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最後にリトがカティの家に寄ったのは、自分の中の躊躇いを断ち切るためだった。
「逃げたら承知しませんですよ? 追っかけて追跡して、痛い痛い目に遭わせるです」
扉の外に待つキルマはそう警告を残し、無邪気な瞳を酷薄な感情に濁らせていた。ガロンが許可したとはいえ、その理由に納得がいっていないのが見え見えだ。最初はリトの提案に不快さを露わにしたガロンも、提案の真意に気づくと野卑な笑みで許可を出した。
「それでボクらの健闘も空しく、君は行くことを選ぶんだね」
窓際で体を丸めていたノワールが、尻尾を揺らしながら不満げに呟いた。カティが広場に現れるのと同時に姿を消していたが、成り行きをどこかで見ていたのだろう。
「わからないねぇ。他人の命と天秤に掛けて量り負けるほど、自分の命は軽いのかな」
どうだろうか、黒猫の問いは難解だ。ただ、少なくとも自分に良くしてくれた人々の命と、自分の我が儘を天秤に掛けて優先できるほどリトは自分本位でいられなかった。
「楽しい思いはたくさんしたよ。だから、胸がいっぱい」
「ボクの恩返しはともかく、カティクライスの恩返しはまだじゃないかな?」
「いっぱい、貰った。貰いすぎたくらい。だから、カティの恩返しもお終い」
顔を洗う猫の横を通り過ぎ、目的の場所に到達。引き出したそれを目の前に広げ、リトは小さく唇を噛んだ。洗濯と修繕を終えたその服を、カティは隠すように仕舞いこんでいた。
「ノワールは喋れるようになったこと、カティに言わないの?」
「喋れるようにしてくれた張本人は流石に気になる? まあ、別に言わないのも気まぐれだから、言うか言わないかは気まぐれだね」
「猫っぽいね」
「そりゃ、多少は変化したけど本物だから」
ノワールが皮肉げに言うのと、リトがその服に袖を通し終わるのは同時だった。少し窮屈だが袖の余る灰色の拘束衣――取りに戻ると言った時のガロンの笑みが思い出される。
自分に屈服したと思っているだろうが、これはけじめだ。リトにとって、この町を諦めるために必要な、自分が篭の中の鳥であることを思い出すための。
「ノワール、カティと仲良くね」
「猫の楽観視かもしれないけど、全部大丈夫だと思うよ」
ノワールの返事を肯定を受け止めて、リトは微笑を残して扉に手を掛けた。
そうして消えていく背中を見送って、黒猫は次の成り行きを見るために窓を開ける。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
体が動くようになり、声が出るようになるまで半時もの時間がかかった。
一番最初にしたのは宿場に向かうことで、そこで負傷したドイネルや鉱夫達が心底自身を恥じるように頭を下げた。手当てをしていたナリアも同じように。
彼らの無事を確認して安堵するのと共に、目の前で交わされた契約が履行されているということに激しい焦燥感を得て、次に向かったのは自宅だ。そして朝と変わりがないように見える自宅の中で唯一変化の起きた洋服棚を確認して、今度は命令なしで膝を着いた。
茫然自失と言うべきか。言葉は出てこず、かといって自分の感情の置き場にも困る。悲しんでいるのか、怒っているのかさえわからず、心は空虚で乾いた風が吹き抜けるようだ。
「――カティ」
どれほど時間が過ぎただろうか。立ち上がる気力もない背中に声が掛けられ、その後に温かく柔らかい感触に後ろから抱きしめられた。
泉に置き去りにしたリディアが今、カティを慈しむように包み込んでいる。
「悲しまないで、カティ。リトちゃんはいないけど、私がいるから。これからは私、もっともっと愛してあげる。リトちゃんがいなくても寂しくないようにこれまで以上に」
その言葉は傷つき、空洞と化した胸に優しく浸透し、染み込んでくる。掛け値なしの愛情を向けられ、憔悴した心はその労わりを歓迎するように喝采を挙げていた。
