1-3
宿場がライズデルの顔の位置にあるとすれば、カティの家は足首辺りと言ったところだ。
町外れの外れもいい場所に、木造建築何十年という古ぼけたカティの一軒家がある。
カティは見た目に反して体力に自信がある。鉱夫暮らしもそこそこ長く、宿場から十分ほどの道のりを呼吸を乱さずに走りきる程度には鍛えられているのだ。
錆び付いた鍵で扉の錠を開け、月明りのみを頼りに手探りで壁の凹凸を探って押し込む。すると、パッと屋内を白い輝きが照らし出した。
火により作られた灯りではなく、そのことに気づく人間からすれば驚きの光景だ。
「たーだいまっと。ノワール! ノワール、おいで!」
散らかる廊下を踏み分けながら進むと、呼びかけに応じる小さな声が足元から届く。
振り返って腰を落とすと、その足にじゃれ付いた一匹の黒猫の姿があった。全身がビロードの美しい黒い毛に覆われた黒猫は、それだけに額にある白い傷跡が目立つ猫だ。
その姿からノワール(漆黒)と名づけ、カティが一緒に暮らしている唯一の家族である。と紹介すれば、姉代わりを自認するリディアが拗ねるのだが。
「よしよし。今日のは特別上等なやつだって、リディアさんがくれたぞ」
甘えるように擦り寄る黒猫に、宿場で受け取った麻袋の中身を差し出す。少し焼かれた魚の切り身で、種類はわからないが香ばしい臭いが鼻腔を掠めた。
切り身に飛びつくように食事を開始するノワールを微笑で観賞しつつ、鉱山に忍び込むのに必要なものを探して家の中を歩き回る。汚れるのは覚悟の上なので着替える必要はない。ただ純粋に、闇を退ける灯りが必要だった。
「確か一昨日かその前に使ったはずだから、日にち的にはこの辺りのはず……っと、発見」
積まれた工具や器材の下から目的のものを引き出し、埃の付いた表面を指で軽く拭う。
取り出されたのは円筒形の奇妙な筒だ。先端に埋め込まれた透明の結晶が薄っすら輝き、確かめるように筒の尻部分を弄ると、結晶が俄かに眩い光を放ってみせた。
家の照明と質を同じとするその光は、やはり火によりもたらされるものとは質が違う。
結晶を媒介として発光する機構を組み上げたのはカティの祖父で、そしてその機構を備えられた物は世界中を見渡してもこの家の中にしか存在していない。
そのことはカティにとって誇らしく、そして同じくらいに口惜しいことだ。
自宅は祖父が亡くなるまでの日々を過ごしたものを受け継ぎ、素人目にはガラクタの山としか映らぬものが、この結晶灯を含めて幾つも散乱している。
「全ては時代と、ギフトが悪かった。……納得がいかないな」
結晶灯の灯りを落とし、腰に備え付けて室内を見渡す。と、散らかった部屋の一角――唯一整頓された一帯に視線が固定された。
祖父の名が刻まれた工具の並ぶその一角は、祖父が最も仕事に向かっていた机が置かれた場所だ。その整然としている机の中央に、掌に乗るほど小さな箱が置かれている。
簡素な木製に見える小箱に鍵穴はなく、開けるのに力以外を必要としないもののようだ。
――何をどうやっても、開くことはないのだが。
「さて、もう準備するものはないな」
箱から視線を逸らし、身支度を済ませて玄関に向かう。結晶灯のみを装備した簡易な支度姿の肩に、食事を終えたノワールが軽やかに飛び乗った。
「おっと、ついてきてくれるのかな?」
肯定するように、にゃぁと鳴いて、小さな身を丸めて肩にしがみ付いている。
「可愛い奴だね、お前は。んじゃ、付き合ってもらおうか」
同行者の喉をくすぐって、豊かな毛触りを堪能してから、鉱山を目指して駆け出す。
闇に溶ける黒猫を肩に乗せた少年を、冷たい月だけが静かに見下ろしていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
横に狭く、縦にも心もとない通路を警戒心のない足取りで影が疾走していた。
「迷っちゃった」
