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ギフト  作者: 鼠色猫/長月達平
空色の騎士
10/18

4-1


 朝食時の宿場には朝日を浴び、昨晩の酒気をリセットした鉱夫達の笑声が満ちていた。


 鉱山火災から七日が過ぎ、山火事の大よそは鎮火し終わったと連絡が入っている。しかし、事後調査やらの問題がまだらしく、完全開放は明日以降になるとの話だ。


「なあ、頭ぁ。今朝はまたずいぶんと真剣な顔でカティと話してたけどよ、何話してたん?」


 フォークを咥えた鉱夫の台詞に、朝食を載せた盆を運んでいたドイネルが足を止める。振り返った表情は思案げだが、僅かに上機嫌の兆しが緩む口元などから見えていた。


「なんでいなんでい、気色悪ぃな今朝の頭は。に~やに~やに~やに~やしやがって」


「何ぞ、楽しいことでもあったのかよ」


「悪い悪い。いやな、ここだけの話、ちょっと楽しいことがあったんだ」


 笑みをもって答えるドイネルに仲間達が怪訝な顔になる。その訝しげな視線を一身に受けたドイネルは宿場内を見渡して、ちょこちょこと動き回っている影に声を掛けた。


「おーい、リトちゃん。ちょっといいか」


「ん。何ですか、頭ぁ」


 語尾を延ばす呼び方は鉱夫の呼び方を真似たものか、それとも面白がって誰かが教えたのか。全力で顔を背けた鉱夫の一人を後で怒鳴りつけることを内心で決めて腰を折る。


「悪いんだが、厨房の方を手伝ってきてくれねえか。今朝はリディアがいねえから、家の母さん一人じゃてんてこ舞いになるかもしんなくてよ」


「ん、わかった。違う、わかりました」


 自分で訂正し、お辞儀の後に少女は厨房に向かっていく。その背に惜しむような鉱夫達の声がかかったが、姿が完全に厨房の中に消えると練習したようなタイミングで静まり返った。

 沈黙を守り、真剣な表情になった各々の態度を見て、心地よく苦笑を浮かべる。


「あーあー、そうしゃちほこばんなって」


「でも、リトちゃんに聞かせたくねえから行かせたわけだろ?」


「こういう時に限って察しがいいよなぁ、お前らは」


 頭を掻く仕草をして、線になっていた目が真摯な輝きを帯びて全員を見渡す。そして、周囲を憚るような低い声を発した。


「ここしばらく、ガロンの城が近くに常駐してんのは知ってるな。表向きは鉱山火災の処理が終わるまではって話だが、正直信用ならねえ」


「奴は鉱山……俺らの仕事なんて重要視しちゃいない。火事の件だっていつもなら適当に部下に任せて、自分は帝都の近くに帰ってるはずだ。変だとはみんな思ってたさ」


 一人の鉱夫の言葉に全員が顔を見合わせて頷く。


「もっと変なのは頻繁に来る視察だ。私兵だけじゃなく愛娘達(ドーターズ)の連中まで。頭があんまり毅然と追っ払うんで、俺達も気分がいいやって話してたんだよ」


「何せ後ろ暗いとこがねえからな。探られて痛くねえ腹を探ろうってんだ。こっちもさあ勝手にしやがれって開き直りもすらぁ。……まあ、今後はそうもいかねえかもしれねえがな」


 ドイネルの声のトーンが落ちたことで、鉱夫達の間に緊張が走る。彼らが話の続きをと無言の促すのを感じ、ドイネルはゆっくりと自らにも確認させるように言葉を作った。


「私兵、愛娘達(ドーターズ)の奴らがやって来て言うのはいつも判子押したみてえに同じことだ。何か最近変わったことがないか。見かけない人間はいないか。何か妙だと感じたことがあればすぐにでも城に報告しろ。――隠してるみたいだが、何か探してるのは確実だな」


 駆け引きのカの字も知らぬようなやり取りだ。特に愛娘達(ドーターズ)の面々はその手の方面の知識が足りないらしく、忍耐力も低いからどうにでもあしらうことができる。


「で、頭。連中の探し物ってのに心当たりがあんのかよ」


「ああ、ある。というより、カティに教えられた。さっきの話はそれだ」


 今朝方、普段よりずっと早い時間にやってきたカティは内密に話があると言ってきた。茶化す雰囲気でもなく腹を割って話し合った結果、聞かされた話に驚きは隠せない。


「連中が追ってるのはリトちゃんだそうだ。鳥篭から逃げ出したリトちゃんを血眼になって捜してるんだと」


「リトちゃんが追われてる……どういうことだ?」


「何でもリトちゃんはどこかから攫われて鳥篭にずっと閉じ込められてたらしい。大方、愛娘達(ドーターズ)にでも加えるつもりが、お得意の洗脳がうまくいかなかったんじゃねえか」


