ソフィア・フォンレーヌ 3
「ねえ、ソフィア、あなたは一体どうしたかったの?」
鏡台の前に立ち、鏡に映った美しい少女に向かって問いかける。
ふわふわと揺れる甘いピンク色の髪に、透き通る水色の瞳。
その顔はミリ単位で整っていて、どこにも非の打ち所がなかった。
『私のどこがダメだというの?』
『どうして私を見てもらえないの?』
『私が、生きててもいい理由が欲しい』
ソフィアの日記に美しい字で書かれた嘆き。
まるで誰にも見せることのない、心の底に沈んだ叫びのようだった。
こんなにも愛を渇望していたのに、誰にも届かなかった。
鏡の中のソフィアの瞳が、ふいに揺れた気がした。
いや、それは——私の瞳だったのかもしれない。
「……物語の登場キャラは皆、フィオレッタを気に入っていた」
どうして私が物語の主人公であり絶対的なヒロイン、フィオレッタではなく。影の薄い脇役ソフィアを気に入っていたのか、思い出せた。
「それはフィオレッタがあざとい系のぶりっ子だったからでしょ? ……まあ、男であーいうタイプが嫌いな人はいないものね」
小動物みたいに無垢で、誰にでも好かれる仕草、誰からも愛される愛嬌の良さ。
家庭環境も良くて、苦労することなく、何もかもを手に入れて……。
だけど誰よりも努力をかかさない。
そんな子に、私は強い憧れと、どうしようもない劣等感を抱いていた。
だから私は………。
「大丈夫。あなたの代わりに、私が演じ切って見せるから」
全てを持っているあの子に、フィオレッタに勝てるのかもしれない。
どうせソフィア一人が幸せになろうとも、フィオレッタのハッピーエンドの結末は変わることはないんだから。
「ソフィア」
もう一度、鏡に向かって呼びかける。
美しい少女の唇が、わずかに震えていた。まるで、泣きそうな表情をしているように見えたのは、気のせいじゃない。
(少しくらい私にも、この子にも、幸せを分けてくれたっていいでしょ?)
「私があなたをヒロインにしてあげる」
ずっと可愛くて、可愛くて、可哀想なソフィアを。
私がヒロインの座に導くんだ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「お着替えのお手伝いをさせていただきますね」
そして、あっという間に次の日がやって来た。
昨夜はあまりの衝撃に眠れない……なんてことはなく、きちんと十時間ほど眠らせていただいた。
(私って結構図太い性格なのよね。まさかそれが役に立つ日が来るとは思っていなかったけど)
「わぁ、制服可愛い~!」
淡い水色のワンピースに、白の襟と袖、そしてスカートの裾にあしらわれた繊細なフリル。
膝にかかる丈が上品で、どこかお人形さんのお洋服みたいで可愛らしい。
左胸元には、ダイヤモンドが埋め込まれた紋章入りのバッジが、光を受けてキラリと輝いていた。
鏡台の前に立ち、くるりと回ってみる。
スカートがふわりと広がり、思わず楽しげな笑みがこぼれた。
「普段から本当に可愛らしく、お美しいですが、今日は本当に天使様のように可愛いです!」
「ありがとう、あなたが手伝ってくれたおかげよ」
制服を着終えた後、「化粧とヘアセットもして欲しい」と頼むと、アンリエットは口を大きくさせ、目をぱちくりとさせた。
意外な反応に「ダメかしら?」と聞けば、アンリエットは大声で「そんなことありません!」と興奮気味に答えた。
アンリエットによると、元々ソフィアはベロニカから地味で冴えないドレスや装飾品ばかりを押し付けられていたらしい。
そのうえ、ソフィアは長く伸びた髪をうち巻きにして、顔周りを髪で覆い隠していたという。
表情の読みづらい重たい前髪。前髪や顔周りの髪を長く伸ばしていた。
これが、ソフィアに薄暗いイメージをもたらせていたと言っても過言ではないかもしれない。
私は、ソフィアの美しさに影を生み出す部分をハサミで切り落とし、美しい顔がさらけ出されるように整えた。
もちろん、髪型だけではない。
色白の肌に映えるように、コーラルピンクのリップをひと塗り。まつ毛を軽くカールさせて、華やかなシャドウを淡くのせた。派手じゃない、けれど確実に洗練された素材を生かすためのメイクを施した。
愛されるために生まれてきたような、絵本の中のお姫様みたいな少女がそこにいる。
(まぁ、小説でソフィアは誰からも愛されることはなかったんだけどね……ハハッ)
「ねえ、そう言えば私の通っている学校の名前ってなんだったかしら?」
「ソフィア様が通われている学校は、キャッスルスター学園という名前です」
「……きゃっするすたー?」
(は? ダッサ!)