内容の割に声色は平坦で抑揚がない。本音なのだろうが、真意が掴めない口調だ。
影の主が相変わらずの歩調で進む道は暗い。ほの暗いというレベルではなく、まさに暗黒といっていい闇が前にも後ろにも広がっている。
自分の足音だけが反響する前後不覚の闇は、常人なら容易く恐怖の内に飲み込むだけの不気味さを内包していた。
手探りで進むのにも勇気を必要とする道のりを、まるで自分の家の庭でも横切るように順調に走っていた影は、唐突に足を止めると闇の中で振り返り、
「追いつかれちゃったかな」
闇の中――影が走り抜けてきたずっと後方から、聞き取れるかどうかさえ微妙な微かな雑音が生じている。
――複数の人間の靴音と、その靴の持ち主達が会話する余波が空気を振動させていた。
数秒の間、影は迷うように足を止めたままで俯き続ける。
「でも、もうちょっとだけ……」
消極的な言葉で決意を新たにしたのか、闇を見通す瞳の輝きに翳りはない。
闇を無手で抜ける影とは違い、追っ手は明かりを持ち込んでいるらしい。道の向こうから光の近付く気配は、影にとっては逆に位置を知らせてもらっているようなものだ。
追ってくる気配から遠ざかる道を選びながら、影は無作為に入り組んだ道を走破する。
目的はあるようでないようなものだった。それは先ほどの呟きが証明した通りだ。
「出口?」
狭い道が終わるのを通り抜ける風の感触で察して影がそう零した。その答えというように広がった光景は、相変わらずの闇に沈む広々とした吹き抜けの空間だ。
出口というわけではないらしい。それどころかここに至るまでに通過した幾つもの道が、この空洞に辿り着くために作られた道であったようでさえある。
ということは、遠からじ追っ手もここに辿り着くということだった。
「失敗、失敗……」
周囲を見回して別の道を探そうとする影は、ふいに目に入った光についと視線を止める。
暗く、薄ら寒い錯覚さえ感じる闇の奥――金色に光る小さな二つの光点が影を見ていた。
「あれ……君も、迷っちゃった?」
微動だにしない金色の光に対し、警戒させぬように身を屈めながら影が近付く。
接近する影を黙って見ている金色の光の耳朶に、空気を震わせる影の微笑が届いていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「こんなことになるなら、ノワールを連れてきたのは失敗だったな……」
結晶灯の灯りを頼りに坑道を進みながら、カティは溜息で幸せを逃がしながらぼやいた。
自宅から鉱山までの道を真っ直ぐ(途中、通り過ぎた宿場からはすでにガロンは撤退した様子だった)寄り道せずに到着したが、入り口で同行者を見失うアクシデントに見舞われたのだ。
「魚に飛びつかん勢いだったな。……この暗がりだと保護色だから苦労するのに」
結晶灯の放つ白光はかなりもので、直視すれば視力を一時的に奪いかねないほどのものだ。前回の使用時からどの程度の発光時間が残っているか算出し、いずれは結晶灯本体に残光量の目盛りがいるなと今後の課題としておく。
鉱山の中の空気は冷え切っている。すでに鉱夫達が後にしてから数時間が経過しており、加えて照明のない暗闇は人の生活の温かみの一切を取り払っていた。
その静謐な空気に普段との違和感を感じながら、しかし物怖じせずにカティは足を進める。
些細な違和感は嫌な予感となって背筋を震わせ、常ならば引き返す判断をカティも下しただろう。だが、今回に限っては同行者を連れ出すまで帰るつもりなどない。
違和感を除けば闇に対する恐怖などなく、忍び込み慣れた終業後の鉱山だ。寒くなる季節に比べれば、今の時期はさほど遅い時間でも危険ということはなかった。
道中で見つかればという祈りも空しく、数時間前に作業を終えた採掘場に単身辿り着く。
広々とした採掘場は静まり返り、鉱夫達の姿も灯りもないその場所は見慣れた現場とは別世界の様相を呈していてどこか空々しい。
