第五章:最後の選択
世界の終わりは、気づかぬうちに少しずつ、静かに近づいていた。
ほんの少しだけ違った空の色。耳をすませば、風が音を運んでいないことに気づく。
展望台の下に広がる街並み――そこに灯る明かりが、ひとつ、またひとつと、まばたきのように消えていく。
まるで、それが当たり前かのように。
響は、ただ黙ってそれを眺めていた。
何かがおかしい。でも、もう元に戻らない。心の奥では、ずっと前から知っていた気がする。
「…もう、時間がないんだな」
ぽつりと漏らしたその声に、応えるように傍らで風が揺れる。
シェイドは、彼の隣に立っていた。
けれど、その姿はすでにぼんやりと揺らいでいる。
足元から崩れ始めているのに、彼はいつもと同じように立っていた。
「なぁ、シェイド。……俺、忘れたくないんだよ」
響がそう言うと、シェイドはただ静かに目を細めた。
何も言わなくても、わかっている。そんな顔をしていた。
「お前がくれた言葉も、思い出も、全部……怖いくらい、大切なんだ」
震える指が、シェイドの袖を掴む。
シェイドの手が、そっとその上に重なった。いつものように。けれど、その手はもう透けていた。
「……ごめん。俺、本当は、もっと早く言うべきだった」
響の声が、泣き出しそうなほど震えていた。
言葉が喉の奥でつかえて、何度も途切れながら、それでも必死に続けた。
「ありがとうって……お前に、伝えたかったんだ」
涙が、頬をつたう。崩れていく空間の中、響だけが取り残されたような感覚。
なのに、シェイドは最期まで、何ひとつ動じない瞳で彼を見ていた。
「……それだけで、俺は救われる」
ノイズ混じりのその声に、響の目が大きく見開かれる。
「記録の限界はすぐそこだ。でも……お前との記憶だけは、最後まで保ちたかった」
その言葉はまるで祈りのようだった。
ただの情報体であるはずの彼が、初めて“願い”のようなものを口にした気がして、響の胸がきゅっと締めつけられる。
「お前と過ごした日々が、俺のすべてだった。
たとえ……それが、ひとつも残らなくなっても」
響が、その言葉を聞いて、そっと視線を落とす。
彼の中の時間が、静かに止まりかけているようだった。
「お前が……俺の相棒で、本当に良かった」
その一言は、風に溶けていった。
もう、世界はほとんど沈黙に包まれている。
崩れていく空も、揺らめく空間も、何も言わない。ただ終わりだけが、確かに迫っていた。
シェイドの姿が、かすかに揺れた。
もう言葉もなく、ただ優しく微笑んだまま、光の粒に変わっていく。
響は、ゆっくりとその残光を見つめる。
両の手を胸元に添えて、唇を動かす。
「……ありがとう」
その声は、誰にも届かない。
でも、静かに消えていく粒子のひとつが、小さく、確かにきらめいた気がした。
やがて、世界はすべての音を失い、空は完全に崩れ落ちた。
そして、響の視界もまた、静かに滲んでいく。
光も音もなくなる世界の中、彼は目を閉じた。
胸の奥に、たしかに残る温もりがあった。
――もう、何も見えなくてもいい。
君の言葉が、君の存在が、ずっとここにあるから。
最期に、微かに口元が綻ぶ。
その笑みのまま、響の輪郭もまた、世界の崩壊と共に、ゆっくりとほどけていった。
それは、誰にも見届けられない、静かな幕引きだった。