だが、縋り付こうとする心の表層と正反対に、心の深い部分が絶叫を上げていた。
――このままでいいのか、と。
彼女が灰色の拘束衣を持ち去ったのは決別の証明だ。鳥篭で過ごしていた姿形になることで、町で得た生活の全てを通り過ぎただけの夢にしようとしている。
「ね、カティ? だからこれまでみたいに、ずっと私と――」
「まだだ」
呟き、え? と理解できぬものを見たような吐息を聴きながら立ち上がった。
振り返り、尻餅をついたような姿勢でいるリディアを見下ろす。その視線に泉の時と同じ拒絶を見たように、リディアはいやいやと首を振った。
「もう、駄目よ。だって、領主に……ガロンに連れて行かれたのよ? 出てこれっこない。行ったって会えっこない! 今回は気まぐれで見逃したけど、次はないわ! まだ邪魔をするようなら、今度こそ殺されちゃう!」
「そうだろうね。きっと今度は虫けらみたいに殺される」
「それがわかってるならどうして! もう無理なの、駄目なの! 行ったら殺される。お願いだから行かないで……カティがいなくなったら、私、駄目……耐えられない……」
流れる涙を拭うこともなく、リディアは足元に縋り付く。その悲痛な叫びと、悲嘆に暮れる姿は共に過ごした時間を刃とし、カティの心を酷く傷つけ抉っていく。
が、カティはそれを捻じ伏せるように奥歯を噛み締めた。
「服を買う約束をしたんだ。リトにはきっと白い服が似合う。意表をついて黒もいいけど、白い方が金色の髪も青い瞳も映えると思うんだ」
「……カティ?」
「ご飯は美味しいし、仕事は大変だけどやりがいがあって、宿場に来る連中は下品で馬鹿ばっかりだけど楽しい。毎日、代わり映えのないようで違う一日が始まって、話し相手が鳥だけなんて寂しいことは絶対にない」
言葉が進むにつれて感情が溢れた。それは置き場を失っていた悲しみであり、矛先を見失っていた怒りだ。
「リトが望んだのはそんな他愛ないことだ。そんな自由を選ぶ権利もリトにはなかった。だから僕は、リトの望みを叶えてあげたい」
「お、恩返しのために……? そのために、死にに行くの……?」
ノワールを救われ、彼女を自宅に匿うことを決めてから、ずっとそう言い訳してきた。聞こえがよかったからか……違う。本心を隠すためだった。
「そんな言い訳のおためごかしに命は懸けられない。僕は僕の気持ちがそうしろと決めたように、その気持ちに命を懸けて行く」
そしてカティは、項垂れるリディアに向かって言った。
「僕はリディアさんが望むように、変わらずに生きることはできない」
リディアの懇願を真っ向から拒絶し、愕然と見開かれる目を真っ向から見返す。
「人は変わりながら生きる。変わらないというのは死んだのと同じだ。生きてる限り、歩くことをやめることは許されない。だから僕は歩き続ける」
「でも、私は嫌なの……私のカティでいてほしい。もういなくならないでほしい。私は……」
「僕に限ったことじゃない。それは誰でも同じ、リディアさんも同じだ。変わらずには生きられない。こう言っちゃなんだけど、リディアさんだって子供の頃とは違う。背は伸びたし、体は女の人らしくなったし、ますます優しくなった」
月日は流れ、リディアは女性として成長した。外見だけでなく、内面も変わっていく。昔はカティを引っ張っていた腕で、今は優しく抱きしめるのだ。
拭う手の甲を涙に濡らし、リディアはそれでも納得しないと首を横に振り続ける。
「確かに変わったものもあるけれど、でも絶対に変わらないものだってある。私の心は……心だけは絶対に変わらないわ」
「違う、心さえ変わる」
リディアの瞳に絶望の兆しが差す。それより早く、カティは絶望を叩き潰しに言葉を続けた。