「はい!」
「教えてくれてありがとう~」
心の中では盛大にツッコミを入れつつも、表情は涼やかに微笑む。
「それにしても、やはり心配です。もう少しお休みされた方が良かったのではないでしょうか?」
「もう、まだ言ってるの?」
「だってソフィア様……」
――記憶喪失の上に、強く頭を打ったのだから、しばらく休養した方がいいのではないか。そう心配してくれるアンリエットに、「どうしても行かせてほしい」とお願いしたのはついさっきのこと。アンリエットは不満げだったが、最終的には「ソフィア様がそこまで仰るのなら……」と折れてくれた。
「まあ、ソフィア様は毎日ヴィンセント様と登校されているので、ヴィンセント様がお傍に居る限りソフィア様に何の心配も無いと思いますが……」
「えっ? そうなの?」
予想外の言葉に、思わず声が裏返る。
小説の本編はあくまでフィオレッタとヴィンセントの出会いから始まる。
だから脇役のソフィアが、彼とどれくらいの距離感だったのか、ほとんど描かれていなかったのよね。
「そのこともお忘れなのですね……。ソフィア様がヴィンセント様に直接お願いされたのですよ」
「そ、そうなんだ……」
二人きりなのは少し緊張してしまうけど、これはチャンスだ。
ソフィアはこんなにも可愛いんだから、この可愛さを武器に必死に愛想を振りまいて、フィオレッタのように可愛く振舞っていれば、ヴィンセントだって私を好きになってくれるかもしれない。
(よし、やっぱり恋は攻めてこそよね!)
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
馬車の重厚な扉が静かに開かれ、中から姿を現したのは一人の青年だった。
青がかった黒髪が朝の光を受けてさらりと揺れ、整った横顔が淡く浮かび上がる。
吸い込まれそうなほど魅力的な青い瞳は思わず見とれてしまう。
右目の下にある小さなほくろは、その美貌にほんの少しの色気と危うさを添えている。
無駄のない所作と立ち居振る舞いは、ただそこに立っているだけだというのに、人目を引かずにはいられない存在感を放っていた。
(これが男主人公のオーラなの?)
昨日は色んな事が重なりすぎて、私をベットまで運んだあとすぐに帰ってしまったからよくよく見ることは出来なかったけど、改めてみると本当にかっこいい人だ。
「ヴィンセント公子様」
名前を呼んで、馬車のすぐ傍で立っている彼のもとへ駆け寄る。
「おはようございます。迎えに来てくださって、とても嬉しいです」
私はこれから、ソフィアとして生きていかなければならない。
どんなに戸惑っても、逃げ道なんてないのだから。
転生モノの主人公というものは、大抵が男主人公を守るためにとか、主人公であるヒロインを守るためにとか、そんな他者のために必死になれる優しい子たちだ。
(……だけど私は、そんな綺麗な人間じゃない)
私がこの世界で生きていく理由は、自分のため。ただそれだけだ。
誰かを守りたいとか、支えたいとか、そんな気持ちは今のところ一切ない。
美しい正義感なんて、残念ながら持ち合わせてはいない。
だって、私はただの一般人だったんだもの。
読者としてページをめくっていたはずの物語の中で、いきなり命懸けのサバイバルを強いられてるのよ。
ファンタジーだと思って読んでいたこの世界は、今となっては現実なのだ。
私はこの先、生きていくために、幸せになるために必死なの。
愛らしくふわりと笑い、軽くスカートの裾をつまみ、優雅に一礼する。
恋愛小説の、テンプレ中のテンプレ挨拶。
誰かの幸せのためじゃなく、私自身が悪役として悲しい末路を迎えたくないから。私自身が、この物語の“脇役”で終わりたくないから。
誰かの恋路を応援する立場じゃなく、私がヒロインになりたいから。
どうしても共感せずにはいられない、ソフィアという少女を幸せにしてあげたいから……。
「えへへっ」
彼は少し驚いたかのように目を見開いたが、すぐに表情を戻し、手を差し伸べてきた。
まるで習慣のように、自然な動作。私は動揺を見せることなく、笑顔でその手を取った。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「記憶喪失……?」
「はい!」
私は勢いよく頷いて、満面の笑みを作る。
目はしっかり開いて、口角もキュッと上げ、愛らしく。
「あなたは私の婚約者さまなんですよね?」
できるだけ愛らしく、目をぱちぱちさせながら尋ねた。
「……ええ」
ヴィンセントはほんの少し間を置いてから静かに答えた。
「わぁ、本当なんですね? あなたのようにかっこいい人が私の婚約者さまだなんて信じられません。私は幸せ者だったんですね」
両手を胸の前で合わせて、きらきらと目を輝かせる。
少女漫画のヒロインがよくやってたポーズ。たしか、こういう感じだったはず。
(いやいや、そんなドン引きした顔しないでよ……私だって必死なんだから)
「まるで別人ですね」
さらりと、鋭い言葉を突き刺してくるヴィンセント。
「え、えへへ、そうですか?」
なんとか笑って返すものの、内心は冷や汗だらだらだった。
そう言えば、ソフィアってもっと冷たくてツンとした性格だったんだっけ。
フィオレッタを見習って甘えんぼ系で攻めたけど、方向性間違ってたかもしれない……。
(いいや! 弱気になっちゃだめ!)
