5-3
止まり木の塔から連れ出され、五名の鍵番隊に囲まれながらリトは中央塔の通路を歩いていた。腕は手枷を嵌められ、先頭の鍵番隊と鎖で繋がれている。厳重警戒だ。
乱暴に扱われることと、これまで以上に厳しい待遇になることは覚悟の上だったが、連れ戻された当日に部屋を出されたことには違和感があった。ガロン自ら迎えにきたのも妙な話で、先の城に起きた大地震と関係があるのかもしれない。
鍵番隊を引き連れて歩くガロンはいつも以上に危険な空気を纏い、見るからに苛立っている。それを刺激する余力はなく、リトは諦観を瞳に宿したまま黙り込んでついていく。
「ぬう……娘達からの朗報はまだか。たかが識者一人に何をやっている……!」
中央塔の私室に向かうのかと思えば、普段使用するのと別の階段を利用している。自由に出歩く許可のなかったリトが知らぬ道だ。もっとも、この鳥篭においてリトが知る場所は止まり木の塔とガロンの私室、後はギフトの保管所くらいのものだったが。
肥満体を揺らしながら歩くガロンに鍵番隊の鎧が噛み合う金属音が続く。と、階下から衛兵が駆け上がってきて、ガロンに報告の旨を伝えた。先ほどからそうして何度となく報告にやって来る衛兵に表情を苦くしたガロンだが、今度の変化は顕著なものだった。
「何だと……トルテの奴が!?」
「はっ。トルテ様……失礼しました。“空”の識者が止まり木の塔の衛兵を粉砕、キルマ様も敗退した模様で、こちらを狙ってくるものかと!」
報告の声には自棄になった絶望交じりだ。周囲の鍵番隊の面々にも動揺が走り、そして何よりも驚いた顔で青の瞳を開いたのはリトだった。
「……トルテ?」
「あの娘……拾ったやった恩も忘れて、私に槍を向けるか。野卑な生まれのものは性根さえも薄汚い。キルマも大言の割に役立たずめ!」
父親のために健闘した娘の名に唾を吐き、ガロンが憤怒の形相で部下達に命じる。
「口惜しいが鳥篭を放棄する。今より動ける衛兵は我が脱出までの時間を稼げ。鍵番隊はこのまま私と共に風船へ向かう。その娘は逃がすなよ!」
傲慢で自分本位の命令に、その場の全員が迷わず首肯する。そうせざるを得なくするのがガロンのギフトであり、従った衛兵がこの場を離れ、鍵番隊が無言でガロンに付き従う。
鍵番隊に背を押され、無理に歩みを始めさせられながら、リトは視線を窓に向ける。その向こうにある空のどこかでトルテが飛んでいる。首をもたげかける希望に唇を噛み、自分の浅ましい考えを恥じるように目を伏せた。
トルテが飛んできて、ガロンを倒してくれれば助かるかもしれないと思ってしまった。そんなのは他力本願で、トルテの気持ちを全く考えていない。復讐心を取り戻したトルテはガロンを憎むだろうが、同時にまやかしでも幸せを奪ったリトを許さないかもしれないのだ。トルテが自分を救ってくれるなど、都合のいい期待だった。
だからリトは静かに心を決める。もしもトルテがやってきて、ガロンが自分を人質にするなどしてトルテの気を引くのなら、足を引っ張ることになる前に命を絶つと。
死を思うと恐怖がある。何も知らなかった以前には考えられなかった感覚だ。何もなかった頃にはそれを選ぶ理由が芽生えず、選ぶ理由がある今は恐れる理由も同時に得た。
奥歯が震えるのを感じて、その感覚を噛み殺しながら足を進める。
ガロンの目的は階上、最上階をさらに上がった中央塔の屋上のようだ。道中、さらに一人の鍵番隊が隊列に加わり、万全の構えとなってリトを護送している。
浮遊する城の中で最も高い場所、強風の吹き荒ぶ中に悠然と一艇の風船が待ち構えていた。
