月夜の貸衣装店
満月を挟む三晩だけ、灯りのともる店がある。
看板には、ただ〈貸衣装〉と書かれていた。
その扉をくぐる客は、生きた人間ではない。
店主は帳場で帳簿を捲りながら、今夜最初の客を待っていた。
ちりん、と鈴が鳴った。
「お帰りなさいませ」
帳場から顔を上げると、入り口には薄紅色のドレスを着た若い女が立っていた。
裾を両手でつまみ、踊り疲れたように肩を落としている。
目の縁には泣いた跡があったが、その目には、満ち足りた光が宿っていた。
「昨夜は、とても素敵な一夜になりました」
女はそう言って、店の奥の試着室で手早く着替えを済ませ、脇に抱えたドレスを店主に返した。
「最初は、私だと気づいてくれなかったんです。あの人、すっかりおじいさんになっていて。私だけ、死んだ日のままでしょう」
女はくすくす笑った。
「でも、名前を呼んだら、驚いて――それから、泣いて喜んでくれました。若い頃みたいに踊ったんです。二人で。初めて会った橋の上で。何度も足を踏まれましたわ」
この店のドレスを着た死者は、夜明けまで、自分を覚えている生者の夢に立つことができる。
「では、お代を」
店主がそう言うと、女の笑みがかすかに揺れた。
「ええ。わかっています」
代金はお金ではない。
会いに行った相手を愛していた、その甘い記憶のすべて。
女は目を閉じた。
皺だらけの手。肩に置かれた額。何十年ぶりかに呼ばれた名前。耳元で交わした、最後の言葉。
淡い光が女の胸から抜け出し、そっと店主の掌へ集まる。
光はするすると縮まり、店主の掌でころりと転がって、桃色の飴になった。
女は目を開けた。
「……不思議ですね」
「何がでございますか」
「誰に会ってきたのか、もう思い出せません」
困ったように笑いながら、女は胸の前で両手を重ねた。
「それなのに、ここがとてもあたたかいんです。私、きっと、誰かを心から愛していたのでしょうね」
「ええ。きっと」
「それなら、十分です」
女は深く頭を下げた。
扉を出ると、その姿は月明かりにほどけ、銀の粉となって夜空へと昇っていった。
店主は桃色の飴をガラス瓶に収めた。
瓶の中には、赤や青、琥珀色の飴が幾つも入っている。思い出の形も、名も、声も失われ、幸福だったという感触だけが、甘さとなって結晶したものだ。
壁の時計は、夜明けまであと一時間を指していた。
「今夜は、これまでですな」
入り口の札を裏返そうかと立ち上がったとき、再び入り口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、四十半ばほどの女だった。
古びた灰色のワンピースを着て、両手を固く握りしめている。
「まだ、よろしいでしょうか」
「月が沈むまでは」
「あの……ドレスを、お借りしたくて」
「どなたの夢へ?」
「先に見せていただいても?」
女は壁沿いに飾られた色とりどりの衣装を指さした。
「どうぞ」
店主は手で店内を指し示し、女を招き入れた。
女は、やがて店の奥、子供用のドレスが並ぶ一角で足を止めた。
「あの……黄色いものはありますか」
「失礼ですが、お客様には、少々小さいかと」
「いえ、私が着るのではありません……」
店主は訝しげに片眉を上げた。
一晩の身体を得た死人は、ここで自分が身に纏うドレスを借りて、未練を残した生者の夢へ会いにいく。
そういう決まりだ。
自分以外の者のための衣装を借りることはできない。
だが、女が手に取ったのは、淡い黄色の子供用のドレスだった。
丸い白襟に細いレース。腰には、青いリボンが結ばれている。
「娘に着せたいんです」
店主は黙った。
「六つでした。踊るのが好きな子で」
女はドレスの裾へ、そっと指を触れた。
「町の舞踏会に出るんだと言って、毎日練習していました。黄色が似合う子でしたから。お月さまみたいなドレスを作ってあげると約束してたんです。でも、舞踏会の三日前に熱を出して……」
女の指が、青いリボンの上で止まった。
「娘さんを覚えている生者はいらっしゃいませんか」
「おります。けれど、会いたいのは娘です」
「ですが、お嬢様は、すでに」
「ええ。私より、ずっと先に」
店主は静かに首を振った。
「この店の衣装が運べるのは、生者の夢の中だけです。死者は眠りません。死者のもとへ訪ねていくことはできないのです」
「死んだ者同士では、会えないのですね」
「死者は、それぞれ別の夜にいますから」
女はしばらく俯いていた。
それでも未練が捨てきれず、黄色いドレスをハンガーから外した。
小さな袖を片方ずつ持ち、誰かの両手を取るように持ち上げる。
「少しだけ、貸してください」
女は一歩下がった。
「いち、に、さん。いち、に、さん」
小さく拍子を取りながら、女は手にした黄色いドレスと踊り始めた。
女が右へ進めば、空っぽのドレスも右へ揺れた。
女が回れば、黄色い裾がふわりと膨らんだ。
「違うでしょう、ミナ。最初は左の足よ」
誰もいない場所へ、女は笑いかけた。
「そう。上手ね。ほら、お母さんの靴を踏まないで」
店主は言葉を挟まず、母親を見守った。
店内に音楽はない。
いち、に、さん、と母親が刻む声と、靴音と、衣擦れだけが響いていた。
「もう一度、最初から」
いち、に、さん。
いち、に、さん。
笑っていた声が、次第に震えた。
空の袖を握る指に力がこもり、やがて足が止まった。
「ごめんね」
母親は小さなドレスを抱きしめた。
腕の中で、布だけがくしゃりと潰れた。
