どっちの夢?
夢とは奇妙なものだ。脳が処理しきれなかった記憶の断片や、無意識に追いやられた秘めた自分の欲求が見え隠れする、支離滅裂で箱庭のような狭い世界。そこで朝まで踊らされるのだ。夢の中だとも気付かずに。
しかし、今夜は違う。見上げた空は雲さえも塗りつぶしたかのように真っ白で、その光がまるで電灯のように煌々と世界を照らしている。周りを取り囲むビル群はやや反るように曲がっており、おれを見下ろしているみたいだ。
ここは間違いなく夢の中。そう、これは明晰夢だ。つまり今宵は、おれがこの世界を好き放題していいってことだ。これは心躍るというもの。さてさて……。
「きゃ!」
「いや!」
「なに!?」
あらあら、女たちをあれよあれよという間に下着姿におやめなすってお殿様などと「おい」よいではないか、よいではないか。ピッチリタイトなスーツで尻を強調しおって、ここは品川のオフィス街か? 一度しか行った記憶はないが、こんなけしからん女はいなかったぞ。「おい!」いや、ビル群はおまけで、こういったスーツを着た女を好き放題するのが、おれの願望か――
「おい! お前!」
「ああ? なんださっきから」
おれは女から手を離し、先ほどから声をかけてきていた男と向き合った。
見覚えがあるような、ないような……いや、ないな。少なくとも近しい人物ではない。おれの蛮行を咎めに来たのだろうが、ああ、腹立たしい。女たちがピューっと遠くへ逃げてしまったではないか。あの女たちと知り合いでもないだろうに、おれは何も関係もないくせに正義感を振りかざす奴が大嫌いなんだ。
では、こういう奴を一度、ボコボコにしてみたいという願望から、こいつは夢に現れたのだろうか。あるいはおれの良心が男の姿をとって現れたのか。夢とはいえ、あまり社会規範に反することをするんじゃないと、警告しに来たのか。
「おい、なに、人の夢の中で好き放題してやがるんだ」
「……は?」
「これは俺の夢の中だぞ! 調子乗ってんじゃねえよ!」
これは、どういうことだろうか……いや、わかりきったことだ。夢にありがちな混沌、カオスだ。
「わかったら、その辺で蹲って虫でも探してろ。馬鹿、ハゲ、小太り、クソ、ゴミカス、ボケ――」
と、罵倒を続けるこいつは、おれの……なんだ? マゾヒズムか? 現実世界で不甲斐ない人生を送るおれを非難しているのか。おれは自分に罰を与えたいと無意識に思っているのか。いやいや、それにしたってひどい言い草だ。おれは傷つきやすいタイプなんだ。ちょっとくらい羽目を外したっていいじゃないか。たまには楽しませてくれよ。夢なんだから。
おれはそう思い、男に言った。
「なあ、おい。その辺にしてくれよ。これはな、おれの夢なんだぞ」
「は? お前、何言ってんだ?」
「だからね。あんたはおれの夢の中の登場人物なんだ。おれが主。まあ、謙らなくていいし、思い通りにならなくてもいいけどさ、邪魔はしないでくれよ。それくらいいだろ?」
「は? いやいや、これは俺の夢だから」
「ああ、いいからいいから。もうわかったから、あっちに行っててくれよ」
「いや、よくねえんだよ。俺の夢の中で、俺以上に好き勝手に振る舞われるのは腹が立つんだ。せっかく女の子たちがいるのによぉ」
何やら妙な感じがしてきた。しかし、こんな風にものを考えられるということは、これはおれの夢で、おれが主役であることは間違いないはずなのだが、目の前のこの男、どうも……そう、人間味があり過ぎるのだ。
「いいか、よく聞け。俺の名前とそれに住所は――」
男の話を聞いたおれは驚いた。いや、夢なのだから名前や住所を言われても、それが本当なのか判断はつかない。しかし、今現在の仕事や、ついこの間あった出来事など、こいつが語るその全てがリアリティを感じるものばかりなのだ。
「い、いや、ここはおれの夢のはずだ……」
「はず? はずだと? ほうら、自信がないんだろう。ここは俺の夢なんだからな」
おれは動揺した。確かに自信がなくなってきた。
「なあ、あんた、さっきからそんな風に棘のある言い方ばかりしないでくれよ。喧嘩は好きじゃないし、傷つくんだよ……」
おれは男にそう言った。説教を食らった後のように気分はすっかり萎えていた。
「ん、何だよ、ナヨナヨしやがって。まあ、すまなかった。いや、しかし、夢の中の登場人物に謝るなんて、でも、うーん……」
と、どうやら向こうも自信がなくなってきたようだ。そういうおれも『向こう』だなんて、この男をもう夢の中の有象無象ではなく、一人の人間として認めつつある。これが妙で、そして恐ろしかった。