風船は識者によって“風”の力を取り込んだ飛行船だ。込められた力の総量で飛行距離にも限度はあるが、その点この城は“風”の識者に不自由していなかった。
「諸君、では風船に乗り込む。我が鳥篭のことを思えば惜しい犠牲ではあるが、小事に拘ると大事を見失うということになりかねんからな」
躊躇いなく風船に乗り込もうとする背中に、黙り込んでいたリトが思わず声を投げる。
「愛娘達が戦ってるのに……逃げるの?」
「なに?」
「娘を戦わせて、自分だけ無傷で逃げるの?」
不愉快とばかりに顔を顰め、ガロンがリトに歩み寄る。鎖を持つ鍵番隊の前で立ち止まり、
「殴れ」
命じられ、鎖を持つ男の拳がリトの鳩尾にめり込んだ。衝撃に華奢な身が浮き、苦鳴と胃液が口内にせりあがるが、堪えて平然を保った顔を上げる。
「ふん。町にいる間に余計な感情を学んだようだな。下賎な庶民が、何も考えずに馬鹿げたことばかりしよる」
「幸せ、だよ」
遮りに不満の顔を向けられたが、リトもまたこればかりは曲げれぬと絶対の意志を込めた。
「ライズデルで知ったのは幸せ。溢れる気持ち……あなたにはわからない」
真っ向からの睨み合いに先にたじろぎを見せたのはガロンだ。ガロンはその自身の気後れを誤魔化すように咳払いし、口元を暴力的な喜びに歪める。
「ならば後生大事に抱えておけ。その気持ちが人質の価値を生む。ライズデルを守りたければこの私に従うしかないのだからな!」
触れぬことができぬギリギリの距離で見せ付けるように、傲岸不遜な哄笑を上げた。
「今宵失う娘達も、お前がいれば代わりなど幾らでも利く。領地に集められたギフトで識者の部隊を作り、我がギフトで統率すれば国を手にすることも夢ではない。私にとって価値あるギフトはこの箱ではなく、まさしくお前のことだ」
舐めるような口ぶりでリトの決意を嘲り、貴族服の裾を翻してガロンが身を回す。時間を取られたと不快の呟きを漏らし、改めて一歩が風船に向かった直後、
「ガァァァァァロォォォォォォンッ!!!」
赫怒で朱に染まる怒声を上げ、飛来する弾丸が少女の姿で向かってくる。
リトと揃いの拘束衣をはためかせ、二つ括りの三つ編みが滑空する体と平行になびく。眉を立て、眼光は触れれば切れそうなほど鋭い憤怒に彩られていた。
細長い棒状の武器を構えた少女を見て、咄嗟に鍵番隊の二名がガロンを守るように回り込み、少女の一振りで轟音を纏って屋上を転げる。鎧が石畳を叩いて回る音が甲高く響き渡り、刹那の出来事に身を竦めたガロンに少女が狙いを定め――
「墜ちろ、トルテ!」
起死回生の一撃を放つはずだったトルテの姿は、屋上が捉えられる視界から消え去った。
強張った顔で転落したトルテを見て、リトが膝をつきかける。それは鍵番隊の男が持つ鎖によって妨げられ、全身を震えさせることでしか悲しみを表現することができない。
無事を確認することができたトルテは、一瞬でその命を空に散らしてしまったのだ。
「ははっ……ぐはははは! ば、馬鹿な娘だ。地下牢で大人しくしていれば、もしかしたら助かったかもしれなかったというのに!」
目下最大の脅威を消し去り、死を悼むリトの前で両手を挙げて空を仰ぐ。
「風船が出た後、最も恐れるべきだった“空”が落ちた! これで我らは安泰だ! ここから逃走し、領地に帰った後で鉄の男を追い詰めてやる!」
禍々しく濁った眼がリトを振り返り、狂笑を漏らしながら手招きしてみせる。
希望を失った今、リトが素直に応じると、そう思っているのだろう。
「お断り」
これ以上、この男の片棒を担がされるのはご免だった。善悪も理解せず、漫然とギフトの開閉に協力していた罪深さに、もはやこの身は耐えられない。
「さよなら、大嫌い」
