>>> 後編
「……え? ベアトリーチェ?」
最初に声を発したのは母でした。
「……ど、どういうことだ? べ、ベアトリーチェは?」
父の声も戸惑いに染まっています。
そんな両親をしっかりと見て、わたくしは返事をしました。
「はい。お母様、お父様。
わたくしが、ベアトリーチェですわ」
その言葉を聞いた両親は一気に青褪め震え出しました。
「ち、違うっ?! 違う!!
お前はベアトリーチェじゃない?!」
「どういうことだ?! ベアトリーチェは!? 私達の娘はどこに行った?!」
騒ぐ両親に悪魔がニッコリと笑い返しました。
「何を言っておられるのですか?
あなた方の娘はここにいるでしょう?
あなた方の娘、ベアトリーチェが」
悪魔の言葉を受けて、わたくしも両親に向けて微笑みました。
魔法陣が発動する前と変わらないエカテリーナの顔で。
変わったのは立っていた位置が少しだけ横にズレている事でしょうか。
当然、妹は『わたくし』になったのですから、エカテリーナが立っていた場所には誰も居ません。
「違う!!!」
「お前はベアトリーチェじゃない!!」
騒ぐ両親にわたくしは困って首を傾げました。
「そう言われましても……わたくしはもう、ベアトリーチェですわ。
皆様が望んだ通りに」
その言葉に母の顔からは血の気が失せ、父の顔は絶望に染まりました。
そんな両親に悪魔が優しく声を掛けます。
「願いは、『エカテリーナの全てが欲しい』でした。
ね? だから、
エカテリーナの全てをベアトリーチェに与えたんだよ」
楽しそうな悪魔の言葉がやっと理解できた両親が膝から崩れ落ちました。
そう、これがアナタたちが望んだこと。
わたくしの全てを望んだ妹は、わたくしの全てを手に入れて、
わたくしになったのよ。
◇ ◇ ◇
全て、全て、と言う言葉がずっと気になっていました。
『全て』とはどこからどこまでを指すのか。
1から10まであって、その、1から10まで全てを入れ替えた時、それは元あった物と同じだと言えるのでしょうか?
そんな疑問を持っていたわたくしは自分が消える期待と、こうなることもあるのだろうと思っていました。
──姉の全てを手に入れた妹は、わたくしになる──
答えは……わたくしの予想通りでした。
『愛するベアトリーチェ』を失ったと気付いた両親が泣き叫んでいますが、そんな両親に悪魔は優しく声を掛けます。
「どうして泣いているんです?
あなた方とその最愛の娘様が望んだ通りに願いを叶えて差し上げたでしょう?」
「こんなことは望んでいない!!
望む訳がない!!!」
「そうよ!! 娘を返して!!
わたくしのベアトリーチェを返して!!!」
「おかしなことを言うご夫人だ。
あなたの娘のベアトリーチェ嬢は目の前にいるでしょう?」
悪魔の言葉にわたくしも続きます。
「えぇ、お母様。わたくしはベアトリーチェですわ。
お姉様の全てを貰ったベアトリーチェですわ」
お母様に向かってニッコリと微笑めば、お母様は白くなった顔を更に絶望に染めて悲鳴を上げました。
「違うわ!!!! 違う!!!!
ベアトリーチェは!? わたくしの娘はっ!! 違うの?! そうじゃっ……! そうじゃないのっ!!!」
顔を両手で覆って床に頭を付けるようにして母は頭を振りました。違う違うと騒いでも、悪魔はちゃんと『妹の願い』を叶えたのです。今更騒いでも……
「おかしいだろう!?!」
父が叫びます。
「なら娘はどこに消えた?!
私の娘だ!! ソレではない方の娘だ!? 今までそこに居た娘はどこに消えた?!!!」
悪魔を射殺さんばかりに睨んで父は訴えます。しかしそんな目で見られていても悪魔は涼しい顔で微笑んでいます。
「困ったなぁ。何を言っているのか分からないよ?
消えた? 消えてはいないだろう?
