第五章 青龍の刺青
BSのある雑居ビルの壁は廃れ汚れて雑色をし、朽ち毀たれ缺けている。
剥がされたポスターの残骸が何重にも残滓し、複雑な模様をなしていた。
手すりの錆びた狭く昏い階段を降りると240㎡(12m×20m)ほどのフロアがある。パイプ剥き出しで音響は最悪だが、山羊鬚でチベットの民族衣装を着た名物オーナー兼店長の八木沼嵐のこだわりで数千万円のアンプを始め、高級な音響機器をステージに設置していた。ステージの両脇には古いマーシャルアンプを山積みして仕切りを造り、簡易な楽屋を作っていた。
ステージは低く、6人編成ぐらいでドラムやキーボードがあるバンドなどはギリギリいっぱいだ。
八木沼氏は高校生を7時以降はステージに上がらせなかった。
コンペは6時に始まる。持ち時間は約15分間。通常は2~3のバンドを演奏させるが、その時間帯を無料にしている。
高校生に演奏料を払わないから客からも料金を取らないという考えだ。飽くまでも高校生の発表の場で、営業ではないというこれもこだわりであった。
このコンペの順番はくじ引きで決める。
「先に演る方がオーディエンスに与えるインパクトが強いから有利、ってのがセオリーだ。後のバンドは前を超える演奏をしても普通だなって感じられちまうもんだぜ」
「僕にプレッシャーをかけてるのか、叭羅蜜斗」
「くじ運は強い方か、普蕭」
「〆裂・・・・そうでもないんだよ」
「ふ。
ちまちましたこと言ってんじゃねーよ」
「おまえ、マジで身も蓋もねー野郎だな」
「うれしいこと言ってくれるぜ。
おれを喜ばせるなよ、叭羅蜜斗」
「さあ、ともかく行ってくるよ」
くじは負けだった。
「ちっ、そんな気がしたぜ。何しろ疫病神がいるからな」
「それがおれの肩書きさ。
ふ」
「へえ、増えたんだ?
非業惨死や横変死だけかと思っていたぜ」
「いくらでもある」
「大したもんだ」
「ふ。そのうちわかるさ」
RZDが始まった。
呪文のような呻きで始まった。
暗黒のステージ。翳廊だけがスポットライトで照射されている。
唐突に音の大洪水が始まった。
サイケデリックな意味不明な合成音の大氾濫。その怒濤は途轍もなく膨れ上がり、空恐ろしいほどだった。民族音楽の管楽器や打楽器を重ねて録音したものでサバトのような魔的な狂騒狂乱。断末魔のような翳廊の喉潰しの絶叫、何を言っているのかはわからない。
突如、すべてが止まり、静寂。
一斉に照明が輝き、ギタリストの性急な早弾き。マシンガンのようなドラムスの追撃。疾駆するデスコアDeath Coreだ。翳廊のシャウトはscreech.
またもいきなり演奏停止、照明が消え、再び翳廊へのスポットライト。ポケットから紙を出し、自作の詩を朗読。
「これで終わりだ」
そう言ってステージを降りる。スポットライトも消える。持ち時間は7分間も残っていた。ざわめき、皆が困惑している。何が何だかわからない。全部中途半端でまったく理解できない。
叭羅蜜斗が唾棄するように言う、
「相変わらずのナルシシストぶりだ。狂気を演じているのさ。
カリスマぶってな。
誰にも理解されなくてもいいっていう風のエンディングだ。燻し銀筋金入りを装っていやがる。へ、気色悪いぜ」
イタルが表情のない眼差しで言う、
「さ、行こうぜ。ステージだ」
vvwがステージに上がった。〆裂が向かって右、叭羅蜜斗が左に立つ。
イタルは正面のヴォーカルマイクの前に立ち、BLUES HARPの雄叫び。戦を告げる法螺貝のように吹き鳴らす.。だが背を向けて後奧へ下がってしまった。
「クヮドルプル・ヴィです。演奏します」
普蕭が慌ててマイクをつかみ、そう言う。
イタルはドラムセットの前にしゃがんだままだ。
叭羅蜜斗は苦々しい顔でイタルを振り向く。〆裂は構わずイントロを弾く。
普蕭がエイトビートを刻む。
イタル以外三人がコーラス。不自然に同じフレーズを繰り返す三人。痺れを切らした叭羅蜜斗がイタルに向かおうとした瞬間、面倒臭そうに立ち上がってそっぽ向きながらマイクの前に立つ。
曲のテンポに関係なく滅茶苦茶にHarpを吹く。叭羅蜜斗がベース演奏を止めたと同時にイタルが鋭くシャウトして歌う。〆裂がエフェクツペダルを踏んでターボ・ディストーションをかける。普蕭のドラムが息を吹き返したようにスピードを上げる。別の曲に切替わったことに気が附いた叭羅蜜斗が慌てて弦を爪弾く。
トリッキーなプレイだが、即興にしてはうまくいった。理由があった。古いブルースには音楽的な法則を無視し、イントロと本体とが別の曲を繋げたかのように、テンポなどが全く異なるものがある。すなわち練習でロバート・ジョンソンを演奏していた彼らには下地があったのだ。ちなみにエリック・クラプトンなどは「ロバートは囚われずに自由に弾いた」と賞讃する。