赤い唇を割って桃色の舌が覗いた瞬間、訝しげだったガロンが驚愕で盛大に顔を歪めた。
その表情で一太刀返したとし、リトは脳裏を駆け抜ける思い出の人々に別れを告げ、自らの歯で自身の命に幕を下ろそうとして――割り込んだ感触を噛み締める。
見れば、駆け寄った鍵番隊の一人が後ろからリトを抱え込み、左手の指を口内に押し込んで自害を妨害していた。そして耳元で小さく何か囁く。
「――え?」
口内に指を入れられたまま抱えられたリトを見て、ガロンが心底からの安堵に肩を落とす。
「お、驚かせおって……自害など、貴様に許されるものか……!」
ガロンは口汚く罵り、それから咄嗟の好判断でリトを救った男に労いの言葉をかけた。
「よくやった、鍵番隊。お前には戻り次第、相応の褒美を取らせる」
「――不要です、領主様。こちらで勝手に頂いて参りますから」
不遜な声が兜から届き、は? と口を開きかけたガロンの目の前で男が動く。
リトを抱えたまま一歩下がり、腰の後ろから武器を抜き出して、鎖を持つ鍵番隊に向けた。
鎖を持つのは鍵番隊のリーダーだ。その役職にあるだけあって、混乱の極みの状況でも向けられた武器に対して防御の構えを取ったのは流石だった。
その防御も空しく、爆発の衝撃に意識を消失したのは運がなかったということだ。
男の戦闘力を奪う威力は鎖を引き千切り、リトの身の束縛を腰に回された腕だけとする。
抱えられたまま身を背後に回され、リトを背に庇った男が構えた銃を残った鍵番隊の二人に向ける。その鎧の関節の継ぎ目を狙って射撃、爆発がくると身を縮こまらせた男達が苦鳴を上げて無力化する。
「な……何をやっている、貴様ァァァ!」
一瞬の間に孤立したガロンの絶叫、銃を構えた鎧兵が勿体ぶった動作で兜に手をかけ、
「奪われた大事なものを取り返しに、馳せ参じました」
外気に晒された赤茶の髪が風に揺れ、見慣れた面が精悍さを纏って現れた。
思わず、込み上げる感情のままに名前を呼ぶ。
「――カティ!」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「チェックメイトだ、ガロン。もう、お前に勝ち目はない」
左腕でリトを横抱きにし、右腕に握った銃で後ずさるガロンに照準を定めている。
鎧の籠手が重く疲労感があったが、鉱夫生活で鍛えた腕力の見せ所だ。
「カティ……」
再会から二度目の呼びかけに、今度こそ顔を向けて応じた。半日ほどの別れに過ぎなかったというのに、二度と会えぬ運命を退けたような万感の思いがあった。
「リト、君を迎えに来た」
途端、青の瞳に感情が溢れる。眦を潤ませる衝動に任せ、固い胸に少女が飛び込んできた。
嗚咽を耳に聞き、小刻みに震える背中に左手を当てて、赤子をあやすように優しく撫でる。
「もう、何も心配しなくていい。何も諦めなくても」
「ば、馬鹿な真似をしたものだな!」
感動の対面をしている最中、空気を読まない男の声が割り込んだ。
ガロンは焦りと狼狽を等分に表情を歪めながらも、勝ち誇った素振りで指を突きつける。
「貴様は私に銃口を突きつけた時点で撃つべきだった! 命令する、カティクライス! その銃で自害しろっ!」
状況を一気に盛り返す魔法の呪文が耳朶を震わせ、カティの脳内で意味を持つ言葉となってその意図を伝え、全身の細胞と神経がその指令を実行しようと――するはずもなかった。
一向に銃口を動かす様子のないカティにガロンは眼球が飛び出さんばかりに目を見開き、それから言い方を変えて二度、三度と命令を発する。
「舌を噛め! 飛び降りろ! 呼吸を止めろ! 自ら命を絶てぇぇぇぇ!」
「無駄だ。大前提からして間違ってる。冷静になって状況を見て、考えてみればわかる」
