべーすべー!」
繭子は遂に我慢できずに後ろから朔に抱きつき柔肌に頬摺りをした。いわゆるドクハラである。繭子にしてみればこんな美味しそうな肌をさらしておいてスルー出来るはずが無い。鴨がわざわざ葱を背負って来たのだ。これをいただかないなんて鴨および葱に対して失礼である。
まぁ、裸になれって言ったのは繭子自身であったがそんなことは既に関係ない。
「いやぁぁ、事案発生中だぁぁぁぁ!」
「事案じゃない! 検査よ!」
「そんなわけあるか! 天誅!!」
「ちょまっ――ぐぇっ!」
一閃。まとわりついている繭子の額に朔の肘鉄が炸裂する。
そしてそのまま崩れ落ちる繭子。そしてそんな愚かな女医を見下ろしながら、
「……また、無益な殺生をしてしまったか……」
――と、ひとりごちる朔だった。
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「――で、何か解りましたか?」
「うぅ~ん、そうだねぇ……」
一発食らって若干冷静になった繭子が朔の胸を触診しつつ、ゆっくりと口を開いた。
「――揉んだ感じではよく解りませんでした! 原因となる要因はいっぱいあるから、女性化乳房でググれ!」
「……繭子さん」
「ちなみに、ググった結果からみると、ホルモンバランスの崩れが怪しいと思うな。まー、どっちにしてももっと精密な検査をしてみて見ないと解らないし、今日はここまでだね」
「…………繭子さん」
「それにしても朔のおっぱい、ほんと女の子のソレと変わらないね。さいこーだよ!」
「………………繭子さん」
朔の声のトーンが徐々に沈んでいくが繭子は全く気がつかない。
「そうだ! いっそのことアレも取っちゃおうよ! タイとモロッコどっちに行きたい?」
「あーーーもーーーー、なんなの? ググれ? ゆとり世代だと思っておちょくっているの? バカなの死ぬの? それに一人で勝手にもりあがるな! タイ? モロッコ? 誰が行くかそんなトコ! バカなの死ぬの? 大事だから二回言いました? バカなの死ぬの?」
朔がキレた。キレたせいか怒気を含んだ、らしくない言葉を連ねた。内容も意味不明だ。
「お、落ち着いて、朔。誰も「大事だから二回言いました」なんて言ってないよ。それに同じ言葉三回言っているよ」
繭子はおろおろしながらも朔を宥めるが、明らかに宥め方が間違っている事に気付かない。
「うっさい、行かず後家! さっさと結婚しろ!」
「……ぅう、朔がグレたぁ……」
結局この後、朔が落ち着くまでに三十分ほど時間を要したのだった。
「……で、結局、おっぱいを揉んだだけでは原因が何なのか解らないってコト……ですよね?」
「そのとおりでございます!」
朔は思わず頭を抱えた。今までの苦労は何だったのかと思うとため息しか出ない。
「……はぁ……。じゃ、何で私はおっぱいを揉まれたんですか?」
「決まっているじゃない、そんなの私のしゅ……じゃなくて――」
「……じゃなくて?」
繭子は自身の失言と朔の突っ込みに言葉を詰まらせたが、もはや隠し立ては出来ないことを悟ると朔をまっすぐを見据え大きく息を吸って吐き出しだ。
「やっぱり趣味です! 趣味の何が悪い!」
「言うに事欠いて開き直った!」
「女の子の体が好きで何が悪い!」
「うわ、いきなりのカミングアウト!? しかもなんだか納得行かない!」
「いまさら人間変われないよね♪」
「……はぁ……」
朔は再び大きくため息をついた。いつもの事とはいえ本当にどうしようもないと思いつつも、何故か心は落ち着いている事に気付いた。もしかしたらこれも繭子のカウンセリング技術の一つなのかと頭をよぎったが、本人を見ているとやはりとてもそうとは思えない。
「……誰かに聞いて欲しかったのかな」
朔の口からふと言葉が零れた。
「聞いて欲しかった」
朔は零れ落ちた言葉を繰り返し何度も紡いでいた。
令和2年2月16日改稿。