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月夜の貸衣装店

作者: 潯 薫
掲載日:2026/06/27

 満月を挟む三晩だけ、灯りのともる店がある。

 看板には、ただ〈貸衣装〉と書かれていた。

 その扉をくぐる客は、生きた人間ではない。

 店主は帳場で帳簿を捲りながら、今夜最初の客を待っていた。


 ちりん、と鈴が鳴った。


「お帰りなさいませ」


 帳場から顔を上げると、入り口には薄紅色のドレスを着た若い女が立っていた。

 裾を両手でつまみ、踊り疲れたように肩を落としている。

 目の縁には泣いた跡があったが、その目には、満ち足りた光が宿っていた。


「昨夜は、とても素敵な一夜になりました」


 女はそう言って、店の奥の試着室で手早く着替えを済ませ、脇に抱えたドレスを店主に返した。


「最初は、私だと気づいてくれなかったんです。あの人、すっかりおじいさんになっていて。私だけ、死んだ日のままでしょう」


 女はくすくす笑った。


「でも、名前を呼んだら、驚いて――それから、泣いて喜んでくれました。若い頃みたいに踊ったんです。二人で。初めて会った橋の上で。何度も足を踏まれましたわ」


 この店のドレスを着た死者は、夜明けまで、自分を覚えている生者の夢に立つことができる。


「では、お代を」


 店主がそう言うと、女の笑みがかすかに揺れた。


「ええ。わかっています」


 代金はお金ではない。

 会いに行った相手を愛していた、その甘い記憶のすべて。

 女は目を閉じた。

 皺だらけの手。肩に置かれた額。何十年ぶりかに呼ばれた名前。耳元で交わした、最後の言葉。

 淡い光が女の胸から抜け出し、そっと店主の掌へ集まる。

 光はするすると縮まり、店主の掌でころりと転がって、桃色の飴になった。


 女は目を開けた。


「……不思議ですね」

「何がでございますか」

「誰に会ってきたのか、もう思い出せません」


 困ったように笑いながら、女は胸の前で両手を重ねた。


「それなのに、ここがとてもあたたかいんです。私、きっと、誰かを心から愛していたのでしょうね」

「ええ。きっと」

「それなら、十分です」


 女は深く頭を下げた。

 扉を出ると、その姿は月明かりにほどけ、銀の粉となって夜空へと昇っていった。

 店主は桃色の飴をガラス瓶に収めた。

 瓶の中には、赤や青、琥珀色の飴が幾つも入っている。思い出の形も、名も、声も失われ、幸福だったという感触だけが、甘さとなって結晶したものだ。


 壁の時計は、夜明けまであと一時間を指していた。


「今夜は、これまでですな」


 入り口の札を裏返そうかと立ち上がったとき、再び入り口の鈴が鳴った。

 入ってきたのは、四十半ばほどの女だった。

 古びた灰色のワンピースを着て、両手を固く握りしめている。


「まだ、よろしいでしょうか」

「月が沈むまでは」

「あの……ドレスを、お借りしたくて」

「どなたの夢へ?」

「先に見せていただいても?」


 女は壁沿いに飾られた色とりどりの衣装を指さした。


「どうぞ」


 店主は手で店内を指し示し、女を招き入れた。

 女は、やがて店の奥、子供用のドレスが並ぶ一角で足を止めた。


「あの……黄色いものはありますか」

「失礼ですが、お客様には、少々小さいかと」

「いえ、私が着るのではありません……」


 店主は訝しげに片眉を上げた。

 一晩の身体を得た死人は、ここで自分が身に(まと)うドレスを借りて、未練を残した生者の夢へ会いにいく。

 そういう決まりだ。

 自分以外の者のための衣装を借りることはできない。


 だが、女が手に取ったのは、淡い黄色の子供用のドレスだった。

 丸い白襟に細いレース。腰には、青いリボンが結ばれている。


「娘に着せたいんです」


 店主は黙った。


「六つでした。踊るのが好きな子で」


 女はドレスの裾へ、そっと指を触れた。


「町の舞踏会に出るんだと言って、毎日練習していました。黄色が似合う子でしたから。お月さまみたいなドレスを作ってあげると約束してたんです。でも、舞踏会の三日前に熱を出して……」