何を言っても届かぬ“命令”の不可解さに理不尽な怒りを湛えていた瞳が、手品の種に気づいて凝然と目を見張り、口がわなわなと言葉を失ってだらしなく開いた。
「ギフトを無力化するリトを僕が抱いている。予想通り、お前のギフトは届かない」
これは賭けの要因がややあった。リトに通じずとも自分には通じるかもという不安が。しかし、その不安要素も半日前の広場でのやり取りから勝算の方が高いと判断した。
「動けなくなった僕に触れようとしたリトをあんたは止めた。つまり、リトが触れるか触れてどうにかしてくれればギフトを解除できるってことだ」
胸に縋り付いているリトが言葉に頷く。リトは正しくこちらの意図を理解してくれた。飛び込んできたのは思い余ってだろうが。
「だから、あんたはチェックメイトなんだよ、領主様」
「何がチェックメイトだ。それはそっちも同じことだろう、平民!」
腕を振り下ろし、激情も露わにガロンが怒鳴る。
「平民が領主に逆らうのだ。これは反乱だぞ! 貴様一人に責が負えることではない。町の住人の全てを巻き込む大罪だ! ここで私を殺しても同じことだ。領主を殺害するなどということが漏れぬわけがない。貴様は帝都に狙われることになる!」
続く声の波を抑え、ガロンは諭すかのように首を振った。
「だが、今ここで我が臣下に下るなら全てを許そう。非礼は水に流し、その勇気に免じて相応の地位を。さすれば私にもお前にも損は何もない」
「これだけのことをした僕を許す、と? そんな言葉が信用できると思うのか」
「できるできないに関わらず、するしかないのが実情ではないのか。私と共倒れするのが望みかね。……君はそんな破滅願望の持ち主ではないだろう」
「確かにあんたと共倒れするつもりはない。でも、その言葉に従うつもりもないぞ……!」
青いな、と幾分の余裕を取り戻した様子のガロンが侮蔑の笑みを浮かべる。
「自分の要求を通したいから、どちらも選ばずに第三の選択肢を求める。若い内にはそれが正しいように思うかもしれんが、妥協というものを学ぶべきだぞ。どうせ、貴様もその娘の“鍵”の力に引き寄せられた身だろう。今なら命を拾い、恩恵に与ることもできる。互いに万々歳の損のない取引きだと思うが?」
あまりの言い分に、耐え切れず遂に感情が溢れ出していた。
堪え切れずに漏れたそれは最初は小さかったが、すぐに何なのかを全員が悟る。
――おかしくてたまらないと、カティが笑う声だ。
「何がおかしい?」
「いや、あなたは本当に自分の価値観に自信があるんだと思って。うん、あんたはそうだろうな。あんたは自分が価値あると思ったもの以外に価値があるとは思わないし、自分のできない考え方を理解することもできない」
こちらの言いたいことがわからないのか、ただ不快げに眉を寄せる顔に言い捨ててやる。
「リトの価値を箱を開ける鍵ぐらいにしか思ってない奴に、この気持ちは理解できない!」
眉を立て、怒りの形相でカティが吼える。
その咆哮に触れてガロンが絶句し、それから理解できないと後ずさった。
「貴様、ギフトではなく、その娘を欲するというのか? そんな、何もできず、何もできないままに生き、自分の意思すら持たなかった小娘を!」
「そうせざるを得ないように仕立て上げたのは、他でもないお前だろう!」
「その娘の危険さがなぜわからない! 異常なんだよ、その娘は! ギフトは世界を動かす、他の類を見ない超常に手を届かせる力だ。それを自由にし、あまつさえ無効化する? 馬鹿げている! そんな人間に自我など持たせてどうする。誰かが娘が暴走しないように管理する必要があるのだ! それを私がやって何が悪い!」