 ガロンに対する愛娘達(ドーターズ)の狂信的なまでの思慕を洗脳を揶揄して吐き捨てる。


「ここしばらくの連中の不審な動きはそういう理由らしい。カティはそう言っていた」


「信じられない話……ってわけでもない。少女趣味の野郎からすれば、リトちゃんの容姿は生唾もんだろうし」


「なるほどな。でもよ、そんな気に入らない話なのに、頭の機嫌がいいのはどういうこった?」


 納得の頷きに続くのは疑問の反応だ。全員が同じ疑問符を脳裏に描くと、ドイネルは見計らったように豪放に笑い声を上げた。


「これが笑わずにいられるか。カティの野郎は俺にその話をした後で、申し訳なさそうに、殊勝な態度で頭を下げたんだ。迷惑かもしれないが、リトを守るのを手伝ってほしい。町全体で協力すれば、リトを守れるかもしれないから。だと!」


 髭面を全開の笑みの形にして、ドイネルは歓喜に喉を震わせる。鉱夫の面々、特に若い年代の連中はその笑みの意味がわかっていないようだが、ドイネルと同年代の中年に差し掛かった男達もまた、ドイネルと同じような笑みで口元が緩んでいた。


「わからねえか。あのカティクラウスがだぞ! あの何でもかんでも自分一人で解決しようとして意地張って、大人の施しも受けようとしない可愛げの足りないクソ生意気なガキが、普段なら絶対に頭なんて下げねえ意固地なガキが、女の子助けてえからって頭下げたんだ」


 言葉を切り、余韻を持たせながら全員を見渡し、


「可愛いじゃねえかよ」


 ドイネルの言葉にようやく若い衆も交えた全員に納得が広がる。一様に浮かべたのは笑顔で、満面のものから苦笑のものまで取り揃えた数多の感情だった。


「カティが町に着てから八年あまり。ゼフィル爺さんの孫は爺さんが死んでも、最低限しか俺らを頼らない意地っ張りだった。そいつが自分だけじゃどうにもならねえと、俺に頭を下げてきやがったんだ。大人として、男として、聞いてやらねえわけにはいかねえだろ」


 そうだそうだ、と同意の声があちこちで上がり、ドイネルは満足の意を得る。


「だから俺はカティの共犯者にもならぁ。頼みごとを抜きにしたって、リトちゃんはいい子だ。誰があんな少女趣味の変態に、大事な看板娘を渡すもんかい!」


「それでこそだぜ、頭! 俺達の日々の憩いを奪われてたまるか!」


「おおよ、乗ったぜ。白を切るのは得意なんだ。給金が飲み代に消えた時の白とかな!」


 威勢のいい男達の喝采が宿場中に広がり、気持ちいいほどの一体感が全員を結束させる。

 リトが宿場で働いてまだ五日、町にきて約一週間程度しか経っていない。たったそれだけの期間にも関わらず、彼らは追われる少女を守ることを決断する。自分達の仲間であるカティが彼女を守りたいと頼み、そして彼ら自身もリトを町の仲間だと認めたが故に。


「と、はしゃぎすぎたが、このことはリトちゃんには内緒だ。あの子に気を遣わせちゃいけねえからな。顔に出やすいんだから気をつけろよ」


「頭に言われちゃ形無しだ。リトちゃんを困らせるなんて馬鹿な真似すぎてできるもんかい」


 男の言葉が全員の総意だった。それから口裏合わせの相談に入り、領主絡みの連中に白を切る算段をつけたあたりで、ふと気づいたように誰かが言った。


「そういや、肝心のカティはどうした?」


「今朝はリディアちゃんの姿も見えないな。二人揃って、どっか行ったのか?」


 問いかけにドイネルは苦笑を刻んだ。今朝の愛娘の我が儘を思い出してのことだ。


「今朝、話の後でリディアが我が儘言ってな。カティを連れて、森の側の泉に行ってる。小さい頃は二人でよく遊んでた場所だな」


「あー、あの小さい泉か。しかしまた、なんで急に」


「リディアはカティにべったりだったからな。そのカティが最近、リトちゃんにぞっこんなもんだから拗ねたみたいだ。構って欲しかったみてえだな」


 渋るカティをごり押しし、ほとんど引きずるように連れ出した今朝の様子が脳裏に浮かぶ。弟分の相手を見定めるのにも一際気を遣っていたリディアだ。二人揃って出かけた泉で話し合って、何らかの結論に達して戻ってくるだろう。