 女の指が、青いリボンの上で止まった。


「娘さんを覚えている生者はいらっしゃいませんか」

「おります。けれど、会いたいのは娘です」

「ですが、お嬢様は、すでに」

「ええ。私より、ずっと先に」


 店主は静かに首を振った。


「この店の衣装が運べるのは、生者の夢の中だけです。死者は眠りません。死者のもとへ訪ねていくことはできないのです」

「死んだ者同士では、会えないのですね」

「死者は、それぞれ別の夜にいますから」


 女はしばらく俯いていた。

 それでも未練が捨てきれず、黄色いドレスをハンガーから外した。

 小さな袖を片方ずつ持ち、誰かの両手を取るように持ち上げる。


「少しだけ、貸してください」


 女は一歩下がった。


「いち、に、さん。いち、に、さん」


 小さく拍子を取りながら、女は手にした黄色いドレスと踊り始めた。

 女が右へ進めば、空っぽのドレスも右へ揺れた。

 女が回れば、黄色い裾がふわりと膨らんだ。


「違うでしょう、ミナ。最初は左の足よ」


 誰もいない場所へ、女は笑いかけた。


「そう。上手ね。ほら、お母さんの靴を踏まないで」


 店主は言葉を挟まず、母親を見守った。

 店内に音楽はない。

 いち、に、さん、と母親が刻む声と、靴音と、衣擦れだけが響いていた。


「もう一度、最初から」


 いち、に、さん。

 いち、に、さん。


 笑っていた声が、次第に震えた。

 空の袖を握る指に力がこもり、やがて足が止まった。


「ごめんね」


 母親は小さなドレスを抱きしめた。

 腕の中で、布だけがくしゃりと潰れた。


「お母さん、間に合わなかったね」


 店主は何も言わなかった。

 母親は涙を拭うと、ドレスの皺を丁寧に伸ばしてハンガーへ戻し、深く頭を下げる。


「お騒がせしました」

「お待ちください」


 店主は壁の暦を見た。

 今夜は十五夜。扉の開く夜は、あと一晩ある。


「明日の夜、もう一度いらっしゃい」

「でも……」

「このドレスは、お嬢様には少し丈が長い。そうでしょう?」

「え、ええ……」

「さぁ、月が沈みます。また明晩お会いしましょう」


 それ以上は答えず、店主は母親を送り出した。

 扉が閉まると、店内はしんと静まった。

 店主はガラス瓶から、先ほどの桃色の飴を取り出した。


 それを銀紙にくるみ、その上から黄色いセロファンを重ね、青い紐を結ぶ。

 それは、さっきまで母親が抱きしめていた子供用のドレスのようだった。


「さぁ、寝る時間はないかもしれませんね」


     *


 翌夜、母親は月が昇るや否や、店の前に立っていた。

 扉を開ける。


 ちりん、と鈴が鳴った。


「お待ちしておりました」


 帳場にいた店主が言った。


「あの……」

「はい。ドレスはこの通り、仕立て直してありますよ」


 またこのドレスと踊れということだろうか。

 母親は、渡されたドレスを胸に、店主を見上げた。


「それを持って、奥の試着室へお行きなさい」


 試着室のカーテンが揺れていた。

 その前には、小さな靴が揃えて置かれていた。


「お母さん?」


 ふいにカーテンが開き、六つほどの少女が顔を出した。

 母親の口が、娘の名の形に開いた。

 けれど声は出なかった。


「遅いよ」


 母親は、試着室の方へ歩み出した。

 だが、一歩目でよろめき、二歩目で膝をつく。

 見かねた少女が靴も履かずに駆け寄って、その首へ腕を回した。


「ああ……」


 今度は、布だけではなかった。

 小さな背中の丸みも、肩へ回された腕の重みも、押しつけられた額の感触も、確かにあった。


「ミナ」


 母親からようやく出た声は、ひどく掠れていた。