演奏は終わった。
「虚しいぜ」
イタルが呟く。背を向け、再びドラムセットの前にしゃがむ。
無料とは言え、今日の6時台の客は不運だと言わざるを得ない。ボジョレーヌーボーを好む人のようにこの新人コンペを好む常連がいるが、彼らとて失望しているに違いない。
叭羅蜜斗は普蕭を振り返って眼で合図した。予定どおり2曲目のイントロをベースで弾く。〆裂もポケットからスライドバーを出し、ボトルネック奏法を始める。指にバーを装着して弦をフレットに触れないように当てて弾く奏法だ。スライドさせ、ヴィブラートやグリッサンドを多用するのが普通。〆裂もその例により演奏する。ワウペダルを踏み、ワウワウ効果を加え、グニャグニャした音を噴出させる。
イタルがギターを持って立ち上がり、腕を大きく旋回させて6つの弦のすべてをピックで打ち下ろす。雷鳴のような轟音が響く。曲に関係なく、イタルはその霹靂を乱発した。叭羅蜜斗の開いた口が塞がらない。
普蕭には雷霆神が叢雲と霹靂とを伴って突如現われ、稲妻の閃光が桜花爛漫のごとく散り乱れたかのように感じられた。
「 I’ve got blues! 」
イタルが歌う。
〆裂がその曲のリフをかき鳴らす。叭羅蜜斗がパンク風に唾を吐き、自棄糞気味に弾く。イタルはHarpで空間を切り裂き、〆裂が大きくチョークアップした弦をスローにダウンさせながら烈しくオルタネイトピッキングする。
普蕭と眼を合わせた叭羅蜜斗の顔に笑みが出る。
そのときだ。
イタルがHarpでギターの弦をかき鳴らす。破滅的なノイズ。さすがの〆裂も眼を剝く。普蕭もだ。しかし怒鳴ろうとする叭羅蜜斗が凍りついた。
イタルはギターを振り上げ、振り下ろす。数千万円のスピーカーや数百万円のアンプにだ。電気的破壊音の炸裂。八木沼が席を立って怒鳴り、ステージに上がる。制止を振り切り、イタルは狂ったようにギターでハイエンドモデルの音響機器を次々叩く。破壊する。往年のジミヘンやザ・フーもこれほどまではと思わせる狂行。
その後の惨状は凄まじかった。八木沼は憤怒で血管を浮き立たせて赤黒くなり、vvwのメンバーに怒号し続け、客は全部退出、その日のステージはもちろん、ライブハウスは当面営業中止とせざるを得ない。
普蕭は真摯に謝罪し、弁償を約束し(眞神村の天平家の人間である普蕭が言うことなので八木沼もその実行性を信用した)、8時にBSを出た。
暗い路地で叭羅蜜斗が大激怒。
「もううんざりだ。オレは辞めるぜ。こいつには附き合ってらんねーっ! あったりめーだろ、わかるだろっ、当然だろがっ!
この発狂ヤロー、てめー何したかわかってんのか、バンド皆が当分演奏できなくなっちまったんだぞ? 若い無名バンドの味方してくれてる八木沼さんに何千万以上もの凄い損害を与えちまったんだぞ! くたばれや、クズ野郎っ!」
イタルは無表情だった。
「そうさ。So What? 小せぇ野郎だな。パンクにゃ向いてねーぜ。馘になって大正解だったな。ふ」
「て、てめー、何だと、このヤロぉー」
普蕭は十数人に囲まれていることに気が附いた。暗がりに浮かぶシルエットから他のバンドの面々であることがわかった。
「おい、アヴァンギャルド気取りカリスマ気取りか、クズ野郎ども。顔貸しな」
裏路地の狭く暗い峡間で袋叩きになって、反吐と生ゴミの腐汁が浸み込んだアスファルトに頬ずりさせられた翌日、vvwのブログは大炎上した。
〆裂でさえ登校が憂鬱だった。顔が絆創膏だらけでもあるし。
「おい、イタルを見たか?」
昼休み。腕を吊った普蕭は廊下で会った叭羅蜜斗に訊いた。叭羅蜜斗は喧嘩慣れしているので怪我が少ない。
「いや。
あのヤローのことなんざ、考えたくねー」
「そうか。
スマホに電話しても留守電になってしまうんだ・・・」
放課後、〆裂が普蕭に言う、
「いなかったな。とうとう来なかったんだ。
まさかあいつが・・・ちょっと考えられないんだが。俺も彝之家、親戚だからな、家族に後で訊いてみるぜ」
数日、いや数週間、イタルは姿を見せなかった。その無責任で卑怯な逃避行動に非難が集中しまくった。むろんネット上のことだが。
「こんなことになってるなんて知りもしねーんだろな、あいつ」
久々に駅で会った叭羅蜜斗がそう言った。バンドは事実上の解散状態だ。
普蕭は考えた。
「いや、イタルもネットは見ているはずだよ。しかし気にしてないか、むしろ望むところってことなんだろう」
「そうだな。ありそうな話だ。だいたい、家にいればネットぐらい見るよな」
「いや、自宅にはいないようだが」
「行方不明か?