消えたのは『望まれなかった姉』の方だ。
ちゃんと全て奪われて、居なくなった。
あなた方の娘様はここにいるじゃないか? 目の前に。
願い事を理解していなかったのかな?
『全てが欲しい』と、彼女はそう言ったんだ。
だから『姉の全てを奪って』、
彼女は、
『姉になった』んだよ」
子供に諭すように、優しい声で、ゆっくりと語った悪魔の言葉に、父は両目を目一杯に開き、その言葉の意味をやっと受け入れたようでした。
「あ、……そ、そんな………そんな…………」
「違う……、違うの…………ちが……」
床にへたり込んだ両親が生気の無くなった顔で小さく呟くばかりになってしまいました。
自分たちの望みが叶ったというのに……
◇ ◇ ◇
浅はかな両親はこうなってしまってもまだ、自分たちの落ち度に気付きもしません。
ちゃんと望みを言葉にしなかった、自分たちが悪いというのに……
きっと両親や妹はこう考えていたのでしょう。
『エカテリーナの“全て”を奪えば、ベアトリーチェがベアトリーチェのままに、健康になり・知識を持ち・マナーを身に付け・分別が付き・好き嫌いもなくなり・我が儘が減り、“完璧な外見と知性を持った侯爵令嬢”になる』と。
きっとエカテリーナが消えようが消えまいが、この人たちにとってはどうでもいいことだったでしょうから、『ベアトリーチェが完璧になる』ことだけを考えていたのでしょう。
しかし、ならばこそ、願い事はちゃんと言葉にしなければいけませんでした。
『全てが欲しい』なんて言えば『こうなること』など、簡単に想像できたでしょうに……
そんなことすら想像もできなかった両親が、自分たちが願ったことに対して、今更ながらに悔やみ、嘆いています。
わたくしはそんな両親を見ていても、呆れの感情しか湧いてはきません。
自分の目が白けた視線になるのが分かったわたくしは、両親から視線を離して悪魔を見ました。そんなわたくしの視線に気付いた悪魔もわたくしを見ました。
可笑しそうに微笑んでいる悪魔にわたくしは一つの気になっていたことを聞きました。
「妹はどうなったのですか?」
おかしな言葉です。
『妹』は今はもう『わたくし』であり、今はもう『わたくし』は『妹』ですらありません。姉という存在が居なくなったのですから。
とてもややこしい状態ですが、姉の全て、を奪った今のわたくしは『魂すらも姉』となっています。記憶も全て引き継いでいるわたくしには『妹が居た記憶』もあるのです。わたくしにとっては『妹は“妹”』なのです。
ですから、『今は居なくなってしまった妹』のことを悪魔に問いました。
「ん? 彼女?
彼女は『君』になったんだ。だから『君が彼女』だよ」
「それは……」
謎掛けのようで混乱してきました。
それを悪魔も分かったのでしょう。楽しそうに笑って言葉を続けました。
「絵を想像してごらん? 絵画だよ。
真っ白な紙に人物が描かれていた。それが彼女だった。君はその上から描き足されたことになる。
絵の題名は『ベアトリーチェ』。最初の絵は彼女だったけれど、望まれて、君が上から描き足された。そんな感じかな?」
「では……」
悪魔の言葉を聞いて、ある可能性にわたくしは気付きました。
「そうだよ。上から描き足されただけだから、彼女の元は消えたわけじゃない」
悪魔が言った『元』という言葉が、わたくしには『魂』という言葉に聞こえました。
