成熟する後悔
僕は畑に実っていた野菜に手を伸ばし一口分齧った。
口の中に毒のような痛みが広がった。
ああ、吐き気がする。
どうしてこのトマトは、味がしないんだろう。
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僕は比較的平凡な家庭に産まれてきたらしい。
子供の頃は自分の家が
貧乏が裕福かなんて極端でなければ自覚することもない。
それでも他と較べると裕福な方だったと思う。
父方の祖父母と隣居していたため
家そのものは大きかったし
庭にはオリーブの木が数本生えていた。
まあ庭と言ってもかけっこして遊べる広さでもなかったし
祖父が小さな畑に種を植えて野菜を作っていたため
庭で遊んではいけないと躾けられていた。
それでも僕は一回だけ、たった一度だけ
弟と一緒に庭でボール遊びをしてしまったんだ。
六歳の誕生日にボールを買い与えてもらった弟は
よほど嬉しかったのか僕に一緒にボール遊びを庭でやろうと誘ってきた。
物心つく以前から祖父に庭では遊んではいけないと煩いほど叩き込まれてきた。
だから僕は弟に向かって庭は野菜を植えてるから駄目だと言ったんだ。
それでも素直に話を聞くような年齢ではなかった弟は
ずっとボール遊びがしたいとぐずっていたんだ。
ああ、静かにしてくれないかな。
僕が無視するようになってから数十分してもまだぐずっており
埒が明かなくなった僕は祖父が家中に居ないことを確認してから
弟を庭に連れ出してしまった。
庭の中にはパスの練習をできるスペースが辛うじてあったため
弟と一緒にボールを蹴って遊んでいた。
勿論、最初は野菜畑の方にボールが飛んでいかないように
細心の注意を払いながらボールを蹴っていたのだけれど
遊んでいる内に徐々にボールを扱うのが上手になっていく
弟に少々嫉妬してしまった。
僕がボールを蹴っても真っ直ぐ飛ばないのに対し
弟のパスはとても正確で僕に向かって一直線にボールが飛んできた。
そして弟は僕に向かって
「お兄ちゃん、へったくそー!」
なんて、馬鹿にしてきていた。
そんな幼い子供の戯言なんて無視すればいい
そう思っていたのだけれど
その頃の僕は精神が成熟していなかった性だろうか
弟の言葉を真に受けてしまったんだ。
僕は、弟の煽り言葉を無視できるほど大人ではなかった。
僕は兄の威厳を保つために
弟に対抗しようとして足に力を加えてボールを蹴った。
「あっ。」
蹴っているうちに出来た土の窪みに足を取られた僕は
全く別の方向にボールを蹴ってしまい、ボールの軌道が変わってしまった。
やってしまった。
まずい、と僕は思ったけれど
思っただけではボールの軌道が変わってくれるはずもなく
ボールは祖父の畑のど真ん中に着地してしまった。
「お兄ちゃん、どこけってんのー!!」
弟は笑いながら言っていた。
そんな弟の声なんて、僕の耳には入ってはこなかった。
僕は慌ててボールを拾いに行った。
土だらけのボールを手に取り、ボールの着地地点を確認した。
ボールが着地した場所に在ったであろう
トマトの芽が折れてしまっていた。
祖父が大事に育てていたトマトの芽が。
畑の他の場所を打ち見るとトマトの芽が真っ直ぐ伸びていたのだけれど
僕が蹴ったボールが着地した場所のトマトの芽だけが
生命を失ったようにポッキリと折れてしまっていた。
もう一生、上に向き直ることはない。
二度と成長することはない芽。
その原因は僕なんだ。
僕がその芽の命を奪ってしまったんだ。
自責の念に駆られ、目の前の状況から
意識を逸らそうとして唖然とする僕を横目に
事の重大さを理解していなかった弟は、僕に言った。
「ねぇ、お兄ちゃん。」
「ボール遊びのつづきしようよ。」
そんな無責任な弟の言葉に、幾分苛立ってしまった事に
僕は自分自身が情けなくなってしまった。
こんな状況になってしまったのは
庭で遊ぶことを許可してしまった僕の責任なのに。
調子に乗ってしまった、僕の責任なのに。
これは、そんな僕に対しての罰なのかもしれない。
僕は生気を失ってしまったような
か細くて聞こえないような声で弟に言った。
「ダメだ...駄目なんだ...。」
「もうボール遊びは止めにしよう...。」
「きこえないよー。」
「おにいちゃん、なんていったの。」
「もう家に戻ってろ!!!」