「あるとすれば、この辺りだけど……」
結晶灯を巡らせながらドイネルとやり合った地点に向かう。足元を注意深く探っていると、ほどなく目的のゴーグルを発見することができた。
オレンジ色のフレームに付いた泥を拭い、細かい傷が幾つもあるフレームを指でなぞる。
「どこも壊れてないな。……よかった」
敬愛する祖父から譲られた大事な遺品の無事を確認し、我知らずカティは微笑を作った。
手の中で感触を確かめてから、ぎゅっと赤茶の髪を引き締めるように装着する。ややきつめに頭を締め付ける感覚に、調子が戻ってくるような安堵感があった。
「さて。目的のものは見つかったけど……違う探し物の方かな」
今さらながら鉱山に連れてきた判断ミスを悔やむ。直前の宿場での出来事に苛立っていたことを理由にして、溜飲を下げたいところだった。
「目的地も話してなかったしね。もともと、相手が猫じゃ意思疎通もままならないけど」
結晶灯の光で採掘場を一通り照らし、頭の中に描いた地図に従って黒猫の姿を探すことに。
はぐれた場合のセオリーは動かないことだが、猫の場合はどうだろうか。
「臆病は臆病だけど、飛び込んだのはノワール自身だから当てにはならないか」
ノワールは一年ほど前からカティが面倒を見ている。まだ子猫だった頃は大人しかったものの、成長するにつれてやんちゃな感が増した手のかかる家族だ。
唯一の扶養家族を思って微苦笑し、いっそ鉱山中の照明をつける短慮に走りたくも思う。
労働時間外の鉱山への立ち入り、及び照明の使用は厳命によって禁止されている。その法度の親玉である領主が近くにいた夜には考えられない暴挙であるが。
思えば、近衛隊まで引き連れてガロンが宿場に顔を出したのは何の目的があったのだろう。
ガロンは城に引き篭もっていることが多く、カティも実際に本人を見たのは今日も含めて片手で足りるほどだ。町の代表であるドルネイを除けば他の仲間達もほとんど同様だろう。
そのガロンがわざわざ出向くほどの理由――自己顕示欲と保身の感情に支配された男が何を考えていたのか。
「機嫌がいいようには、見えなかったけどね」
ねちねちと嫌味を言う姿勢は普段通りと言えばそうだが、周囲にいた愛娘達もどこかぴりぴりしていたことを含めると、何らかの問題が発生したのではないだろうか。
いい気味だと思うが、そのとばっちりがこちらに及ぶとすると見過ごせる話でもない。
周囲が闇で音も無音だと気持ちが下向きになるばかりだ。さらにその気持ちをへし折るように、不意に周囲に闇が舞い降りた。咄嗟のことに一瞬驚くが、すぐに原因に思い当たって結晶灯を軽く振る。もともと結晶灯は未完成品で、接触不良から機能が停止することは度々あった。その状況に陥った機械の再起動法は誰もが知るところだ。
――すなわち、叩いてみる。
「つけ、つきたまえ。お前は闇を切り裂く光の剣だ。自覚に目覚めて僕を助けろ……」
結晶灯の職業意識に訴えかける方法を取っている間、カティは意識を手元に向けていた。
故に、目前の分かれ道の左から、火によってもたらされる灯りが近付くことに気づかない。
――結果として、光の持ち主が道を折れて現れた瞬間、正面に向けていた結晶灯が最大の光力を発したのは偶然だった。
「――うくっ!?」
「――っ!」
最大出力の光の威力は人の目を焼くには容易な力がある。
マズイとカティが思う眼前で、光を受けた相手が目を押さえて激痛に仰け反った。その手から落ちた照明が地面に打ち据えられ、ガラスの砕ける音に続いて炎が立ち上る。
咄嗟に悲鳴を上げなかったのは偶然だが、後のことを思えば好判断だったといえた。
目を覆い、苦痛の呻きを漏らして壁に寄り掛かった女性に見覚えはない。ただ、その女性の右肩を飾る銀製の羽根飾りが相手の身分をはっきりと証明していた。
(ガロンの近衛隊――愛娘達か!?)