自然とわたくしの視線は自分の下腹部を見ていました。今はまだ、膨らむ予定すら無い、いつかは必ず“わたくしとは別の命を宿す”器官がある場所を……
そんなわたくしの耳に悪魔の言葉が届きます。
「消えた訳じゃないけど、器が君になっちゃったから。
新しい器ができたら、また生まれてくるんじゃない?」
可笑しそうにそう言った悪魔の言葉に、わたくしは何故だが安堵するかのような気持ちになって、目を閉じました。
──貴女は、わたくしの中に居るのね……──
◇ ◇ ◇
「君が望むなら消すこともできるよ、ソレ」
わたくしの胸元を指差してそう問うてくる悪魔にわたくしは目を開けてしっかりと目を合わせました。
「望みませんわ」
きっぱりとお断りすると悪魔はやっぱり笑いました。
「そう? でも気が変わったらいつでも言って。対価は“魂”だけど」
歌うように言う悪魔に、わたくしは少しだけ肩を落として呆れた表情をして見せました。
「わたくしは両親と違ってちゃんとこの国の神を信仰しておりますので。祈りは教会で行いますわ」
そう言うと悪魔は嬉しそうに目を細めて笑いました。
「いい心掛けだね。その方が良いよ。
その方が僕らも仕事が減って嬉しいし」
そんな不思議な答えにわたくしは首を傾げました。
しかし悪魔はこの会話はここで終わりだと言うようにわたくしから視線を離して、未だに蹲る両親へと視線を向けました。
「気づいてると思うけど、彼女のことを覚えているのは当事者だけだ。
だって当事者が今日のことを忘れたら僕がした仕事が無かったことにされかねないからね。
仕事の報酬はしっかり貰うよ。君たちが死んだ後にね。それまでは幸せな人生を謳歌すると良い。
でも世界からは彼女の記憶は消える。
この家に娘は一人しか生まれなかった。
“妹”という存在は存在せず、エカテリーナが生きた人生が『ベアトリーチェの人生』だったことになる。
おかしな部分は勝手に世界が修正や補正をしてくれるから気にしなくていい。
まぁ、ベアトリーチェはまともに外に出てなかったみたいだし、人とも殆ど会っていなかったみたいだから、大して困ることもないだろうね。
『エカテリーナ』の全てを奪った新しい『ベアトリーチェ』がこれからはこの家の一人娘として生きる。
あぁ、『新しいベアトリーチェ』はこの僕の仕事の結果だ。その『僕の仕事』にケチつけようとしても無駄だからね。『ベアトリーチェ』は『僕の仕事の結果』として『本来の寿命まで』生きてもらうよ。その間に事故死や自殺やましてや他殺なんかは出来ないからそのつもりで。
聞いてる? お母さま?
逆恨みなんかしちゃダメだからね?
これを望んだのは彼女なんだから。そしてそれを後押ししたのは他の誰でもない『貴女』なのだから。
では、素晴らしい仕事をして、人間の望みを完璧に叶えた悪魔は帰るとしよう!
あぁ!? 言い忘れていたよ!
悪魔召喚をしたんだから、知ってると思うけど、時々居るんだよね、『悪魔と契約した魂は悪魔に食われて“消える”』って思ってる人間。
それ、違うから?
悪魔と契約した魂は、その死後悪魔の住む世界で奴隷となり、その魂が擦り減り勝手に消滅するまで『終わらない苦痛の中で働き続ける』ことになるから。
魂が消滅して終わり、なんてないからね。
そのつもりで人生を楽しむんだよ。
君たちが休息を取れるのは生きてる内だけだから♪」
その悪魔の言葉を聞いて、
母は悲鳴を上げて失神した。
◇ ◇ ◇
「そんな……、そんなっ……っ!
そんなことがあるか……っ?!