「しかし、そうなると美少女二人はカティの独占か。はてさて、損な役回りだね」


「まったく、ちょっといい男すぎるな俺らは」


 誰かの掛け合いに笑い声が重なり、それぞれが思い出したように食事を再開した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「まったく、男達は本当に馬鹿ね」


 厨房の扉を横目で睨みつけ、赤毛の女性が呆れたような溜息を零した。

 右手に包丁、左手に皮を剥いている最中の芋を持つ女性はナリア=ズスカ。宿場の主であるドイネルの妻にして、リディアの母親だ。


 さして広くない厨房の中、手馴れた動きで野菜の皮を剥きながら、ナリアは隣で包丁片手に動きを止めている少女を見る。

 リトもまた同じように厨房の扉を見つめ、言葉もなく立ち尽くしているのだった。


「あの人達の意を汲んで、聞かなかったことにしてやってくれないかしらね」


 話しかけられてようやく思い出したように焦点が合い、リトは無言のままナリアを見る。その瞳が処理しきれぬ感情に揺れているのを見て、ナリアは小さく息を詰めた。


 ナリアもまた、ドイネルと同じようにリトについてカティから聞かされていた。彼女は長らくガロンの城に閉じ込められ、人としての生活を送れていなかったのだという。


 ――それじゃあ、今の状況に戸惑うのも当たり前かもしれないわね。


 優しさに慣れていない少女を安心させるように微笑み、両手を空にしてリトの肩を叩いた。


「リトさん。戸惑ってるかもしれないけど、あの人達のことは気にしないでやって。正直、自分に酔ってるとこが少なからずあるから」


「ん、でも気になる。それにわたし、みんなが優しくしてくれる理由が……」


「“わからない”なら許すわ。でも“ない”というのは許さない。私はあまり可愛い子の頬を叩くのは趣味じゃないから、そうさせないで」


 ん、と喉を鳴らして黙り込むリトは眉を八の字にして、


「わからない」


「そうね。でも、わからないのは悪いことじゃない。わからないことはいずれわかるようになればいいと思うわ。今の話はすぐにわからなきゃいけないようなことじゃないしね」


 やっぱりわからない、と顔を俯けるリト。それを見るナリアの表情には母性による微笑。


「それまでは、そう。家の人が言ってたみたいに、看板娘を取られたくないと思ってるからぐらいに思ってて。リトさんが来てからお客が次々増えてるし」


「でも、お皿割るからあんまりだってカティが」


「カティ君の頬を後で叩いておくわ。それに慣れればお皿も割らなくなる。将来的な思惑では集客率が上回るわ。長期的な目で働けなきゃ、鉱夫なんか穴掘るところから始まるのよ」


 肩を揺らして小さく笑い、ナリアは線にした目で俯くリトを見る。


 リトが手伝うようになってから仕事の回転が良くなったのは事実だ。本来なら朝食や昼食などの食事時に外せぬリディアの外出を許せたのも、リトの存在があってのこと。

 働き、報酬を得て誰かの役に立つ。ドイネルが労働の喜びと呼ぶそれを、リトはわかる子だ。

 仕事や生活を楽しんでいることは見取ることができる。となれば戸惑いは人と接した経験の少なさからくるものだろう。


「リトさんはゆっくり学んでいけばいい。今のところはそう……お節介焼きがたくさんいるって、単純に思っていてくれたらいいわ」


「単純」


「そ、単細胞揃いなの。扱いが楽でいいけど。……複雑で困るのはむしろ家の娘ね」


「リディアが?」


 夫は単純で娘は複雑と、間に挟まれたナリアは厄介ねと苦笑する。

 疑問を視線に乗せて問いかけてくるリトを前に、ナリアは不意に自らの腹を撫でた。その手つきは優しく、愛しいものに触れるような動作で。


「リディアには本当は弟がいるはずだったの。あの子は自分に弟ができるのを楽しみにしてたんだけど、ちょっとした事故でその子が生まれなくなってしまった。リディアは酷いショックを受けて、でもそれから立ち直らせてくれたのがカティ君だったのよ」