家族には訊いてみたのか!?」
「むろんだよ。
いや、〆裂が訊いてくれたんだが。
イタルの家族に尋ねても、またぶらりとどこかへ消えてしまったよって言うばかりのようだ。
でもBSの件はイタル本人から聞いているらしい。弁償費用のことを八木沼さんに電話しましたとイタルの母親が言っていたよ。八木沼さんは刑事事件にする気はそもそもなかったらしい。
ほんと、いい人過ぎて申し訳ないよ。警察へも連絡してないみたいだ。
それより事件のことを親に言ったときのイタルの言い方がいかにも彼らしくて。『吃驚させちゃ悪いから教えておく。ふ。俺にもまだ人間的感情があるらしい。ち、ざまあ見やがれ。ぐだぐだ言わずに三千万貸しな。ふ。弁償せず踏み斃し逃げるか。諸行は無常だしな。あゝ、海賊船に身売りして稼ぐでもいい。死ぬほど辛いだろうさ。クールだぜ』
って感じだったらしい」
「ちっ。生きる資格もない穀潰しだぜ」
「彼には孝行とか社会道徳なんて数字の羅列ほどの意味もないんだろうな」
「親が甘やかし過ぎなんだ」
「そうでもないだろう。
あの家はかなり厳しいはずだ。何てったって彝之家だからね。
イタルみたいな、よく言えば超越的な、ああいう人間が出るのも、そのせいなんだろうなって思う。
〆裂だって幕末の脱藩浪士みたいな雰囲気じゃないか。きっと、彝之家の血がそうさせているんじゃないかって、僕はよく思うんだよ」
幾日かが過ぎ、ある土曜の夕、古いハイラックスに乗った若い男が普蕭を訪ねて彼の家に来た。南方系のくっきりした眼に、髪も髯もカールしていて日に焼けて痩せ過ぎで、Tシャツにビンテージ物のリーヴァイスの若い男だ。
「白舟寛太嘉って者です。楽器を車に積んで全国を回っていたんです。
ユーチューブ見て来ました」
「ユーチューブ?」
「ツイッターで紹介されてたんで、見たんです。
ブラウン・シュガーでのライブです」
どうやら誰かが動画を撮っていて、ユーチューブにアップしたらしい。ネット上は叩きの嵐だが、肯定的な人もいるのか? それとも晒し者にしてるってことか?