確認したのと同時、カティは脱兎の如く背を向けて走り出す。
混乱に湧き上がる幾つもの疑問は二の次にして、この場からの逃走を優先した。
「待て! くっ……奴だ! “鉄”の男の方だ! 目をやられた! 誰か、誰かこっちに!」
背中を追ってくる近衛兵の声に、相手が単独ではなく複数でいることが伝わってくる。
幸いにも向こうは結晶灯の光に完全にやられたらしく、カティの姿は確認されていない。
時間外に鉱山の中に忍び込んだことを知れれば、当事者であるカティはただでは済まないし、咎はおそらく町の住民達にも及ぶことになる。
複数の足音が背後の闇に近付きつつあるのを空気の振動が知らせた。カティの進行方向からやって来る気配がないのは、重ね重ね僥倖なことだった。
「――っ。愛娘達の奴ら、灯りを」
闇に沈んでいた鉱山の各所で、照明が働き始めて光が闇を制圧していく。
侵入者に気づいた彼女達が血気盛んに追うだけでなく、追い詰めることを優先することに肝が冷やされる。素人とは非常時における判断力の大きな差異だ。
相手が狩人となれば、追われるこちらがただ闇雲に逃げる獣では捕まるのも時間の問題。
「となれば、漫然と逃げ続けるより裏を掻く方が有効かな」
走り続ける内、カティの身はゴーグルを回収した採掘場まで戻ってきていた。
未だ光を与えられず、暗黒の満ちる空洞の隅に身を屈め、入ってきた道の対角の通路の位置を確認する。採掘場には幾つかの坑道と繋がるルートがあり、この採掘場にも四本の坑道が通っていた。
岩陰に身を放り込むのとほぼ同時に、追跡者が採掘場に到着する気配。すでに結晶灯の光は落としているので、闇を照らすのは追っ手の持つ二つの灯りのみだ。故に追跡者を二人と見定め、追加が来る前に行動を起こす。
隠れる前に握りこんだ拳大の石を構え、追っ手の目がこちらを逸れているのを見計らって、向かい側の通路に投石。響いた小さくない音に追跡者が過敏に反応し、一秒を惜しむ姿勢で発生源に駆けていく。
二つの気配が完全に採掘場を離れ、他の気配がやって来ないのを確認して、深く息を吐く。
極限下に置かれ、混乱より凍結を選んだ心が少しずつ解きほぐされていってようやく、現状認識を落ち着いて行うだけの余裕を取り戻した。
「敵は愛娘達で、おまけに複数。狙いは“鉄の男”と……複数なのか……?」
接触した一人の叫びと、実体験を加味して得られる情報はそんなところだ。アドバンテージとしては、鬼ごっこのフィールドがカティにとって自宅の庭同然に親しんだ場所であることと、鬼はカティが鬼ごっこに参戦していることに気づいていないだろうということだ。
誰にも見つからず、幾つかある抜け穴や非常口を駆使して脱出する難易度は高くない。
「ただ、それだとノワールの無事が保障されない」
近衛隊――愛娘達は浮遊城と並ぶ、ガロンご自慢の精鋭だ。同僚達などは見目麗しさから眼福と口笛を吹くものもいる。……無論、浮遊城を見せ付けられるぐらいならという話で。
近衛の任を帯びるだけあって、彼女達の実力は折り紙つきだ。見た目に可憐さに反した残虐さで、私刑の名目で反乱分子が潰された噂話など後を絶たない。
「そんな連中が、仕事中に邪魔な猫を見つけたらどうなる。……考えたくもないな」
近衛隊に人間味など期待してはいけない。家族の身を案じるならば、ここで退散するという選択肢は出現すら許されなかった。
鉱山の全体図を頭の中に思い描き、照明の点灯したルートを排除しながら道筋を探る。先ほどの近衛の向かう道と、おそらくは灯されていく照明の順番を考慮しつつ。
ノワールは人見知りする猫だ。一度も餌を貰わない内には絶対に誰にも懐かない。果敢に挑戦したリディアの手の甲が血に塗れたのは鮮明な記憶だ。
頭に捜索すべき順路を思い描くと、息を詰めるのを起点として立ち上がった。ひとまずは入ってきたのとも、囮に使ったのとも違う道に進もうとして――
「おい、坊主。こんなとこで何やってんだ?」
上から降ってきた声に虚を衝かれ、咄嗟に身を固めたカティの眼前に誰かが降り立った。