 八年も前になるだろうか。今は十分大きくなったリディアもまだまだ子供で、今も小さいカティはさらに背丈が小さかった。カティの祖父であるゼフィルの家にやってきた当初のカティは非常に無愛想で、ゼフィル以外に心を決して開こうとしなかった。その心を開いたのは、何度拒絶されても諦めずにカティに歩み寄っていったリディアの功績だ。


「カティ君は町のみんなに受け入れられて、リディアも弟を失った悲しみを乗り越えた。そう思ってたんだけど……」


「違うの?」


「私達、大人の想像よりリディアの悲しみの根は深かったのね。弟を失った後、新たに弟として可愛がるようになったカティ君をあの子は献身的に守ろうとする。だから私は、リトさんがリディアとうまくやっていけるか心配してるの」


 普段は温厚で理知的な自慢の娘だが、事にカティが絡むと我を忘れることがある。生まれてくる前の弟を失ったというトラウマが、弟を失う可能性に対する強い拒絶を示すのだ。

 リディアはカティを心底可愛がる。だが、リディアが可愛がりたいのは弟としてのカティらしく、カティが自立して自分の庇護を去ろうとするのが耐え難いらしい。


 ゼフィルの死後、同居を断ったカティを最後まで説得していたのもリディアなら、黒猫を拾った際に激怒したのもリディアだ。そして、今回は独断で少女を居候させている。


「もしかしたら、リディアは感情に任せてリトさんに酷いことを言うかもしれない。でも、虫のいい話だけど、あの子を嫌わないであげてほしいの」


 本当に自慢の娘だ。リトとだって、仕事に集中している時には仲睦まじく笑い合っている。ほんの少しだけ、魔が差す時があるというだけなのだ。


「ん、大丈夫。わたし、リディアのこと好きだから」


 ナリアの懇願に対し、リトは悩む素振りも見せずに即答してくれた。

 そう、と安堵の吐息を漏らすナリアに対し、リトは微笑んでから野菜の皮剥きを再開。慣れない作業に悪戦苦闘しながら、やや身が勿体ない厚みで皮を剥き始めている。


 その不器用な作業を目にしながら、ナリアは娘を見るような慈しむ視線をリトに向けている。

 この子もまた本当にいい子だ。夫の威勢に引きずられるでなく、ナリアもまたリトのことを守ってあげたいと本心から思う。


 今朝は話し合う余裕もなく出ていってしまった娘に、今のことを告げてしっかりと話し合おう。リディアが帰ったらその話をして、そして明日からは気持ちよく店を開けられる。

 そんな幸せな未来像を描いたナリアはふと、厨房の外の騒がしさに気づいた。


「何の音、かしら?」


 ――崩壊の音だ。


 男達の怒気を孕んだ叫びが聞こえ、続くように鈍い打撃音が響き渡った。

 決断がすでに遅かったことを知らせる、非業の音が聞こえてくる。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 町の真北に位置するライズデル鉱山の対角、町を出て半時も歩くと小さな泉がある。


 町の真南にある小規模の森、その中に泉を中心にぽっかりと空いた広場だ。

 列車の本数少なく、最寄の町とさえかなりの距離があるライズデルには子供の娯楽がほとんどない。そんな子供達の数少ない娯楽が、町から程近いこの自然の遊技場だった。


「ここに来るのもずいぶん久しぶり……去年、やっぱりリディアさんに連れ出されて以来か」


 水際で屈み、冷たく澄んだ泉に手を差し入れて掌で懐かしさを味わう。

 水深は浅く、一番水の深い所でもカティの胸辺りまでか。子供達だけで訪れることが多い場所だけに、危険度の低さは折り紙つきだ。

 泉の傍らで水と戯れたカティが立ち上がると、横にはそんなこちらを慈母の瞳で見下ろしているリディアがいる。宿場を出た直後は不機嫌だったものの、時間が経つにつれて機嫌を直していき、今は上機嫌な様子だった。