気圧されそうになる気迫を発し、唾の飛び交う距離で叫びの応酬。
「強がったところで、ギフトを得られるのなら得るだろうが! ギフトを欲しがらぬ人間なぞいるものか。識者であるだけで帝都では職に困らぬ。己の意思で世界の理の一部を改変する神に匹敵する力を得るのだ。欲したことがないなどと言わせんぞ!」
確かにギフトを欲したことはある。いや、そんな言葉では足りぬほどに欲し、求めた。
ギフトを自らのものにできたらと眠れぬ夜を過ごしたことは数え切れぬし、それを得る手段があるのなら形振り構わず縋っただろう。
「過去の僕なら、そう思っただろうな!」
だが、今は変わったと信じている。
「今は違う。ギフトなんてなくても、幸せを作る手段を僕は見つけていく。そして、できるならそれを一番に彼女に見せたい……いや、幸せにしたい」
腕に抱く少女は、この気持ちを誰よりも真摯に後押ししてくれた。
その事実だけで、あの眠れぬ千の日々が報われた思いだ。
「何で、あの知識の箱が贈り物って呼ばれてるのか、知ってるか?」
「――――」
答えを待たず、カティは自らの口で言い放った。
「贈り物は、貰った相手が幸せになるからだ。そしてそれがギフトなら、僕はもう貰った」
リトを抱く腕に力を込め、見上げた潤む瞳を見つめ返して、
「この温かな気持ちが僕が得たギフトだ。それはリト、君がくれたんだ」
「私……が?」
「誰もが無駄と馬鹿にしたことを、君は笑わなかった」
それから、真剣な表情を崩して苦笑。
「恩返しなんて言葉で本音を隠してたけど、本音はそうだ」
言葉の意味がわからぬと、首を傾げる姿も愛おしい。
歯の根が軋む音がし、正面に向けた視線の先でガロンが歯が欠けるほどの憤怒を弾けさせた。
「茶番だ! そんな、小娘に誑かされただけの話で! その娘に貰ったものがあるだと? その娘はな、誰でもよかったんだよ! 貴様でなくとも、外の世界で自分の身を守ってくれる存在であるならば、貴様でなくとも同じことをした。それでも幸いだと!?」
ライズデルの住人なら、誰であってもカティと同じようにリトを助けただろう。それは身を張って、領主に逆らった皆の心根から容易に想像できる。
そして、そんなことは何度となく考えたのだ。
「それでもか、小僧! 貴様でなくとも選ぶ娘に、命を懸ける価値があるのか!?」
「確かに、リトに選ぶ権利はなかった。たまたま僕があの場に居合わせただけだ」
不安を煽る言い出しに反応した青の双眸を安心させるように頷き返す。
「リトに選ぶ権利はなかった。――だが、僕は選んだ。あの場で、リトを選んだのは僕だ! 僕はこの子を幸せにする。その選択肢を選んだんだ!」
もはや何を言っても相容れないと、カティの宣言にガロンは悟ったようだ。
苛立たしさを視線に込め、軋む歯の根が運命を呪っている。
「譲らぬことは、腹立たしいが理解した。だが、ならばどうする。議論は振り出し……私を殺しても何の解決にもならないことが変わっていないぞ。私を殺したとて、ギフトの効力は失われぬ。娘達は復讐心を糧に、ありとあらゆる手段を用いて貴様を狙う」
「そうだろうな。だから僕の勝利条件は、あんたを殺すことじゃない」
その言葉で狙いに思い当たったらしく、胸元を押さえて、
「なるほど、識者殺しか……。確かにそれならば、私の行動と娘達の復讐を阻める。考えてみれば、それ以外の手段などないではないか。――だが、それはこういうことだろう?」
ガロンが強気に後ずさる。幾度かの移動でガロンの位置は風船の側に近づいていたが、カティは銃口を向けるばかりでその動きを止めることができない。
