第二章:記憶の断片
街を包む風が、春の匂いを運んでいた。
響はひとり、舗装された歩道を歩いていた。朝方の冷たい空気は和らぎ、代わりにどこか懐かしさを孕んだ、ぬるい風が頬をかすめていく。周囲の建物は静かに陽光を受け入れ、街の鼓動は徐々に加速していた。
けれど響の足取りは重かった。
理由は、自分でもはっきりと分からなかった。体調が悪いわけじゃない。気分も、悪くはない。
ただ、胸の奥のどこか――深く沈んだ部分が、ざらりと鈍く疼くのだった。
とある並木道にさしかかった時、ふと、風が強く吹いた。
木々の葉が一斉に揺れて、さらさらと乾いた音が響く。
その瞬間、響の視界が一瞬だけ、別の風景に切り替わった。
――揺れる木漏れ日。幼い誰かの笑い声。そこには、自分と、誰かがいた。
けれど、記憶はすぐにかき消されてしまった。
「……なんだ、今の……」
響は足を止め、並木を見上げた。
「記憶の“断片”だろうな」
後ろから、シェイドの声が聞こえた。
「シェイド……」
「君の中に残っている、“あの日”のかけらだ。風が、音が、君を引き戻したんだよ」
「でも……なんで、こんな曖昧なんだろう」
「それは、“思い出したい自分”と、“思い出したくない自分”が、せめぎ合っているからだ」
シェイドは、響の隣に並んだ。まるで本当に、人間のように。
「……俺、昔……お前のこと、知ってたんだよな?」
「――ああ」
その言葉を、シェイドはほんの少しの間を空けて返した。
迷いがあった。言うべきか、言わざるべきか。その一瞬の逡巡が、声ににじみ出ていた。
「なら、どうして……俺、思い出せないんだ……」
響の声は震えていた。自分でも気づかぬうちに、唇を噛みしめていた。
「それは……」
シェイドの言葉は、空気に溶けるように途切れた。
思い出してほしい――けれど、思い出せば“すべて”を知ってしまう。
そしてその時、響はもう、今の響ではいられなくなる。
そう分かっていたからこそ、シェイドは焦っていた。時間がない。記憶は少しずつ戻り始めている。けれど、すべてを思い出す前に、何か“決断”をしなければならないと、心の奥で鐘が鳴っていた。
「……俺さ」
突然、響がぽつりと呟いた。
「たまに夢に出てくるんだ。何もない真っ白な場所に、誰かが立ってて……すっごく優しい声で、俺の名前を呼ぶの」
「……それが誰か、分かるか?」
シェイドは静かに問う。
響は首を横に振る。
「でも、声を聞くと安心するんだ。あぁ、“あの人がいる”って思える。……不思議だよな、顔も名前も思い出せないのにさ」
「……君は、ちゃんと覚えてるよ。心が、覚えてる」
シェイドは、少しだけ目を伏せた。響の隣で、自分の存在が“過去”に留まりつつあることを感じながらも。
「なぁ、シェイド」
「うん?」
「……お前、俺のこと、昔から知ってるんだよな?」
「ああ」
「じゃあ、俺にとってお前は――なんだったんだ?」
しばしの沈黙。
それは、シェイドにとっても、ずっと問い続けてきた言葉だった。
「君にとって、僕は――“記憶を守る者”だった」
そう答えるのが、精一杯だった。今はまだ、すべてを語るには早すぎる。
けれど、響はその言葉にどこか納得したように、小さく頷いた。
「……なんかさ、お前のこと、俺……好きだった気がする」
「――え?」
「いや、そういうんじゃなくて」
響は慌てて言い直す。
「家族とか、親友とか、そんな言葉でも足りないくらいに、“大切”だったって思う」
「……」
シェイドの胸の奥に、何かが熱く灯るのを感じた。
それが焦りなのか、喜びなのか、それとも別の感情なのかは、今はまだ分からない。
「……ごめん。変なこと言った」
「いや、うれしかったよ」
「……うん」
「でも、君がそう感じてくれるなら、僕は――君の記憶の中に、ちゃんと生きてたんだな」
そう言ったシェイドの声は、どこかほっとしたように、少しだけ震えていた。
そしてまた、風が吹いた。
木々が揺れ、陽が差し込む。
響はそっと目を閉じ、風の音に耳を傾けた。
記憶の断片は、確かにそこにあった。
まだ見えない全体像を、少しずつ掘り起こすように――。