第七話 校医着任の真相
「……何故ここに?」
希に姿を見られるとペナルティ的意味でまずいため、朔は人気の無い場所まで繭子を誘導。辺りに人が居ないことを確認し疑問をぶつけた。
繭子は市内で婦人科の開業医をしているが、それなりに流行っているため、この時間なら普通は医院に詰めているはずである。
一体、学園に何の用事だろうかと朔が思案していると、繭子の口から意外な発言が飛び出した。
「私ねー、医院は辞めて今日からこの学校で働くことになったから♪」
繭子は軽い口調でさらりと言った。
朔は一瞬訳がわからず固まるが、頭を必死に働かせ何とか言葉を捻り出す。
「……は? なんでですか? 医院はどうするんですか? 以前「亡くなった兄先生と二人で始めた所だし、思い出が詰まっているからここを離れられない」って、しんみりと私に語ってましたよね? あれは何だったのですか? もしかして誘い受けってやつですか?」
朔のいう兄先生とは繭子の実兄で天才外科医と呼ばれた狭霧晶のことである。
ちなみに朔が空手部部長を一撃の下に倒した技も、医院の庭で兄先生に仕込んで貰ったものだ。
朔にとっても様々な思い出が詰まった医院を簡単に辞めるという、繭子の今回の行動に疑問を覚えた。
そんな朔の心情を慮ってか繭子の声に真剣さが混じる。
「私考えたの。いつまでも思い出に囚われてそこに留まる事を兄は望んでいないじゃないかってね。それにちょうど、天道大学付属病院から准教授でのお誘いがあったから良い機会かなと思って、医院は長期休業にして大学に戻る事に決めたの」
「……本当に?」
「本当に」
なるほど、確かに言っていることはまともだし、理由も納得できる内容だ。しかし、朔には繭子の言っていることがどうも信じられなかった。
何故なら繭子は極度の面倒くさがり屋で、物事を深く考えもしないし、なによりだらしがない性格だ。
朔が今まで見てきた限り、そんな殊勝な理由で転職を考えるほど出来た人格を持っているとは到底思えない。
と、なると――
「ところで新しい職場のお給料はどうなんです? やっぱり凄いんですか?」
「それがね朔、聴いてよー。いきなりの准教授待遇だしすっごいのよ! 月300万だって、300万! 年間で3600万! まあ、天道大学は医療系総合商社である日野和の傘下だから、他の製薬会社や医療機器メーカーからの山吹色のお菓子や実弾は期待できないけど、それでも破格よね! しかも、実際の仕事は天道学園で校医をしながら、学生のデータ解析とかカウンセリングなんだって! ちょー楽でしょうがないわ! ちまちま婦人科で開業医して経営に頭悩ますのがバカらしくなるわ、というかバカね!」
朔の誘導にあっさりと口を滑らす繭子。バカはお前である。
「やっぱりお金と安定に釣られたんですね、わかります。……でも、兄先生が草葉の陰で泣いてますよ、きっと」
朔の冷やかな視線と、侮蔑と憐憫とが入り混じった言葉が繭子に刺る。
「いやっ、口が滑っ――じゃなかった、いや今のは嘘よ嘘! 人間として一歩踏み出すときにたまたまお金が付いてきただけで他意は無いのよ!」
失言を何とかフォローしようとする繭子が必死に弁明するも後の祭りだ。
「はいはい、あなたの中ではそうなんでしょうね」
「ああ! 朔が冷たい!」
朔と繭子がそんな話をしていると葵がひょっこり姿を現した。
「ああこんなところに居たんだ。もぅ、探したよ!」
「……人目に付かないトコ選んだのに、キミはどうやって嗅ぎ付けた?」
朔が胡乱な目付きで葵を見つめると、葵はとびきりの笑顔で答える。
「世の中知らない方が幸せなことって多いよね!」
「プライバシーはどこ行った……」
「ところでそちらの年増は誰? 朔ちゃんの知り合い? それとも不審者?」
葵が失言を交えつつ、興味が無さそうに繭子の事を朔に確認する。
「朔、この子殺っていいかな? 殺っちゃっていいよね!」
いきなりの年増認定に、繭子は額に青筋を立たせていきり立つ。
だが、事実アラフォー後期の年増である。さらに言えば年増どころか初老も既に超えている年齢だ。そう言われても仕方ない。
「繭子さんは黙っててください。……この人は私たちの後見人で保護者をしてくれている繭子さんだよ」