「それで、久しぶりの泉に来たのはいいけど、どうする? ランチボックスもないし、着の身着のままだから水遊びくらいしかやることないけど」


「いいわね、水遊び。カティとするのも久しぶりだし」


「いや、そんな本気に取られても……水遊びする歳じゃないし、もう」


 そう、と目を伏せるリディアは本気で落ち込んだようだ。どうも彼女はカティをいつまでも子ども扱いする癖がある。実際、カティの子供時代はリディアと共にあったと言っていいほどのものなので、彼女にいつまでも頭が上がらないのは当然だが。


「無計画にこんな場所に連れ出すなんて衝動的なこと、リディアさんらしくもない」


「そう? 私らしくない?」


「と思ったけど、最近はそうだってだけで前はそうでもなかったか。考えてみればこの泉に連れてこられる時もほとんど唐突に無理やりだった覚えがあるし」


 子供時代、家に篭りがちだった自分を連れ出しに来る赤毛の少女を思い出す。何度拒絶しても堪えず、抵抗するこちらを意に介さず引きずっていくのだ。次第に抵抗する気力を失い、気づけば一緒にいるのが当然のようになってしまった。


「昨日のことみたいに思い出せるのは、何も変わってないってことなのかな」


 八年間もあって何も変わらないというのはいいことなのか。常に変わりたいといった願望のある自分にとって、変わらなくていいと思える絆は喜ばしいのかもしれない。


「ねえ、カティ。覚えてる? あの、向こう岸にある顔の木のこと」


 はしゃぐような声音でリディアが指差すのは、泉の対岸に見える木々の中で一際古い木だ。

 視界に収めた瞬間に記憶が鮮やかに蘇り、カティは頷いてみせる。


「覚えてる。幹が鼻のでかい親父に見える木。予備知識なしに暗くなってからリディアさんに見せられて、奇声上げて逃げ出して泉に落ちて死に掛けた」


「じゃあ、泉の怪獣ラッシーは?」


「あの異常に成長したカエルね。人間の膝まであるカエルはおかしい。退治するってリディアさんに連れ出されて、見つけた瞬間に逃げ出した森の中で崖から落ちて死に掛けた」


 泉で溺れかけ、意識を喪失しかけた記憶。崖から滑り落ち、全身擦過傷塗れの痛みで眠ることもできなかったことが思い出される。古傷が痛むような気がした。

 過去の傷跡に声のトーンを落とすカティに、リディアは拗ねたように唇を尖らせる。


「なんでそうやって悪い記憶ばっかり覚えてるのかしら」


「いや、今思えば素直にめでたしめでたしで終わった事の方が少ない気がする」


 好奇心旺盛で、何事にも果敢に挑戦するリディアと行動を共にし、割を食うのはいつもカティの役目だった。宿場を手伝うようになり、リディアが前ほどに出歩く機会が少なくなるまでの日々は生傷が絶えなかった思い出がある。


「うん、やっぱり基本的に痛い目に遭ってた」


「でも酷い記憶ばかりじゃないでしょう? その後、ちゃんと私が看病したじゃない」


「確かにリディアさんの看病は役得と言えなくもないんだけど、原因に遠からず関係があるのならある意味では当然の成り行きというか……」


「あ! カティ、それじゃあ、あれは? あの双子岩!」


「ああ、反対側から見ると尻の形に似てるやつね」


 愚痴を遮るリディアは声は溌剌と楽しげで、カティは仕方ないと思いつつ笑みを浮かべる。

 そのまま思い出話に花が咲き、やることがないなどとぼやいた割に時間は過ぎていく。話す思い出は八年分あるのだ。その八年のほとんどを一緒にいたのだから、過去の話題に事欠かないのは当然だった。


 ただ、あの事はこの事はと次々に思い出を語るリディアの態度に少し違和感を感じる。

 過去より前を見るのがリディアの性質だ。それを眩しいと思って、今のカティがある。

 思い出を語るリディアの表情は喜びの色が強いにも関わらず、どこか余裕のない焦りのようなものが混じっていた。楽しい過去を口にしているはずなのに、それを楽しむのでなく必死に縋っているように見えるのだ。