僕は耐えきれず、弟に叱責してしまった。
ああ。僕は最低なお兄ちゃんだ。
祖父が帰宅する前に
折れてしまった芽を何とかしなければ
そう思い立った僕は直ぐに行動した。
普段は鈍間で宿題などの物事を後回しにしていて
家族から怠け者と呼ばれていた僕でも
こういう時だけは行動が速かった。
折れてしまったトマトの芽を抜き取って庭の土中に埋めて
庭の隅に生えていたトマトの芽によく似ていた
雑草を数本抜き取り、畑に植え直した。
元気に育っているように見せかけるために芽の角度も調整した。
遠目から見れば違和感は感じられなかったし
取り敢えずはバレる心配はないだろうと
思えるほどには取り繕えた野菜畑を見て僕は安堵した。
ああ、どうにか祖父に、バレませんように。
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翌日の朝にいつもより早く起きた僕は
二階にある自分の部屋の窓から
庭の様子を覗いてみた。
この時間には、いつも祖父は畑に水をやっている。
毎日健康的な生活を送っていた祖父は、もう庭に出ていた。
水栓柱にホースを繋げて、野菜畑に向かって水を撒いていた。
そんな祖父の姿を見て何とか誤魔化せたことに
僕は再び安堵した。
祖父母は僕が産まれた頃から隣居していて
その時にはもう祖父は定年間近だった。
僕が小学生になった頃には年金を貰っていて
生活の大半を家で過ごしていた。
まあ、祖父の口癖は
これっぽっちの金で、どうやって生きていけって言うんだ。
という、年金に対して文句だったのだけれど
それでも祖父は優雅な老後ライフを送っていた。
老後ライフと言っても
仕事一筋で趣味が無かった身
働く必要が無くなった事で時間が余る日々で退屈になってしまい
廃人一歩手前の生活になってしまうこと憂慮した祖父は
誰も使わずに雑草が生い茂っていた庭を使って野菜畑を作ったらしい。
そこから、祖父は園芸に目覚めた。
野菜を育てることは
堅実な祖父の性に合っていたようで
毎日の水やりを欠かさずに大切に野菜を育てていた。
そんな祖父の唯一の道楽である園芸を邪魔することは
激しく叱咤されるに違いない
バレてしまった時の事を考えると憂鬱になってしまう。
それでも僕は、もし....もし祖父に芽を折ったことがバレてしまっても
僕は弟がやってしまった事にしてしまえばいいと考えていた。
弟は僕と違って明るくて愛嬌があった。
いつもニコニコしていて周囲に愛想を振りまいていたから
当然祖父からも祖母からも可愛がられていた。
無論、不愛想な僕なんかよりも愛されている筈だ。
もし、叱咤されてしまうとしても
弟の方が幼いし必然的に優しい叱り方になるだろうと
僕は小さい脳みそで必死に言い訳を考えた。
そもそも元々はボール遊びをしようと誘ってきた弟が原因なんだ。
悪くない。僕は悪くないんだ。
僕は自分を洗脳をするように自問自答した。
でも、もう何も
戻ることは無かったんだ...。
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あの日から二か月程度経過しただろうか。
もう季節は桜の気配が散って夏に切り替わった。
蝉の鳴き声が耳障りになる季節だった。
突然の事だった。
祖父が心不全で亡くなってしまったのは
いつも通りの普遍的な日々だったのに
本当に、突然の出来事だったんだ。
呻き声を出しながら家のリビングで倒れていた祖父を
発見した母親が連絡をして
数十分後には救急車で総合病院まで運ばれたのだけれど
その時には既に祖父の心臓は動いていなかった。
長年の労働に憔悴したのか健康だったはずの
祖父は急にポックリと逝ってしまった。
それは、あの日僕が潰してしまったトマトの芽のようだった。
本当に祖父が健康な容態だったのかは分からない。
何か持病を持っていたのかもしれないし
病気を家族に隠していたのかもしれない。
だとしても、あの日から祖父は居なくなってしまったんだ。
祖父が死去してしまった数日後に
祖父の葬儀・告別式が行われることになった。
葬式には、家族のみで参加した。
そこで棺桶で健やかに眠っていた祖父を見た。
皺の多い顔に傷一つない姿で棺桶の中で眠っていた。
ああ、僕はどうしてもっと
祖父と会話をしようと思わなかったんだろう。
後悔が募り、頭の中を支配する。
