タダより高いものはない
片付け手伝いを終えて広場へ引き返す道すがら、路の両側から声がひっきりなしに掛かってくる。 一緒に無言で手招くのは旨そうな屋台の匂い。
腹減りには何よりも魅力的な誘いだ。
「ダメですよ? あなた方は帰ってから夕食のご用意がされておりますから」
「そう言いながら自分だけ食ってんじゃねぇよ」
俺とノアを横目にルシアはナンみたいな白くてもちっとしたパン生地に香草とフィッシュチップスを挟んだものを食べながら歩いている。
「私は夕食が用意されておりませんから。 それにノースネア嬢はともかく、あなたは今のところ手持ちが無いでしょう」
「う」
確かにその通りだ。 居候の身で、宿代として働かされてるんだから自由になる手持ちがあるはずも無い。
けど、衣食住保障されてるだけありがたいんだからまぁ、贅沢は言うまい、だ。
「あの、アヤトさん。 良かったらお礼に自分が」
「ごめん。 それは有難いが遠慮しておく。 その気持ちだけで良いから」
それはやってもらったら俺の心に打撃が入る。 ノアがお嬢様くらい上から目線で振舞えばダメージも少ないと思うが。
天使の妹におごらせるほど、まだ落ちていないと思いたい。
「頑張って馬車馬のごとく働いて自由になる分を稼げると良いですね」
「……言い方がえげつないな」
「ふふ。 半分冗談ですよ」
「それ半分本気って事だよな?」
「そうとも言いますが、結局は私にあまり関係ありませんから、どうでもよろしいですよ」
おい。 この眼鏡、何か爽やかな笑顔で言いやがった。
楕円のフレームからこっちを見る目。 それが細まる。
「本当のことです。 あなたが帰れても帰れなくても、私には関係ないのと同じ事ですよ」
「信じろとは言わないが、俺がここの人間じゃないのは真実だ」
「おやおや。 心外です。 私はそれを疑った事などございませんよ」
「そーかよ」
「はい。 だって私も別の世界から来ておりますし」
……今、何て言った?
「おい、眼鏡」
「ルシアです」
「今、お前もって言ったか?」
「言いましたが」
いやいや、何、平然と言ってるんだこいつ。
「別の世界?」
「そう言ってるじゃないですか。 まぁ、君と違って自由に行き来してますけど」
「嘘言うなよ!」
「おやおや。 自分の時は棚に上げて、人を嘘つき呼ばわりとは」
「自由に行き来してるってどうやって!」
「来た路を戻ってるだけですが」
来た路って何だよ!
「あんた、俺も連れて帰ってくれないか」
「え。 普通の人間だと瘴気で死にますがよろしいですか?」
「は?」
「君と同じ世界だといつ言いました?」
……言ってないな。
「まぁ、比較的浅い階層なら大丈夫でしょうが…………、君はそれで私に何を差し出してくれるのでしょうか?」
仕立て屋はそう言って薄く笑った。
「何をって」
「まさかタダでやるとでも? 私にはそんな義理ありませんし、運び屋でもありません。 何かを望むなら、その対価を。 お店の商品を支払いせずに持ち帰るのは窃盗です」
にっこりと笑顔を浮かべ、仕立て屋はいつの間にか随分先を歩いているノアを見る。
「今の君に支払える何かがあるとは思えませんけどね。 買い食いすら、ノースネア嬢に立て替えて貰わなければ出来ないわけで」
ぐ。 その通りだけどな。
仕立て屋は眼鏡の奥で垂れ目を細めた。
「もしくは、魂でも差し出します?」
「はぁ? 魂?」
「ええ。 あなたの魂。 特に変わった素材にはならなくても、おやつ程度にはなりそうですし」
こいつ、頭大丈夫か。
「おや。 察しがつきませんか。 鈍いですね」
眼鏡の奥、光の加減か黄昏と夕闇が混じる変な色彩に見える目で、仕立て屋が笑う。
「私は魔族というものなので」
人間とは違う、瞳孔が横に細まる。
ぞわっと背筋に悪寒が走った。 まるで蛇に睨まれた蛙みたいに固まっていた俺を、ノアの声が呼び戻す。
「アヤトさん、ルシアさん! どうしたんですか?」
立ち止まり振り返って、俺たちに手を振るノアの姿に、止まっていた時間が動き出すのを感じた。
無意識に止めていた息を吐き出して、手を振り返す。
「申し訳ありません。 脅かすつもりではなかったんですよ? ふふ」
いけしゃあしゃあとそう言って、仕立て屋は何事も無かったように歩き出した。
そうは言われても得体の知れないあの悪寒はまだ残っていて、俺は仕立て屋と少し距離を取って歩き出す。
「冗談はともかく、対価を払えるようになったらお話くらい聞いて差し上げますよ。 交渉はその後ですね」
「…………」
軽く掛けられた言葉に、俺はもう一度悪寒が走るのを感じて、返事はしなかった。
世の中、タダより高いものは無いと言うが、この仕立て屋を見ているとむしろタダには裏がある気がしてならない。 少なくとも、こいつがタダで何かしてくれると言ったらヤバい気配しかしないと思える。
広場に着くと、俺とノアはお嬢様の箱馬車に乗って屋敷への帰路に着いた。