「ねえ、カティ。もっと話そう。もっともっと、話したいことがたくさんあるの」


「リディアさん……何か、あったの?」


 すでにその面からは笑みは失われ、唇は微かに震えてさえいる。顔色もどこか血色が悪く、何かを堪えているかのように瞳が揺れていた。

 だが、リディアはそれを認めないというように、いやいやと首を振って話題を探す。


「そうだ。ほら、泉の妖精の話。誰も信じてくれなくて、でもカティだけは……」


「やっぱりリディアさん、どこか悪そうに見える。戻ろう、休んだ方がいい。僕も残してきたリトが心配だし、今は宿場に帰って……」


 不用意に放ったその言葉が引き金になった。

 震える肩を支えようと伸ばした手が振り払われ、呆然とするカティの前でリディアが叫ぶ。


「あの……あの子のことなんてどうでもいいじゃないっ!」


 立ち尽くすカティを上目に睨みつけ、リディアは喉を震わせて続ける。


「ここにいるのは私とカティの二人でしょう!? それ以外に誰もいない! だから、他の誰かの話なんて聞きたくない! 何で私がいるのにあの子の話をするの!? 私の何がいけないの! 私を置き去りにして、あなたはどこに行ってしまうの!?」


「リ、リディアさん……?」


「どうしてあの子は私達の邪魔をするの! カティじゃなくてもいいじゃない! 町の人なら誰でもあの子を助けるわ! それなら、どうしてカティなの! 私の弟なの!?」


 リディアはその赤毛を振り乱し、両手で顔を覆って悲しみの慟哭を上げ続けた。

 狂乱に近い感情を爆発させるリディアを前に、カティはどうすることもできず立ち尽くす。

 叫びながらリディアは泉の辺に膝をつき、頭を抱えたまま水面に自らの顔を映した。


「お願いだから……あと少しだから。もうちょっとだけ、私とここにいて。それまで待ってくれたら、もう全部元通りだから……変わらない時間が戻ってくるから」


 鬼気迫る迫力を失い、覇気に欠けた声色は弱々しい。

 だが、その細々とした声の内容には聞き過ごせぬ疑問が浮上した。


「ここで待ってたら……何もかも解決する? リディアさん、どういう意味?」


「何でもない……何でもないから。お願い、ここで私と待ってて……」


 素直に頷ける態度ではありえなかった。言い知れぬ焦燥感が背筋を這い上がり、首筋と後頭部を寒気に似た感覚がじんと痺れさせる。

 目の前のリディアと、その不審な言葉に咄嗟の判断をつけることができず――


「なるほど。密告者はやっぱり、あなただったね」


 聞き覚えのない第三者の声に驚き、発生源に視線を送るが木々の群れに相手の姿は見えない。突然の闖入者に警戒するカティを尻目に、中性的な声の持ち主が言葉を続けた。


「カティクラウス。ボクを警戒するのはいいけど、それより優先することがあるよ。少し前に宿場に趣味の悪い服の女の子達が来てね。町の人と騒ぎを起こしてる」


 自分のフルネームを呼ばれたことに目を細め、その後の内容にその目を押し開く。


「趣味悪い服……まさか、愛娘達(ドーターズ)が!?」


「リト嬢を狙ってきたみたいだね。逃げ出したけど後を追われてる。伝えにこっちにきたけどボクもすぐにでも戻りたい」


「待て! お前はリトの味方なのか? それに、グレンとの戦いの場にいたのは……」


「前者は肯定、後者は必要かな? 優先順位ってのは君らの言葉だろ?」


 声が呆れたように呟き、そのまま森の奥に吸い込まれるように消えていく。

 その声の正体を確かめたい気持ちもあったが、忠告通り優先すべき順番があった。

 泉に背を向け、森の外にあるライズデルへ通じる道へ駆け出そうと足を踏み出し、その動きを制止するように服の裾を掴む力を感じた。


「行かないで……カティ……」


 両膝を地に着き、見上げる姿勢で縋り付きながらの弱々しい言葉に後ろ髪を引かれる。

 今のリディアを放置することは避けるべきなのかもしれない。彼女の精神は今にも崩れてしまいそうなほど疲弊し、カティの存在を求めている。


「さっきの声は、密告者って言ってた。まさかリディアさんが愛娘達(ドーターズ)にリトを……?」


 リディアの全身が一度強く震え、裾を掴む力が僅かに緩む。カティはその反応を答えと受け取って、身を捻って裾を掌から解放した。


 あ、と小さな怯える呼気が漏れ、それと決別するように一歩前に踏み出して距離を取る。


「――カティ」


「行くよ。リトを守るために」


 それだけを告げて、カティは後ろを振り向かずに森へと駆け出した。

 慟哭も嗚咽も聞こえてこなかった。ただ、小さく自分の名を呼ぶ声だけが聞こえていた。


 ――何度も、何度も。



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