ちなみに寛太嘉はを見る限りにおいては肯定派らしい。
「あなたが来た意味がよくわからないんだけど・・・・・」
「いや。自分もよくわからないんです。
ただ凄いな、どんな人なのかな、って思って。
八木沼さんのところへ行ったら、天平家の君の名を教えてくれて」
聞けば彼は十九歳で二つ年上だ。白舟という姓は眞神の古い姓の一つで、畝邨村の出身ということだった。
「せっかく来てくれたのはうれしいんだけど、あの一件以来解散状態なんだ。
イタルも行方不明だし」
「他の音源や動画なんかありますか?」
「練習中の録音や録画はあるけど。そんなものでいいのなら。
じゃ、スタジオに」
寛太嘉は二時間ばかり色々観たり聴いたりし、
「実は自分はインターネットとか詳しくないんで、今度、妹を連れてきます」
「何のために?」
「この音や映像をアップしたいんです。
いや、もしあなた方がよければ」
白舟まあやは十四歳、普蕭らの三コ下で、畝邨中学校の二年生だった。兄とともに翌土曜日にやって来た。
「ネット環境は整っているから。どうぞ。好きに使っていいよ。データは全部このPCに入ってる」
普蕭は簡単にそう説明した。少女は黙って頷き、持参したノートパソコンと普蕭のノートパソコンを立ち上げ、作業にかかった。痩せ過ぎの浅黒い幼い体、垂直の長い黒髪、切り揃えて眉を隠す前髪の下、眼が細く切れ長で、七月も近いというのに少女は長袖と長いスカートを穿いていた。
「愛想のない奴なんです」
寛太嘉がおどけた苦笑でフォローした。
作業の間、〆裂がギターを弾き、寛太嘉はコンガを叩いてセッションした。合間に普蕭がまあやに説明する。
「この曲はほぼ完成しているけど、まだタイトルがないんだ」等々。
今日vvwの画像や動画や録音が数多く残っているのは、彼女の功績であると言っても過言ではないだろう。
寛太嘉が〆裂に訊いた。
「もうやらないんですか」
〆裂は窓の外の青い空を見上げた。
「いや。
イタルが帰って来たらまたやるさ。
どういうかたちであれ」
「そのときは協力しますよ。どんなことであっても」
七月の初旬、久々に登校してきたイタルは顔を包帯でくるんでいた。
誰もが怪我が長引いているのだと思った。
イタルは教室で包帯を解いた。
驚愕の声が上がる。
鯱のように尾を上に、頭を下に、溯縦つ蒼碧紺青の龍神が精緻に彫られていた。
和彫の刺青。
その鱗一つ一つの細密さは星のように鏤められた貴金貴石のように燦煌し、喩えようがなく、言語を絶していた。イタルは頭髪の左半分を剃っている。
青き神龍の尾が左耳朶下に始まっていた。それは鯉の鱗をびっしり備え、黄河のようにうねり、左耳尖の後辺りで二つの輪を為す。顱頂左半分に左右の後脚が五爪の鷹爪を広げていた。掌は虎だ。
蛇身の胴体を捻りながら輪を為しつつ頭頂左部をぐるりと繞り、蜃(蜃とは龍の一種で、みずち(虯)とも言うが、ここでは分別する)なる腹を見せ、また鬣靡く背を見せ、額を亨り、左眉を断ち、左上瞼から左下瞼に於いて左右の前脚を広げ、熊掌と鷹爪を開き伸ばして威嚇する。
首は左頬を稲妻裂くように伸び、左顎を廻って喉仏の左に鹿の角、駱駝の頭、牛の耳、赤い鬼眼(兎眼)を憤神のごとくかっと見開き炯らかに赫かせ、長髯を流旗のよう雲気に靡かせ、爛れ熾える炎のような口を裂くよう開けて牙を見せていた。しかし喉下にある一尺四方の逆鱗は見せない。
青龍の刺青を、しかも顔面に。顔の半分を覆う刺青。
誰もがいくら何でもそこまではやるまいと思うようなことをイタルは軽々と遣って退け、平然と、いや、平然と言うより、畜群を憐れむかのような眼差しで、皆を見ている。
級友ら全員が刮目し、眼を睜った。あ然として誰も何も言えない。凄過ぎて何も言えない。担任教諭が教室に入ってきた。
いつもどおり教壇に立つ。
「おい、おまえたち、始業のチャイムは鳴ったぞ。着席しろ」
生徒たちは席に着いたが、イタルは背を向けて立っていた。
「おい、彝之か。
本当におまえか。
そんな髪色の奴は、おまえしかいない(髪型はだいぶ変わったが)からすぐわかるぞ。やっと来たのか。皆で心配していたんだぞ。・・・・・・・なるほど。おまえが来たからか。
それで皆が着席していなかったのか。病気だったと聞いていたが、ご両親が詳しいことは教えてくれなかったんだ。
いったい、どうした?」
イタルは振り返った。
「ぅわぁっ! 何だっ、それは!」
岡崎教諭は腰を抜かした。どう考えても化け物でしかなかった。
一時限目は自習となり、イタルだけ英語教科室に呼ばれ、小さな丸椅子に座らされた。
「わかっているのか。18歳未満のおまえが墨を彫るのは条例違反だ」
「わかってるよ」
「それは本当に彫り物なのか、絵の具じゃなくて」
「見てわかんねーか?
よく教師になれたな」
「一生そのまんまなんだぞ、そんなんじゃ、どこにも受け入れてもらえないんだぞ、よく考えたのか。おまえ、本当にとんでもないことをしちまったな・・・・・・
彝之、おまえはいつまでそうやって生きていくつもりなんだ」
「長くは保たねーだろな」
「わかっているのなら、そろそろやり方を変えろ。
先生の言っていることわかるな」
「わかっちゃいるがね」
校長や教頭と相談の結果、親が校長室に呼ばれ、期限を設けない自宅謹慎となった。