声の主が持つ灯りが薄っすらと周囲を照らしたが、それでは足りぬと結晶灯の光を向ける。
「っと……不思議なもん持ってるな。見たことねぇ灯りだが、何だそりゃ?」
結晶灯の白光を目の当たりにし、眉を寄せたのは見知らぬ長身の男――ドルネイに届くまではいかないが、それ以外の屈強な鉱夫達に見劣りしない背丈。鉱夫達に比べれば細身の体つきだが、弱々しさとは縁遠い鍛えられた体をしている。
長い足にツナギのようなズボンを履き、薄手のシャツに黒の上着を羽織った軽装だ。
短めの黒髪を逆立て、つり上がったダークブラウンの双眸がこちらを見下ろしている。悪戯坊主のような輝きを瞳に宿し、口元に楽しげな微笑を形作った美丈夫だった。
警戒対象の条件に該当しない第三者に言葉を失うカティに対し、男は先ほどの質問の回答もまだだというのに矢継ぎ早に口を開いた。
「まぁ、その妙な灯りはどうでもいい。なあ、坊主。この山の中で何してんだ? ここにゃ、今はおっかねぇお姉ちゃん達がうろちょろしてて危ねぇんだぜ」
「危ない……近衛の?」
「そうそう、何て言ったっけ……確か愛娘達だ。そんなのがうろついてる、っていうか知ってたみたいだけどな。何だ、ひょっとして追っかけられたか、お前?」
肯定の言葉も頷きも返せない。奇妙なほどに親しげな態度の男だが、得体の知れない男だ。一方で男は沈黙を勝手に肯定としたのか、頭を掻いて不快感に顔を顰める。
「かーっ! なんだなんだ、あの小娘共はそんなに見境ねぇのか。俺とガキの区別もつかねぇのかよ。明らかに見た目と足の長さが違うだろうが、何のために目がついてんだかよぉ」
同意を求めるように肩を竦める男に気取られぬよう、カティは小さく息を呑んだ。
今の発言から愛娘達が追っていたのは十中八九目の前の男であると確信した。そしてこの男が、愛娘達が複数で必死になる程度に危険人物であるということも。
「仕方ねぇ。まぁ、騒ぎの原因は俺にもある。どうにかしてやるさ。おい、坊主。どうせ悪戯かなんかで忍び込んだんだろ? 俺がこれから軽く女の子達をあしらっといてやるから、その間に逃げ出しとけ。逃げ道くらいは分かんだろ?」
手前勝手に結論に達した男は、立ち止まるカティの態度を無視して通路に向かう。選んだ通路はカティが逃げてきた通路――つまり、未だ後続の可能性のある道だ。
手狭な通路の入り口に手にした灯りを置くと、男はぐるりと周囲を見渡す。そして、手近なところにまとめて置かれたつるはしの山を発見して口を獣の喜びに歪めた。
その笑みを見て、カティは目の前の男が友好的な人物でないことを確信する。
「――姉様、姉様! “鉄”の男を視認、発見です!」
「よーやっと見っけたぜ、手こずらせやがって! お父様にお叱りを受けたらどーする!」
男がつるはしを手にしたのと同時に、少女特有の甲高い声色が坑道の中に響き渡った。聞き覚えのある声音は宿場で聞いた愛娘達の一員の声か。つまり、宿場にガロンが出向いたのは鉱山に用事があったということだろうか。
通路の死角にカティが身を寄せると、俄かに坑道を微風が通り抜ける。それは微かに感じ取れる乾いたそよ風だったが、少しずつ風圧を増すのが肌で感じられた。
「へぇ、“風”が多いらしいな、そっちは。狭っ苦しい洞窟に涼しい風たぁ、気が利くな」
意思のあるように渦巻く風の中心にいて、男はカティと同じ結論に至ったようだ。その結論は蚊帳の外のカティに比べて男には由々しき事態のはずだが、つるはしを肩に担った男は平然とした態度を維持し続けている。
「逃がさねーよーにだよ、バーカ。逃げ足が速ぇーのは分かってっから保険だ」
答えた乱暴な口調は、宿場で見かけた三つ編みの少女か。槍を手にしていたことも含めて、非戦闘員ということはありえないだろう。バリバリの戦闘派だ。
男の素性を詮索するのは止め、音を立てぬように後ずさりを始める。幸い、男は言葉通りにこちらを巻き込む気はないらしく、愛娘達もカティの存在に気づいていない。