「精密射撃が行えるほどに銃には慣れていまい? 万が一、私が死ねば目論見は崩れるからな! ぐははは! つまり貴様は私に手出しできんと、そういうわけだろう!」
ガロンが大胆にも背を向け、風船に向かって走り出す。その背に銃口を向けるものの、やはり引き金は引けない。悔しいがガロンの言う通り、殺害を恐れて銃など撃てなかった。
「カティ! このままだと……ん」
焦燥感の叫びを胸に抱き締めることで中断し、立ち位置を変えて身を丸めた。
まるで衝撃の備えるかの体勢に、背を向けたガロンは気づかない。ただ、眼前に迫る危機から逃れる手段を目指して懸命に肥満体を揺らすだけだ。
そしてその風船に手を伸ばし、船体に触れる寸前に笑みが浮かぶ。
「――あ?」
世界の動きが急激に遅くなる錯覚にガロンが疑念の声を上げた。
スローモーションの世界では意思が早まり、発したと思われた声はまだ口も開けていない。
が、故にこそ船体を貫いて顔を出した鉄杭の破壊を瞬きもせずに観賞が許される。
横向きの風船の向こう側、中央塔の背後、絶壁であるはずの方角から破壊がもたらされた。
木造の船体は衝撃に耐え切れずにへし折れ、砕け、捲れて弾け飛ぶ。ど真ん中を衝き抜く衝撃の余波が鉄杭を中心に広がり、粉砕される風船が爆風で自らの最後を飾った。
「ぐわああああ!」
壮絶な破壊の余波に巻き込まれ、ガロンは全身に木片や石礫を浴びてもんどり打つ。露出した肌が破片によって傷付けられ、流血沙汰の憂き目に遭っていた。
痛みに呻き、血の流れる額を押さえて風船の成れの果てを見やったガロンが愕然とする。
破壊され、濛々と土煙の上がる屋上の縁に人影が立っている――栗色の三つ編みが揺れた。
「ば、馬鹿な……トルテ……お前は、転落して死んだはず……」
震える声で問いかけるガロンに胡乱な目を向け、トルテは自分の右耳を指で示す。
「何を言ってんのか聞こえねーけど、何で“命令”が効かないとかそういう感じだろ。カティに言われて嵌めてっけど、耳栓で正解だった」
耳栓は本来、カティがガロンと相対するために用意した切り札だった。
ガロンの“命令”は指令を声に乗せて飛ばし、聞いた人間がその行動に逆らえなくなるというものだ。でなければ、声に出して命令する理由がない。生き物相手にしか使用せず、無機物には通用しない点から逆算した。
「トルテにはリトを取り返すために気を惹き付ける役を任せた。止まり木の塔から中央塔の鎧部屋に向かって、僕が鍵番隊に変装して合流したのを見計らってここに。飛び込んできたトルテに咄嗟に“命令”するのは落ちろだと予想できたしね」
「た、他人の行動をそこまで先読みできるはずが……貴様は悪魔か……」
尻餅をついたまま後ずさり、ガロンが戦慄く瞼を開いてカティを見上げている。
背後には風船を粉砕した鉄棒を回収したトルテが立ち、正面にはリトを抱くカティが銃を構えたままだ。そして、さらにガロンにとって極めつけの事態。
「いよっと。……お? どうやらちょうどクライマックスに間に合ったみてぇだな」
中庭側の縁を乗り越え、黒ずくめの男が舞台に降り立ったのだ。縁には細い長大な鉄の棒が寄り掛かっており、反動で中庭に向かってゆっくり傾いて倒れていった。
「まさか、棒高跳びか……この高さを」
「下から鉄を伸ばしただけだ。便利なんだよ、お前らが思う以上に俺のギフトは」
あっけらかんと答えるグレンを見て、ガロンが起死回生とばかりに俊敏な動きを見せた。瞳を邪悪な喜びに輝かせ、グレンを指差し、
「鎧のガキを殴り倒し、我が軍門に下れ!」
“命令”のギフトによって、この場の戦力バランスが崩壊する一言を放った。
“命令”のギフトによって――ギフトの力があれば、その一言で状況が変わったはずだ。