「ごめんね。お母さん、約束したのに。ドレスも、舞踏会も、間に合わなくて」


 少女は不思議そうに瞬きをした。

 そして母親が胸に抱いているものに目をとめた。


「それ、わたしの?」


 母親は何度もうなずいた。

 震える指で背中の(ぼたん)を留め、腰の青いリボンを結ぶ。

 いつもならなんて事のない蝶々結びが、今夜にかぎってなかなかうまくいかなかった。


「お母さん、見て」


 少女が黄色い裾を広げて、一回転した。

 それから母親の耳元で、秘密を教えるように言った。


「お母さん、ちゃんと間に合ったね」


 母親は少女の肩へ顔を埋めた。

 声を殺そうとするたび、背中が大きく震えた。

 やがて少女が、その袖を引いた。


「ねえ、お母さん。踊ろう」

「お母様には、こちらを」


 店主が差し出したのは、夜空のような紺のドレスだった。

 少女は黄色いドレスに、母親は紺のドレスに着替え、二人は店の中央に立った。

 店主が古い蓄音機の針を落とす。

 すーっという乾いた音の奥から、かすれたワルツがゆっくりと流れ始めた。


「いち、に、さん。いち、に、さん」


 母親が数える。

 娘は左足から踏み出し、すぐに母親の靴を踏んだ。


「ほら、また」

「だって、お母さんが遅いんだもん」


 二人は笑った。

 黄色いドレスが満月のように、母親の紺のドレスが夜闇のように、今夜の空そのままに店内に浮かび上がる。


 昨夜、空っぽだった袖の中には、小さな腕がある。

 昨夜、布しか抱けなかった腕の中に、娘がいる。

 曲が終わっても、二人は何度も踊った。

 まだ夜は長い。

 月が天頂に掛かっても、傾きはじめても二人は踊り続けた。


 やがて東の空が白み始め、西の空で月が最後の光を放っている。

 母親は娘の手を引き、帳場の前へ来た。


「お代を」

「必要ありません」

「ですが」

「衣装は一歩も店の外へ出ておりません。今夜は、店内でのご試着でございます」


 母親は娘を見つめた。


「では、今夜のことを、覚えていてもよいのですか?」

「ええ。何ひとつ、お忘れ物のないように」


 母親は漏れそうになる声を堪えるように唇を噛みながら、何度も頭を下げた。


「あの……どうして、この子に会えたのでしょう?」

「死者の夜は交わりません。ですが満月の夜、この店は、どの夜にも扉を開いていますから」


 店主は、少女が差し出した飴の包み紙を受け取った。


「滅多にございませんが、今夜はたまたま、二人のお客様が同時に店を訪れた。それだけのことでございます」

「でも、どうやって娘を……」


 店主は、わずかに口元を緩めた。


「子どもは飴で釣るのがいちばんです」


 少女が頬を膨らませた。


「釣られてないもん。ドレスを見に来ただけだもん」

「それは失礼いたしました」


 母親は泣きながら笑った。

 月が沈み、二人の姿が淡く透け始める。


「もう一度だけ」


 母親が言った。

 音楽はとうに止まっていた。

 それでも二人は手を取り合い、


「いち、に、さん」


 と、最後の三歩を踏んだ。

 少女はまた母親の靴を踏んだ。

 二人は顔を見合わせて笑った。


 二人はしっかりと手を握り合った。

 その姿は朝の光の中へと溶けていった。

 最後まで、どちらの手も空にはならなかった。


「さて、また来月まで、夜の営業はおしまいです」


 静かになった店で、店主は黄色いドレスと紺色のドレスの皺を伸ばすと、ハンガーに戻した。

 二着のドレスの袖口が、かすかに重なった。

 店主はそれを直さず、入り口の札を裏返し、店の灯りを消した。

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