「朔ちゃんの保護者!? ほうほう、それはそれは……」
繭子にさほど興味が無さそうだった葵が保護者という言葉を聞いた瞬間食いついた。
「失礼いたしましたご婦人、あなた様の美しさと女性らしい振る舞いに嫉妬してしまい、つい品の無い言葉を口にしてしまったことをお詫びいたします」
「いくらなんでもうそ臭いよ!」
葵は芝居がかった口調と仕草で繭子に謙った。
そのあまりのうそ臭さに思わずつっこむ朔であった。
「そういうことなら仕方ありませんね。私の美しさはそれだけで罪ですから」
「こっちも真に受けたよ!」
満更でもない様子の繭子に、またもつっこむ朔。
「ところでお嬢さん、あなた、朔とはどういうご関係かしら?」
「……申し遅れました。私は朔さんのクラスメイトで恋人の天蓋葵と申します」
「何言い出すの! そんな事実はないよ!?」
葵のいきなりの捏造設定にびっくりである。
朔は慌てて反論するがまるで聞いていない葵と繭子は茶番とも言うべき会話を継続だ。
「これはどうもご丁寧に。でも、お二人は女の子同士。将来を考えると保護者としてお付き合いを認めるわけにはいきませんわ」
「それは残念です。あなた様のような素晴らしい女性ならわかっていただけるかと思ったのですが……」
葵は優雅にそして大仰な態度で溜息をついた。すると繭子は渋い顔をして葵を慰める。
「心中お察しいたしますわ。……ところで、ここは少し寒くはありませんか?」
「寒い……?」
「別に寒くないけど……」
繭子のいきなりの話題転換に訳がわからず首を傾げる朔。葵は様子を窺っているようだ。
「ええ、特に胸元と言うますか懐が寒くて…」
「なるほど、そういうことでしたか」
「え、どういうこと?」
訳がわからないといった様子の朔とは対照的に、得心が行ったように頷く葵は、日野和銀行の帯で纏められた札束……推定百万円を取り出すと――
「どうぞこれで冷えた胸元を温めください」
――と、話しながら繭子の両手を握り、その手にそっと忍ばせた。
「ちょっ……えっ……」
あからさまな買収工作に絶句する朔を尻目に、繭子は受け取ったモノを横目でちらりと確認。そしてそれを素早くポケットに突っ込むと急に優しい顔をして語り出した。
「ねぇ朔、おふたりはとてもお似合いよ。愛があればどんなことも乗り越えて行けると思うわ……私。天蓋さん、不束な娘ですが宜しくお願いします」
そして、あんまりな掌返しをする繭子。
「お願いされました! これで、許嫁だよ朔ちゃん!」
葵もそれに乗じると今までに見たことが無いくらいの笑顔で朔を見た。
そして朔は切れた。本日二度目のボディを葵に叩き込む。
「テクノブレイクッ!」
葵は意味不明なことを口走りながら冷たい床に沈んだ。
朔は続けて繭子をキッと睨みつける。
「落ち着いて朔! 冗談、冗談よ! 貰ったのは子ども銀行券だからね! あっ! あいたっ! ちょっ、ホントに痛いから!」
「あんなリアルな子ども銀行券なんてあるか! みんな、私を馬鹿にして! 繭子さんもこの子のように沈めばいいんだから!」
静止する繭子を振り切り、ぽかぽかと叩く朔であった。
一通り暴れて落ち着いた朔が繭子に校医の件の真偽を切り出した。
「で、結局さっきの話は本当なんですか?」
「ええ、本当。この学園で常勤の校医として今日から赴任なのよ。籍は天道大学付属病院にあって、そこからの派遣という形だけどね」
「そうなんですか……キミは知ってた?」
「うーん、前の校医が大学付属病院に戻るから新しい校医が来るって話は聞いてた気がするなぁ。確かホームルームでも担任が言っていたと思う」
「う、そういえば聞いた気がするけど興味ないからスルーしてた。じゃあ今度からは繭子さんが新しい保健室の先生なんですね」
「違うわ。朔が言っているのは養護教諭の事ね。よく保健医とか保健室の先生とか言われているけど、あれって実は教員で医師じゃないのよ。だから養護教諭は別に居ると思うわ」
「違いがよくわからないです……」
朔が困ったように首を傾げる。
「解り易く言うと、予防接種とか健康診断で『ぐふふ』となるのが校医で、性教育の授業で青少年を惑わしたり、保健室で性教育と称して『うふふ』と若い肉体を貪るのが養護教諭よ!」