「な? 便利だって言ったろ?」
そう言って口の端を吊り上げるグレンの手にギフトがある。たった今、鮮やかなほどの手口でガロンの胸元から奪い去ったギフトが。
「中庭に棒を倒したのはフェイクで、別の鉄に目立たないよう床を伝わせて、ガロンの胸元を開いて奪い取った……?」
「ご名答! いや、知略謀略こそが識者の本分だよなぁ。知恵の見せ所だぜ」
「この力技を知恵と呼ぶのか……?」
力の抜けた呆れの声が思わず漏れた。それほどまでに状況はこちらに有利――ガロンは無力化され、ギフトはこちらの手の中にある。完全勝利だ。
指でギフトを弄ぶグレンも表情は余裕で、睨むような視線を自分に向けるトルテを見た。
「にしても、あの飛行少女まで味方につけたのか。つくづく、おっかねぇなお前」
「利害の一致があったんだよ。……トルテが気にしてるんだけど、愛娘達はどうした?」
「ああ、トルテってのね、あの子。愛娘達なら言いつけ通りにしてる。っつーか、愛娘達以外の連中も全員。無力化して鉄の拘束をかけてある」
「鉄の拘束……?」
「お嬢ちゃん方が着てる拘束衣を鉄で真似た。単純に鉄が破壊できなきゃ解けねぇ。“風”やら“翼”じゃ残念ながら火力不足だな」
もっとも、と前置きしてトルテに笑みを向け、
「そっちの飛行少女の“空”なら楽々破壊できたろうけどよ」
「はっ。たりめーだ。あたしが本気なら、お前なんか楽々粉砕だっての」
ガロンのギフトを奪ったのを見て、耳栓を外していたトルテが悪態をついた。そして、もはや万策尽きたと項垂れるガロンに視線を送る。
「なあ。そのギフト壊すの、あたしにやらしてくんねーか」
躊躇いがちな要求はトルテにしてみれば悲願だろう。問うようなグレンの視線を受け、カティは許可を得るためにリトに意識を向ける。ガロンに対する遺恨という意味ではトルテと等しいほどにリトにもあるはずだ。
「リト、いいかい?」
「ん、トルテに任せる。……わたしは、もう十分」
胸に当てられた手に力が込められたのが鎧越しとはいえこそばゆい。その様子にグレンは肩を竦め、それからトルテにギフトを渡そうと足を踏み出し――
「――っ!」
突如、屋上を――否、鳥篭全体を襲った激震に全員の体勢が崩れる。
トルテは鉄の棒で、グレンは自ら足を踏ん張ることで身を支えた。もともと床に座っていたガロンは左肩から倒れて転がり、カティはリトを抱き締めて震動に耐え、声を聞いた。
「……お父様から離れて――くたばりやがれええええええですうううううう!」
夜の空に舞い上がったキルマが、その周囲に浮遊させた無数の白い羽に命じる。
夜空の星と見紛うほどの弾数が発射され、鋭い殺意が鳥篭の屋上を滅多刺しにした。
激昂しつつもガロンだけは狙いから外し、凶刃たる羽が四人を目指す。トルテが驚愕と悔恨に瞳を染めながらも迎撃に“空”に上がり、グレンが周囲にある“鉄”を盾か壁に変形させて自分の身を守る。同時に鉄の壁はカティとリトの前にも展開されようとしたが、一歩遅い。
鎧を打つ連続した衝撃は一つ一つは軽いが、雨のような量でぶつけられれば話は別だ。咄嗟にリトを抱き込んで羽から守るも、殺しきれない威力に身が浮き上がり、屋上の端へと追いやられる。そのまま押されれば鉱山の中腹辺りの岩肌までまっさかさまだ。
「うがああああああ!」
絶叫も空しく体は後退させられ、限界の位置にまで運ばれる。ここまできて――
「ごめんね、カティ」
その響きはすでに聞き覚えがあった。
思い当たるより前に、腕の中のリトが細腕で想像できぬ力強さでカティの鎧を突き飛ばした。当然、反動で突き飛ばしたリトは背後に――
「リトォォォォォォォォォォォォォ!」