どちらの夢かは覚めてしまえばわかることだ。しかし、もしこれがおれの夢でないとすれば、この夢の主、つまりこの男が目覚めた瞬間、おれは恐らく死ぬ、いや元々生きていないのだから死ぬというのは変だが、とにかく消えてしまうような気がする。
もっとも、ここが奴の夢の中なのなら、おれが何をしようとも消えることは決まっているが、しかし、どうも今抱いている、このあやふやな感覚。綱引きをしているような、そう、ここが奴の夢と認めてしまえば、たとえそうではなかったとしても本当にそうなってしまうような気がしてならないのだ。
で、あるならば……と、どうやら奴も同じ結論に至ったらしく、目に力が籠るのが見えた。
「これは俺の夢だ」
「いや、おれの夢だ」
「俺ー!」
「おれー!」
「殺してやるのだ」
「決断が早い。まずは論じるべきだ」
おれたちはお互いのこれまでの人生、そのエピソードを詳しく話し、いかに自分が本物の、血の通った人間かを熱弁した。
お互いに相手の話の矛盾を突こうと躍起になったのだが、しかし、話せば話すほど聞けば聞くほど、どちらも生きた人間としか思えなくなってきた。
「うーん、これはもう、わからない。いや、俺の夢のはず……」
「ああ、平行線だな」
おれはため息をついた。すでに結構、時間が経ったように思う。目を覚ます頃合いだ。だから、おれは男に提案してみた。
「では、せーので目を覚ましてみるとかどうか?」
「まあ、それしかないな。強く念じれば目覚めるはずだ」
「でも、できれば」
「ああ、わかるよ」
話し合ううちに、おれたちの間には奇妙な友情が芽生えていた。口には出すまいが、しかし、できることなら二人とも現実に生きている人間であってほしいとおれは願った。
「せーの!」「せーの!」
おれは目を閉じ……そして……開いた。ああ、その先に世界があった。体の感覚がある。おれはあれがおれの夢の中だと分かり、ホッとした。ただ同時に、胸の辺りで重たい感情が身じろぎしていた。ああ、あの男は消えてしまったのだろうか。恐怖はなかっただろうか。また会えるだろうか。そうだ、もし、またあの男と夢の中で会えたら、今度は二人で女たちと遊ぼう……と、いや、あれ?
「そもそも、ここはどこ……え、病院か?」
「え、その声は……」
「え?」
その声に、おれが顔を横に傾けると、そこにはあの男がいた。ともにベッドの上で顔を見合わせ、目を丸くした。部屋の感じからしてここは病院で間違いなさそうだった。
「あんた、現実に生きていたんだなぁ」
おれはそう言うと涙が出そうになり、顔をそっと天井に向けた。「ああ、あんたもな……」と相手も心なしか涙声でそう言った。
「しかし、あれは一体どういうことなんだろう……」おれが訊ねた。
「わからない。……いや、口に出すのがちょっと恥ずかしいが、二人の夢が合わさったのではないだろうか」
「そんなことが起こるのかな」
「だから恥ずかしいと言ったんだ。科学的根拠も何もない」
「でも脳は未知だというし、その脳が見せるものなのだから、まあ、そういうこともあるのかもしれないな」
「ふふっ、だな。でも、なんで俺は病院に……」
「ああ、それはおれもだ。なぜ……」
「あっ」「あっ」
「あ、お前、あの車に乗ってたやつか!」
奴がそう言った。そうだ、全部思い出した。間違いない、運転していた車が正面衝突し、そしてこの男はその相手の車の運転手なのだ。
「あ、あんたこそ! あれはそっちが赤信号だったろ!」
「はっ! 信号なんてなかったね。適当なこと言うんじゃないよ。ボケが」
「あんた、現実でも口が悪いな。友達もいなさそうだなぁ」
「ふん、友達なんてガキみたいなこと言うんじゃないよ。ああ、夢の中でもエロガキみたいだったしなぁ」
「そ、そっちだって同じことしようとしてたんだろうが!」
「そうだ、でも結局できなかったし、それも全部、お前のせいだ!」
「いーや、事故も何もかも、あんたが悪い!」
「いや、お前だよ!」
「あんただ!」
「お前だ!」
「うるさい! 人の夢の中で、なに喧嘩してんだよ!」
おれたちはその声がした方へ顔を向けた。そこにいた男が、ここは自分の夢だと主張し始め、おれは訳が分からなくなった。事故の影響のせいか、頭がぼんやりする。いや、それはここが本当に夢の中だからだろうか。でも、うっすらと眠気もある。しかし、眠れるとして、そうしたら、おれはどこへ行くのだろうか……。