この場を逃れて、未だどこかに潜んでいるはずのノワールを探さなくては――。
「それで“鉄”の。鍵はいったい、どこに隠しやがった?」
「さて……そこにすでに誤解があると思うがよ。“鍵”は俺が手にしたわけじゃねぇぜ?」
「そうかよ。じゃあ、用なしだ。消えちまえッ!」
少女の激昂の叫びと同時、男が下段に構えたつるはしに生じた変化をカティは見た。
――つるはしの先端、木の柄と接合された鉄の爪が融解したように液状化、一瞬で三又の角を形作って硬質化する。
瞬きの間に変形したそれは、男の手の中で槍へと姿を変えていた。
自らの手の中で起きた異常を気にも留めず、確かめるように握り直した槍を男が構える。
「おもしれー。このあたしと槍でやり合おーってのかよ」
「槍でやり合おうってのはちょっと寒いな。センス磨いて出直してこいや」
「……ッ! あたしは洒落で言ってんじゃねーんだよッ!」
鋼と鋼の打ち合う響きを背後に聞きながら、カティはすでに戦場から駆け出している。
男の手の中で起きた光景を見れば、それが自分の手に余る事態であることは簡単に分かった。理解と納得が同じものでないことを示すように、唇を悔しげに噛み締めていたが。
「“鉄”に“風”か……つまり僕は自覚なしに、識者同士の諍いに巻き込まれたわけだ……!」
目撃した通り、“識者”はこの世界に多数存在する異能者の総称だ。
ただ一つに特化した知識有る者が“識者”であり、『知は力』の言葉が示す通りの力を振るう。
“風”の識者が風を操り城を浮かし、“鉄”の識者が意のままに鉄の形状を変化させる。
それは都市部を中心に人々の生活の中枢を支え、今の世界を回している重要な歯車だ。識者なくして今の世の中は立ち行かず、識者でないものもその恩恵に大いに与っている。
そうして世の中のために尽くす識者がいる一方で、人智を超えた力を悪用するものも後を絶たない。結果として、今のカティのような状況が生まれることになる。
「くそくそくそ、全ての識者に呪いあれ。全員揃って坑道に封じられてしまえ!」
毒を吐きながら走るカティなど知らぬように、識者同士の戦いは激化しているようだ。坑道の中を轟く剣戟の音は苛烈さを増し、気配の多くがそちらに向かうのがわかる。
“鉄”の男の作った好機というのが気に食わないが、これは紛れもないチャンスだ。愛娘達のほとんどがそちらに出向くなら、物騒な殺気から遠ざかるだろうノワールと距離が開くはず。
結晶灯の灯りを最小限に絞り、弱々しい光を頼りに鉱山の深部へと向かう。
相手の定まらぬ怒りと、心臓の鼓動を早鐘に変える焦燥感がカティの内心を支配している。頭の中で描いた地図の通りに走っているつもりだが、それを信じる自信さえ揺らいでいた。
「落ち着け、カティクラウス……! お前の焦燥一秒が、家族の命を一秒縮める」
足を止めずに深呼吸。息を吐いた後、吸い込む過程で頭を後ろに反らして意識を静める。
そして、見開いた瞳にはすでに葛藤の揺らぎはない。頼りなかった足取りに力強さが増し、地を打つ足音が鋭くなる。そのカティの眼前、通路が終わり、再び空洞が姿を現した。
結晶灯の灯りが一瞬だけ照らした入り口には、第二採掘場と書かれた立看板がある。ライズデル鉱山の中でも最も深部に作られた採掘場で、一年近く前に放棄された採掘場だ。
採掘場の奥には岩盤を崩し、鉄板などで封鎖された一角がある曰く付きのフロア。
あまり長居したい場所ではなかった。ここに忍び込んだと知れれば、親方にはさぞやどやされるだろうと、場違いな感想が浮かんで苦笑を刻んだ。
極度の緊張感に肩で息をしながら結晶灯を巡らせ、フロアの中央近くにある岩の裏に回る。
その小高い岩の裏――結晶灯に照らされたのは、灰色の布地の衣服だった。
「――人間?」
それは衣服だけに、当然のように着込んでいる人間がいる。照らした足元からゆっくりと灯りを上に向けると、豊かな長い金色の髪が光を照らし返した。