「お母さん、間に合わなかったね」
店主は何も言わなかった。
母親は涙を拭うと、ドレスの皺を丁寧に伸ばしてハンガーへ戻し、深く頭を下げる。
「お騒がせしました」
「お待ちください」
店主は壁の暦を見た。
今夜は十五夜。扉の開く夜は、あと一晩ある。
「明日の夜、もう一度いらっしゃい」
「でも……」
「このドレスは、お嬢様には少し丈が長い。そうでしょう?」
「え、ええ……」
「さぁ、月が沈みます。また明晩お会いしましょう」
それ以上は答えず、店主は母親を送り出した。
扉が閉まると、店内はしんと静まった。
店主はガラス瓶から、先ほどの桃色の飴を取り出した。
それを銀紙にくるみ、その上から黄色いセロファンを重ね、青い紐を結ぶ。
それは、さっきまで母親が抱きしめていた子供用のドレスのようだった。
「さぁ、寝る時間はないかもしれませんね」
*
翌夜、母親は月が昇るや否や、店の前に立っていた。
扉を開ける。
ちりん、と鈴が鳴った。
「お待ちしておりました」
帳場にいた店主が言った。
「あの……」
「はい。ドレスはこの通り、仕立て直してありますよ」
またこのドレスと踊れということだろうか。
母親は、渡されたドレスを胸に、店主を見上げた。
「それを持って、奥の試着室へお行きなさい」
試着室のカーテンが揺れていた。
その前には、小さな靴が揃えて置かれていた。
「お母さん?」
ふいにカーテンが開き、六つほどの少女が顔を出した。
母親の口が、娘の名の形に開いた。
けれど声は出なかった。
「遅いよ」
母親は、試着室の方へ歩み出した。
だが、一歩目でよろめき、二歩目で膝をつく。
見かねた少女が靴も履かずに駆け寄って、その首へ腕を回した。
「ああ……」
今度は、布だけではなかった。
小さな背中の丸みも、肩へ回された腕の重みも、押しつけられた額の感触も、確かにあった。
「ミナ」
母親からようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「ごめんね。お母さん、約束したのに。ドレスも、舞踏会も、間に合わなくて」
少女は不思議そうに瞬きをした。
そして母親が胸に抱いているものに目をとめた。
「それ、わたしの?」
母親は何度もうなずいた。
震える指で背中の釦を留め、腰の青いリボンを結ぶ。
いつもならなんて事のない蝶々結びが、今夜にかぎってなかなかうまくいかなかった。
「お母さん、見て」
少女が黄色い裾を広げて、一回転した。
それから母親の耳元で、秘密を教えるように言った。
「お母さん、ちゃんと間に合ったね」
母親は少女の肩へ顔を埋めた。
声を殺そうとするたび、背中が大きく震えた。
やがて少女が、その袖を引いた。
「ねえ、お母さん。踊ろう」
「お母様には、こちらを」
店主が差し出したのは、夜空のような紺のドレスだった。
少女は黄色いドレスに、母親は紺のドレスに着替え、二人は店の中央に立った。
店主が古い蓄音機の針を落とす。
すーっという乾いた音の奥から、かすれたワルツがゆっくりと流れ始めた。
「いち、に、さん。いち、に、さん」
母親が数える。
娘は左足から踏み出し、すぐに母親の靴を踏んだ。
「ほら、また」
「だって、お母さんが遅いんだもん」
二人は笑った。
黄色いドレスが満月のように、母親の紺のドレスが夜闇のように、今夜の空そのままに店内に浮かび上がる。
昨夜、空っぽだった袖の中には、小さな腕がある。
昨夜、布しか抱けなかった腕の中に、娘がいる。
曲が終わっても、二人は何度も踊った。
まだ夜は長い。
月が天頂に掛かっても、傾きはじめても二人は踊り続けた。
やがて東の空が白み始め、西の空で月が最後の光を放っている。
母親は娘の手を引き、帳場の前へ来た。
「お代を」
「必要ありません」
「ですが」
「衣装は一歩も店の外へ出ておりません。今夜は、店内でのご試着でございます」
母親は娘を見つめた。
「では、今夜のことを、覚えていてもよいのですか?」
「ええ。何ひとつ、お忘れ物のないように」
母親は漏れそうになる声を堪えるように唇を噛みながら、何度も頭を下げた。
「あの……どうして、この子に会えたのでしょう?」
「死者の夜は交わりません。ですが満月の夜、この店は、どの夜にも扉を開いていますから」
店主は、少女が差し出した飴の包み紙を受け取った。
「滅多にございませんが、今夜はたまたま、二人のお客様が同時に店を訪れた。それだけのことでございます」
「でも、どうやって娘を……」
店主は、わずかに口元を緩めた。
「子どもは飴で釣るのがいちばんです」
少女が頬を膨らませた。
「釣られてないもん。ドレスを見に来ただけだもん」
「それは失礼いたしました」
母親は泣きながら笑った。
月が沈み、二人の姿が淡く透け始める。
「もう一度だけ」
母親が言った。
音楽はとうに止まっていた。
それでも二人は手を取り合い、
「いち、に、さん」
と、最後の三歩を踏んだ。
少女はまた母親の靴を踏んだ。
二人は顔を見合わせて笑った。
二人はしっかりと手を握り合った。
その姿は朝の光の中へと溶けていった。
最後まで、どちらの手も空にはならなかった。
「さて、また来月まで、夜の営業はおしまいです」
静かになった店で、店主は黄色いドレスと紺色のドレスの皺を伸ばすと、ハンガーに戻した。
二着のドレスの袖口が、かすかに重なった。
店主はそれを直さず、入り口の札を裏返し、店の灯りを消した。