「僕はリディアさんが大事だ。その心は子供の頃からずっと変わらない。でも、その気持ちを得たのは出会ってすぐじゃない。出会ってすぐは僕はリディアさんのことを嫌っていた。面倒な子だと思っていた。でも、大事になった。同じように親方を、ナリアさんを、仕事の仲間達やノワールも大事になっていった。そして、リトも大事だ」
顔を背けられないよう、自らの意思で跪いて目線を合わせた。瞳から流れる涙は止まることを知らず、そっと指先でその涙の線に触れる。
「心は変わってゆくよ。大事な思いは増えていく。リディアさんだって、リトを大事に思ってくれていたはずだ」
「……違うわ。だって私、あの子が邪魔だって、思ったから……あの子がカティを取っていきそうだったから……私、ガロンにあの子を売った……」
「でも、泉で罪悪感に押し潰されていたのも確かだ。馬鹿だね、リディアさん。自分の分も弁えないで、慣れないことをするもんじゃないよ」
リディアとリトの関係には親愛があった。傍目にも一緒に働く二人は世話を焼く姉と焼かれる妹そのものであったし、リトに服を見繕う時も真剣に楽しんでやっていた。馬鹿正直なドイネルと、優しく包容力のあるナリアの娘なのだ。無理をしていたに決まっている。
零れる涙を拭って立ち上がり、カティは手を差し伸べた。リディアは目の前に差し出された手を見つめ、戸惑うように瞳を揺らめかせる。
「変わっていこう、リディアさん。不安なら一緒に。例え心に大事にする人が増えていったとしても、僕がリディアさんを大事に思ってることは変わらないから」
最後に一滴、リディアの眦に涙が浮かんだが、それを自らの手で拭って顔を上げる。それから震える唇を動かして、たどたどしく言葉を作った。
「……リトちゃんと一緒でも、私のことを大事に思ってくれる?」
「当然。というか、一人を大事にしたら他の人を蔑ろにするような男に育てたの?」
「――カティは、最高の弟に育てたわよ」
そこだけは譲れないというように言い切って、差し伸べた手を握った。が、力を入れて立ち上がらせようとする前に、リディアはお願いと上目で呟く。
「……今の言葉を信じさせてくれる証が欲しい」
その願いにカティは目を瞑り、数秒悩んでから答えを出した。それは子供時代に何度も、そして今でも年に一度は必ず求められ、恥ずかしさから応じなかった願い。
「一緒に、変わりながら生きていこう――姉さん」
頷きとともに、握り合った手にぐっと力を込めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
リディアと手を繋いだまま自宅を出て、カティは捜す手間が省けたと吐息を漏らした。
「よお。お嬢ちゃんは攫われて、長年の姉代わりの人に鞍替えか? 最近の若い奴ってのはとっかえひっかえと、時代の流れについていけねぇよ、俺」
「姉さんは僕にとってずっと姉さんだ。笑えないジョークは聞き流すけど、あんたは今まで一体何をやってたんだ」
問いを向けられ、家の壁に背を預けていたグレンは肩を竦めてこちらを見る。
「俺か? 俺は宿場の連中の手当てとか手伝ってた。お前が来た時もいたんだが、あの時のお前は周りに全然目がいってなかったから気づかねぇよな」
「そんなこと聞いてるんじゃない。リトが連れて行かれて困るのはあんたも一緒だろ。なのに何で戦いもせずに馬鹿みたいに見送ってるんだ」
「頼りにされてたみてぇなとこ悪ぃんだが、実は依頼主が先に潰されちまってな。あのお嬢ちゃんを争奪する理由がなくなっちまったんだわ。請負人殺すにゃ刃物はいらぬ、依頼主ちょこっと消せばいい~ってな」
茶化す軽口を気取っているが、内心は不愉快の極みのようだ。仕事に誇りを持っているグレンの身からすれば、その失態は耐え難いほどに心を焦がしているだろう。
だからこそ、彼はこの場所にやってきたに違いない。それをカティは理解していたし、向こうも理解しているはずだ。
「へえ、なるほど。そりゃ大変な失態をしたもんだね。請負人の名が泣くんじゃないか?」