祖父が死んだ日、僕は母親の叫び声を聞いてから
何かあったのかと思って
自分の部屋から廊下へと出た。
僕に釣られて部屋の外に出てきた弟を
危ないかもしれないから。と言って
部屋の中に押し込めてから現場へと駆け付けた。
最初は何が起きたのが理解出来なかった
騒ぎ立てる母と目に涙を滲ませながら
祖父の名前を連呼する祖母が居た。
母は携帯の画面を割れてしまうのではないかと思わせるほど
強く叩いていて、何処かに連絡をしようとしていた。
ああ、何故だろう。
少し、生臭いのは。
刺激的な匂いが、鼻孔を擽った。
ああ、何故だろう。
祖父が赤い液体の中、床で寝ていたのは。
まだランドセルを背負って間もない頃の僕には何も分からなかったんだ。
それでも何か悪いことが起こっている事だけは理解できてしまった。
だって、祖父は息をしていなかったから。
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棺桶の中に居た祖父が
スーツの様な物を着ていた大人数人に運ばれてベッドの上に寝かされていた。
そして、祖父がよく分からない機械の中に入っていった。
家のキッチンにある電子レンジによく似ていた気がする。
祖父がその機械から出てきた時には
もう祖父は居なくなっていた。
ベッドの上には血も肉も祖父の面影も無くなっていた。
そんな祖父の代わりに骨だけが残されていた。
僕は母親と手を繋ぎながら、その様子を観察していた。
母親の手には、じんわりと汗が染みこんでいた。
「おじいちゃんは何処に行っちゃったの?」
「ねえ、お母さん。」
「これは何なの?」
僕はベッドの上に在った白い塊を指差した。
それでも、母親は何も答えてくれなかった。
僕は、何も返事をしてくれない母親に痺れを切らして
母親の隣に居る祖母にも聞いてみようと思ったのだけれど
祖母は僕なんか視界の片隅にも入れていないようだった。
ただ一点、白色の塊にだけ視線が釘付けになっていた。
祖母の足元に雫が落ちるほど
彼女の手元に在ったハンカチが濡れていた。
ハンカチの濡れ具合は、目元に移る度に徐々に増していく。
そんな状態の祖母に聞く事なんて出来るはずがなかった。
僕は母親に抱きかかえられてトングの様な物を持たされた。
そして僕はベッドの上に在った白い塊を数個
箱の中に入れさせられた。
全ての白い塊を箱に入れ終わった後
突如として母親の哀哭が式場を包み込んだ。
恐怖を感じ瞼を閉じて視覚を遮断しても
母親の叫び声が寄生虫の様に耳朶を這い
耳の中で母親の鳴き声が反響した。
聴覚の感度は徐々に上昇して行く。
厭悪感が増して行く。
僕は何故母親が泣いているのかが理解出来なかった。
それでも僕は
そんな母親の泣き声を耳に入れたくなかった。
そんな母親の醜い姿を見たくなかったんだ。
視覚と聴覚を封鎖するように
自分を守る為に何も感じていないフリをしていたら
母親の存在さえも曖昧になってしまった。
数分経過すると母親の慟哭の程度は治まっていた。
無音の世界になり、僕は恐る恐る目を開けた。
母親は生気を喪失してしまったような顔で
只単に僕の瞳を凝視していた。
母親は僕の事を再び抱擁してくれた。
母親の愛は抱擁の強さで痛いほど伝わって来るのに
背中に回された腕の圧迫感が心地良いのに
何故か僕は母親の温かみを感じることは出来なかったんだ。
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その日から家に祖父の写真が飾られるようになった。
写真立ての中に入っていた祖父の写真は
普段は絶対に見ることは出来ないであろう
曇り一つもない満面の笑みだった。
いつも真面目で厳格な祖父だったのに
祖父はこんな風に笑える人だったのか
そう気づいた時には、もう全てが遅かった。
祖父の本物の笑顔をこの先一生見ることは出来ない。
その思いだけを胸に僕は祖父の写真の前で手を合わせて礼をした。
合掌後に僕はリビングの窓から庭の様子を打ち見た。
庭では弟が誕生日に買って貰ったボールで
リフティングの練習をしていた。
庭に在る野菜畑には
先週まで祖父が大切に育てていた。
トマトの実が紅く染まっていた。
全てが真っ直ぐ太陽に向かって伸びていた。
畑の中にある空白のような
あの日から時が止まってしまった。
在る一点だけを除いて。