ソフィアのこの甘いフェイスなら、こういう性格の方が男性はきっとグッとくるはず。記憶喪失を言い訳に、キャラ変すればいいんだから。
「あの、どうして学校でお会いできるのにわざわざ私を迎えに来てくださったんですか? もちろんとても嬉しいのですが……」
私は小首を傾げながら、遠慮がちに問いかける。
「……あなたが毎日一緒に登校したいと、僕を呼ばれたのではありませんか」
「え? あっ、そうだったんですね!」
(ああ、そう言えばアンリエットがそんなことを言っていたっけ……悪巧みばかり考えていたから忘れていた)
「それすらもお忘れでしたか。でしたら僕は先に向かいます。記憶を失った状態で個室に知らない男と二人きりというのもなんでしょうから」
そう言って、すっと踵を返すヴィンセント。
「まっ、待ってください!」
思わず声が裏返りそうになるのを必死で抑え、私は彼の裾をぎゅっと掴んだ。
黒と言うより紺色に近い見るからに高級そうなジャケットなのかローブなのか分からない裾を掴み、彼の歩みを止める。
「実は記憶が曖昧な中とても心細かったので、一緒に登校してくださるだなんて本当に嬉しいです!」
気持ちを込めて言ったつもりだった。だってこれは、本心でもあるから。
この世界での私には味方なんていない。ヴィンセントを逃したら、私は、ソフィアは積みなのよ。
「あなたにとって僕は今、見ず知らずの男。共に馬車に乗るのはそれこそ心細いのでは?」
「そんなことはありません、あなたが傍に居てくれない方が心細いです!」
「そうでしょうか」
「そうです!」
食い気味に、必死で訴える。
そんな私を見て、ヴィンセントは一瞬だけ目を伏せ、ため息をついた。
「なぜですか」
ヴィンセントは、ポツリと小さく呟いた。
「え?」
間の抜けたような声が漏れてしまう。
「なぜ、そう言い切れるのですか?」
今度ははっきりと、確かな口調で。
まるで、嘘を見抜こうとする尋問官のように、ヴィンセントの視線が私の心の奥を見透かしてくる。
前世で、私に婚約者が居たことは無いけれど、それでもこの男の目は婚約者を見つめる目ではないことくらいは分かる。
(ああもう、そんなに嫌わなくったっていいじゃない)
私はグッと拳を握りしめ、心の中で自分に言い聞かせる。
ヴィンセントに嫌われていることくらい、分かっていたはずじゃない。大丈夫、落ち着くのよ私。
(こっちには、とっておきの策があるんだから)
作った笑顔が崩れる前に、私は一か八かの決断を下し、思い切り口を大きく開けて声を上げた。
「だって、私はあなたのことを好きになってしまったんですもの!!」
必死に叫んだその言葉は、きっと邸宅中に響き渡ったことだろう。
「……」
(な、なによ。なにか言いなさいよ。そのドン引きとでも言いたい顔はなんなのよ)
恥ずかしさのあまり思わず目をぎゅっと閉じ、顔を赤く染めてしまったけれど、もう後戻りはできない。