「……恣意的でいい加減な気がするけど、大体はわかりました。でも、予防接種とか健康診断ってそんなに回数無いのに普段は何をするんですか?」
「主に学校での怪我や病気の処置の対応をやる予定よ。あと研究用に生徒の統計も取るかな。研究室として保健室じゃなくて校医室ってのが割り当てられているから、普段はそこにいると思うわ。基本、生徒は寄り付かないらしいから静かで良い環境よねー」
「すっごい暇そうですね」
「暇だからいいんでしょうが! って、いやいや意外と重要なのよ校医って! 養護教諭じゃあ出来ない事も多いから、常勤でいても決して無駄なんかじゃないわ」
「へー、それはそれはさぞかし大変なんでしょうね」
明らかに納得していない声色の朔がジト目で繭子を見る。
繭子は窓の方に視線を逸らしながら「今日もいい天気だねぇ」ととぼけた口調で誤魔化した。
「まぁまぁ朔ちゃん、確かに校医なんて普通は大した仕事がある訳じゃないから、普通の学校なら非常勤の嘱託医がたまに来る程度だよね。でもこの学校の運営が医療機器や新薬開発などの医療系中心の日野和財閥って事もあって、研究も兼ねてわざわざ常勤の校医なんてものを配置しているんだよー」
「ううむ、なるほど。……でも、そうなるとこの人で大丈夫なのかという疑問が……」
葵の言葉に納得しかけた朔だが、繭子の資質に疑問を抱く。
全く信用の無い繭子であった。
「失礼な! こう見えても大学では准教授なんだよー」
「そもそもそれがにわかには信じがたいですが」
「本当だと思うよ、朔ちゃん。校医は毎回大学の准教授が派遣されているから」
「そうなんだ……」
「もう、朔もこれで判ったでしょ?」
「むぅ、しか――」
キーンコーンカーンコーン
朔の言葉を遮るように、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り響く。
「あっ、もうこんな時間? ねえキミ、次の授業って何だっけ?」
「んー、体育だよ」
「えっ、うそ! ……早く着替えなきゃ!」
葵の言葉を聞いた朔は驚きうろたえた。
普段、体操着に着替える時は人目が無いところをチョイスしていた朔だが、既に予鈴が鳴ってしまっており場所を選んでいる時間が無かったからである。
「そういえば朔ちゃん、いつも体育の前に消えて更衣室に来ないけど、どこで着替えてるの?」
「……別にどこでもいいじゃない」
「良くないよー! そうだ、今日は一緒に行こうよー!」
「遠慮するわ、一人がいいから」
「もしかして体にコンプレクッスとかある? たとえば胸とか?」
「そ、そんなんじゃないけど……」
朔は葵の指摘が一部図星だったこともあり言葉に詰まる。
……ほんと、この子は余計なことには勘が鋭い。
そう心の中で舌打ちをしながら、葵の言葉をかみ締める。
確かに朔は体に、特に胸にコンプレックスがあるのは事実だった。
女装に多大なメリットがあるとはいえ、女性の象徴である胸がふくらむ事は朔の男としてのアイデンティティに影を落としていたのだ。
朔がはっとして思考の渦から正気へと戻ってくると、いつのまにか目の前まで迫っていた葵がこちらをじっと見つめていることに気が付いた。
「……何よ」と照れてそっぽを向く朔。
葵は急ににっこりしたかと思うと、朔の細腕に自身の腕を巻きつかせ、「今日が更衣室デビューだね」と無理やり引っ張っていく。
「無理無理、窒息しちゃうから更衣室無理ぃぃぃ!」
朔は必死に抵抗するが葵が腕をがっちり抱き込んでおり離れそうにない。しかも、腕には葵の豊満な胸の感触が多分に伝わっており、無理に振り解くことを思わず躊躇する。
「繭子さん繭子さん、助けてください! 私、死んじゃいます!」
朔は繭子に助けを求めた。しかし、繭子はにやにやと笑うと、
「いいじゃん、おとなの階段登ってきなよ! 何事も経験よ~♪」
助ける気ゼロどころか、むしろ推奨の勢いだ。
その間にも着実に更衣室に向かって連行される朔。
「この、薄情者! やだ、私はまだ綺麗な体でいたいのにぃぃ」
「へっへっへっ、おとなしくしやがれぇ!」
「やあのやあの! 更衣室やあぁぁのぉぉぉぉ!」
演技臭いセリフを吐きながら、その手を緩めない葵。そしてそのまま更衣室に連れ込まれる朔であった。