「ああ、ぐうの音も出やしねぇ。完全無欠に俺のミスだ。雇用主も消えちまったんじゃこの町にいる意味もねぇ。この敗北感を抱えたまま、負け犬気分で去らなきゃいけねぇのかぁ」
グレンはこの世の終わりと空を仰ぎ、その場に座り込んで掌で顔を覆う。そして指の隙間からカティを見上げ、わざとらしく呟いた。
「あぁ、誰か気前のいい雇い主が現れねぇもんかな。しかもそいつが、俺のこの敗北感を一掃するチャンスをくれるような仕事をくれると最高だ」
「確かに汚名返上の機会をくれる人間こそ、今のあんたには最高の依頼主だろうね」
「最高だ。そんな依頼主が現れるなら、俺は信じてなかった神に感謝してもいい」
「そうかい。ところで、僕はそんな依頼主にちょいと心当たりがあるんだけど」
自身でもわざとらしいと感じる言葉に、グレンはオーバーリアクションに驚き、それからバネ仕掛けの人形のように飛び上がると詰め寄ってくる。
「おいおいおい、そんな最高の依頼主に心当たりがあるなんて、お前は俺の神様か! さあ、それで、一体、その依頼主ってのぁどこにいやがるんだ?」
その場でくるくると回り、大根役者の演技で尋ねるグレンに胸を張った。そして立てた親指で力強く、自分の胸を示して、
「僕だ」
この時ばかりはどんな人間もたじろぐほどに、誇り高くカティは笑った。
グレンは軽く目を見張って、不足はないと言わんばかりに皮肉な笑みを浮かべる。
「おおっと、こいつぁ新しい依頼主候補様にご無礼な口を利きまして。こちら請負人のグレン=マグダウェル。宅配に人捜し、破壊工作から要人警護まで何でもござれだ。それで、お客様は何をお望みで?」
「僕を浮遊城『鳥篭』へ。できればその後はリトという名前の少女の奪還を手伝ってほしい」
「お言葉ですがお客様。俺に任せていただければ、単独でやって参りますが?」
「それで僕は僕の大事な人をあなたが連れてくるまで、自宅で茶でも飲みながら暢気に待っていろと? 御免被る。これは僕が中心にやるべきことだ」
左様で、とグレンは満足げに頷き、
「では、報酬の話といこう。言っておくが、俺は高いぜ?」
「働きに見合うだけの報酬は必ず、何に代えても用意する。言い値で構わない」
「太っ腹……というより、男じゃねぇか。……さて、とすると」
どうするか、と顎に手を当てるグレンの前に、それまで黙っていたリディアが歩み出た。真剣な面持ちで前に出たリディアは、動こうとするカティの唇に指を当て、ウィンクする。
「請負人さん。その報酬、私が支払います」
「ほお。それはまたどうして?」
「今回のことは、全て私の責任だから。そしてその責の全てを弟に預けて、平然としていられるようではこの子の姉と名乗れない」
堂々たる物言いに、グレンは驚いたというように口を開けて、
「こりゃまた……一気にいい女になったもんだ」
言って、それから品定めするような視線をリディアの全身に向ける。リディアはその視線を一身に浴びながら怯むどころか、胸を張って背筋を伸ばし泰然と佇んだ。
「報酬は、お姉さんが払うんだな? 男の要求に応えるのがどんなことがわかってて」
「ええ、もちろん」
流石に口出ししかけるカティだが、リディアがその動きを制して交渉に臨む。カティがリディアの背の横からグレンを見ると、グレンは鼻を鳴らして吹っ切れたように言った。
「おそらく、この仕事が終わったら俺は疲れ果ててるだろう。それだけの大仕事だ。疲労困憊の満身創痍状態に違いねぇ」
「はい」
「だから戻ってきたら気持ちよく休むために、お姉さんの膝を貸せ。俺の報酬はそれでいい」
リディア共々、唖然とした顔をしたのが面白かったのか。グレンはにやりと口の端を吊り上げて、鮫のように獰猛に笑って言った。
「な? 俺は高ぇって言ったろ?」
「ああ、法外だ」
獰猛な笑みに精一杯応えるため、カティは歯を剥いて白い歯を覗かせた。
何せ、今までリディアの膝はカティの専用席だったのだから。