着ている衣服は首元までをきっちり覆い、肌の露出はほとんどない。にも関わらず、手首から先と顔という二箇所を見るだけで、隠された肌が雪のように白いのがわかる。閉じられた瞼を覆う睫毛は長く、整った鼻梁の下に桜色の唇が覗いていた。腰ほどまで届きそうな髪は梳けば絹のように流れることを予感させるほど美しく、金色の発色はただ貴きものとして他者の心を席巻してやまない。
――夢か幻のように、現実離れして美しい少女がそこにいた。
「……なん、だ。この子は……」
一瞬息を呑み、それだけを呟くとカティは沈黙する。
膝を胸元に寄せ、岩に寄りかかるように俯く少女は意識がないようだ。微かな呼吸音が聞こえるため、眠っていると考えるのが妥当だろう。
夢のように美しい少女を前にして、カティは言葉を見失って呆然と立ち尽くす。あまりにも少女と採掘場というシチュエーションが場違いだという考えと、少女の衣服――拘束衣とのミスマッチが現実感を奪うのだ。
何より、今のこの非常事態で、識者同士の騒ぎに関係のない人間がこの場にいるだろうか。
格好からして愛娘達ではなさそうだが、“鉄”の男と無関係でないとは言い切れない。とすれば、識者同士の諍いに巻き込まれる種になりかねないのだ。
数秒だけ悩むが、出た答えは一つしかない。
「触らぬ神に祟りなし、だ」
結論付け、立ち去ろうと意識が訴えかけるが、目が少女から離れようとしない。まるで眠る彼女の姿に魅入られたかのように、時だけが刻々と静かに世界を刻んでいた。
ふと、その少女の胸元に変化が生まれる。意識のない少女の抱えた膝が小さく動き、そこから金の輝きが二つカティを見上げたのだ。
見覚えのある金色は小さな双眸――持ち主は黒色の体毛に覆われた、カティの大事な家族。
「ノワール! こんなところにいたのか、無事でよかった……!」
少女の胸元から這い出したノワールが足元にじゃれ付き、カティはそれを抱え上げる。三十分ほどぶりの再会を喜ぶように、ノワールはその舌でカティの頬を舐めた。
「よしよし、恐かったろ。……もう大丈夫だ。ははは、ノワール、舐めすぎだって。ちょっと落ち着……ちょっ、ノワール! 痛っ! そこ、目ぇ! 目ぇ!」
再会の挨拶の痛嬉しさに涙を出しながら、カティは目的を果たしたことに安堵する。
回収したゴーグルは頭の上に、見失った同行者もこうして腕の中だ。後はいかにして上にいる連中の騒ぎに巻き込まれぬように道を選ぶかだが――
「――ノワール?」
呼び掛けは手を離れた黒猫に向けてだ。着地したノワールは一直線に少女へ向かい、その灰色の拘束衣を手繰り寄せるように何度か引っ掻いてみせた。
そして振り返り、何事かを訴えかけるように小さくにゃぁと鳴く。
言葉は通じないが、その行動と鳴き声の意図はカティにも通じた。だからこそ困惑する。
「この子を、連れて行けって言うのか?」
意思疎通は叶わないのだから返事はない。だが、黒猫は少女の前に堂々と座り込み、梃子でも動かぬというように悠然とカティを見ている。
「ノワール……悪いけど、この子は……」
どうにかしてその嘆願を断ち切る言葉を作ろうとし、ふと少女に視線を向けて、カティは言葉を作るのを中断せざるを得なくなった。
少女の美しさに目を奪われ、冷静に確認することができなかった少女の姿。灰色の拘束衣は坑道を抜けたために泥塗れなだけではなく、薄っすら滲んだ血によっても汚れているのだ。
分厚いはずの拘束衣に滲む出血と、丈夫な繊維が裂けるほどの何かが彼女にあったのだ。
そしてその少女はおそらく、採掘場で出会った黒猫を守るように抱き抱えていた。
この眠る少女はおそらく、カティの大事な家族を守っていたのだ。
「――ノワール。この子が来るまで、心細かったかい?」
通じるはずもない言葉に、しかし黒猫は肯定するように鳴き声を返した。
その鳴き声の示すところの真実はわからずとも、カティの覚悟は静かに固まった。
深く深く息を吐き、大きく大きく吸い込んで頭を後ろに反らす。
そして最後に再び息を吐き、見開いた瞳に逡巡の気配は僅かにも存在しなかった。