たまには羽を伸ばしましょう
もちろん、いくら勉学に励んでいるとはいえ、別に毎日勉強をしている訳ではない。
王師匠の座学の講義がない日などは、よく王粲と劉虞と一緒に遊んだりもしている。街の近くの川や山は半ば街の子供たちの遊び場となっているので、自然と俺たちもよくそこへ遊びに行く。遊べるのは一週間に一日くらいの頻度だけど。
「劉表~、川に行こうよ~」
俺が家に着いてすぐ、外から家で軽装に着替えてきたらしい王粲の声がした。
王師匠の座学が30分前に終わり、日が落ちるまで数時間を三人で遊ぼうと約束した俺たちは、一旦家に帰って着替えることにした。おそらく王粲は俺が家に帰っている間の時間に、着替えて俺の家まで来たのだろう。王師匠の家が王粲の家なので帰宅する時間は省けるとはいえ、いくらなんでも早すぎはしないか?
「待って、王粲。俺はまだ準備できてないんだ」
「遅いよ劉表。僕はもう準備万端なのに」
遊びに行くときの王粲は、いつも行動が早い。今日の座学が早く終わったおかげで日が落ちるまでたっぷりと時間があるから、もうちょっとゆっくりしてもいいのに。
「今すぐ着替えてくるからちょっと待っててくれ。劉虞もまだ来てないだろ?」
「うん、遅くなるから先に川に行っててだって」
「わかった」
劉虞の家は王師匠の家とかなり遠く、街の外れの山のそばにある。俺はもとより、王師匠は質素倹約を旨としているため、俺と王粲の家よりはるかに劉虞の家の方が立派だ。劉虞はそれを誇るような真似はしないが、やはり大きい家というのはどこか気押されるような雰囲気があるから、俺は劉虞の家に行くのは苦手である。それを汲んでなのか、ただ単純に家から直接行ったほうが早いからなのかは知らないが、いつも遊びに行く時には、劉虞は一旦家に帰った後、現地で俺たちと待ち合わせる。
史実では、劉虞は幽州の刺史であり、徳が高く名君だったとされているが、こういうところからも劉虞の人柄の良さが表れてるのかもしれない。
とりあえず、これ以上王粲を待たせるわけにも行かないのでさっさと着替えると、家の戸締りを簡単に確認し、外に出た。
川のせせらぎの音が聞こえる。
俺の家から川までは結構な距離があるため普段は比較的近くの山に遊びに行っているので、この音を聞くのは久しぶりだ。上流に出ると大きな滝がありかなりうるさいのだが、川の周囲にうっすらと茂る木々にさえぎられてか、比較的このあたりは静かである。
「あ、劉虞が来た!」
「馬鹿、河原で走るな」
劉虞を見つけ、駆けだそうとした王粲をすんでのところで引き留める。崖に沿って大きく曲がっている川のそばの河原には丸い石が多く、こけやすいので大人たちから散々注意されている。転んだら二重の意味で大事になるところだった。
座学の成績が優秀すぎるせいでしばしば忘れそうになるが、王粲も俺もまだ10歳だ。もし王粲が歩けないほどの怪我を負った場合、俺一人で抱えるなんてことは出来ないし、かといって王粲をそのまま放置しておくこともできない。いつも大事になる前に俺が注意したりしているから、今までそういうことは怒っていないけど。
そういえば、俺は前世の知識があるせいか、精神的に大人だとよく言われる。前世の自分に関する記憶については本当に何も覚えてないのだが、意識としては残っているみたいだ。両親の話を聞いている限りでは、赤ん坊の時や幼児期のときに物心があったわけではなさそうなので、だんだん成熟して行ったのは確かなんだろうが、いつからこうなったのかはさっぱりわからない。なぜ劉表に転生したのか、なぜ三国志知識を持っているのか、考え出したらきりがなくなってくる。
「劉表、何してるんだ?」
「ん……? ああ、劉虞か、すまん、ちょっと考え事をしてた」
「そっか。それより、あそこで王粲が俺たちを呼んでるぞ。早く行ったほうがいいかも」
指差された方向を向くと、上流の方で王粲が手を振りながら何かを叫んでいるのが見えた。遠すぎて何を言ってるのか聞こえないが、とりあえず俺たちを呼んでいるらしい。俺はちらりと太陽の位置を確かめた後、歩き出した劉虞のあとをついていった。
ゴゴゴゴゴ、と滝の音が聞こえる。大地が揺れていると錯覚させるようなこの滝は、百メートルはあろうかという断崖の上から水のカーテンをかける。ここに来るには三十分ほど山を登らなければならず、今日のように時間があるときにしか来れない。いつもならこの偉大な絶景を楽しみながら来るのだが、今日は早足で上ってきたためそのような余裕はなかった。
突然、前を歩いていた王粲が身をかがめ、こちらへ向けて手まねきした。
「どうした? 王粲」
「……が……よ」
「ごめん! 何言ってるか聞こえない!」
「……!」
王粲が口に人差し指を当て、静かにするように身振りで示した。まるで何かを発見したような王粲のしぐさを不思議に思いつつ、足元に気をつけながら王粲の方に近寄っていく。このあたりは昔あらかた探検したから、別に王粲の興味を引くようなものはないはずだ。
「王粲、どうしたんだ? なにかあったのか?」
声を落としたとはいえ十分俺の声は聞こえているはずだが、王粲はそれにかまわず、右手にある森の奥の方を指差した。
「ん……? ああ、あそこに人がいるようだな」
近くに寄ってきた劉虞が、王粲の意図を汲み取って言う。俺の目にもかすかにだが何人もの人が動いているのが見えた。
いや、あれは人というより……
「兵士だよ。ぼんやりだけど、あそこに漢って書いた旗をもった人がいるのが見えるでしょ? おそらく、あれは官軍だと思う」
「目のいい王粲が言うなら間違いないんだろうが…… なぜこんなとこに官軍が来ているんだ?」
「私が見る限り、山や森の中をかなり迅速に行軍してるようだ。官軍といっても相当練度が高いと思う。王粲、他に何か見えるものはないか?」
「うーん、特にはないかなぁ…… 将らしき人がいるのは見えるけど……」
俺の疑問を受け、劉虞と王粲が目立たないように注意しながら目を凝らす。あまり目のいい方ではないせいで手持無沙汰な俺は、率いている将が誰なのか、漢の有名な武将の中から検討をつけてみることにする。
官軍で有名な武将といえば後世にはあまり残っていないが、なかでも蜀を建国した劉備の師である盧植が一番有名だろう。他には豪族だが名目上官軍の配下武将であった、名家・袁家の袁紹、長安あたりを支配した董卓、呉を建国した孫権の父である孫堅などもいる。領地が南陽に近い武将と言えば孫堅だが、彼は今の時点ではただの官軍の一部将にすぎず、軍を動かすことは難しい。
となると、俺が思い当たる人物は二人しかいない。
「あ、見えたよ。えーっと…… 『朱』と『皇』って言う旗みたいだ。皇って皇帝陛下のことかな?」
「ああ、やっぱりか……」
あまりに大物の登場に、俺は嘆息し、天を仰いだ。
目の前の軍は、黄巾の乱平定に最も寄与した二人、朱儁将軍と皇甫嵩将軍の軍だ。