死後に奴隷になるなどっ!?」
悲痛な声を上げて頭を抱える父が縋るものを求めるようにわたくしを見ました。
「っ!? あ、……エカ……、エ……、あ…………、ベアトリーチェ……
ベアトリーチェっ!! 助けてくれっ!! 父を! お前のお父様を助けてくれっ!?!」
床を四つん這いで近付いて来た父に恐怖を覚えました。後ずさるわたくしのドレスの裾を掴んだ父が絶望に染まった顔で見上げてきます。
「お前の為にっ、お前の為を思って命を捧げたが、死後に奴隷になるなど聞いていないっ?! そ、そんな死ぬよりも恐ろしいことは受け入れられないっ!! お、お前の所為だろう?! お前が我が儘を言うから悪魔になど願わなければいけなかったのだ!?! お前の願いなのだから、お前が命を差し出すべきじゃないのか!?!」
そんなことを喚く父に悪魔がしゃがみこんで顔を近付けました。
「ダメだよ、お父さま。
僕は彼女から『父と母の魂を差し出す』と言われて仕事をしたんだ。そしてそれをあなた達も喜んで賛同した。それを後から変更することはできませ〜ん。それは契約違反となります。
契約違反の場合、寿命を待たずに今すぐその命を貰うことになるけど、いいのかな?」
「ヒッ……!?」
しゃがんで父の顔を覗き込んでいる悪魔の表情はわたくしには見えません。ですが父の表情が恐怖に染まったことから怖い顔をしているのだろうと想像できました。
わたくしは自然と震えだした両手を胸元で握り締めて二人を見ます。
父は恐怖から傍目にも分かるほどに体をガタガタと震えさせていました。
「あ、あ……そんな……、
私はそんなつもりじゃ…………っ」
大粒の涙を流して泣き出した父が生気の無くなった目で天井を見上げて、ただ譫言のように聞き取れない言葉を呟き出しました。
わたくしはそんな父から数歩離れ、父から目を逸らしました。
エカテリーナの命をなんとも思わなかった両親に今更向ける情などありません。自業自得だとすら思います。
ですが、『心が壊れてしまった人』を見て笑うほどの心の強さをわたくしは持ってはいませんでした。
怖くて震える体を自然と自分自身で抱きしめました。
そんなわたくしに、立ち上がった悪魔が優しい笑みを向けてきます。
「安心するといい。
君は僕の『仕事の結果』だ。今後誰かが悪魔の契約に君の命を使おうとしてもできやしない。さっき言ったように君は本来の寿命、“エカテリーナだった時の寿命”まで生きることになる。魂そのものが奪われたのだからね。
フフ、面白い願い事だったよ。曖昧で大雑把で、何も考えていない願い事は叶えやすくて助かる。それに魂を2つもくれたしね。
君は……まぁ、今までと変わらない生活が待ってるだけだから、何も気にすることはないね。
ご両親には精々人生を楽しんで貰ってくれ。生前の人生が有意義であればあるほど、死後奴隷に落とされた時の絶望が色濃く鮮やかに育つから。
僕は『長く使える奴隷』よりも『短くとも有用な奴隷』の方が好きなんだ。
君の両親は後者だね。
死ぬのを楽しみにしているよ」
そう言ってニッコリ笑った悪魔は、「じゃあね」と手を振って消えました。
◇ ◇ ◇
悪魔が言っていた『有用な奴隷』の意味が気にはなりましたが、……きっと知って気持ちの良いものではないだろうと想像ができたので、わたくしは考えるのを止めました。
別邸の一室で、失神した母とおかしくなってしまった父とただ立ち尽くすわたくしが残されました。
少しの間、頭が固まってしまったかのように動けなかったわたくしは、軽く頭を振って気持ちを切り替えると、別邸の外に待機してもらっていた使用人たちを呼びました。
母を別邸にある母の部屋のベッドへ。
父を本邸に運んでもらい医師を呼んで貰いました。
両親が運ばれていく間に部屋を改めて見回したわたくしは、部屋の中から“悪魔を呼び出した禁書”が無くなっていることに気付きました。
そのことにホッとする気持ちと、盗み出したことがばれて侯爵家が咎められないかということが気になりました。
「ベアトリーチェ様」
「はい?」
不意に後ろから掛けられた声に、私は一瞬理解できずに変な返事をしてしまいました。
そのことにわたくしに声をかけてきた侍女の方も不思議そうな顔をしてわたくしを見てきます。
「? ベアトリーチェ様? どうかされましたか?」
そう問われて、改めてわたくしは自分が『ベアトリーチェになった』のだと自覚しました。
「……ごめんなさい。少しぼうっとしてしまったわ」
「……一体……何があったのですか?
旦那様や奥様に一体何が……」
「……わたくしも、分からないの。
一緒に居たはずなのに……一体何があったのかしら……」
困ったような顔をしてみせれば、侍女はわたくしを心配げに見つめてきてはサッとわたくしを外に促すように手を差し出して頭を少し下げました。
「お二人があんな風になってしまわれて、ベアトリーチェ様もお体に何があるか分かりません。本邸にお戻りになり、医師に見てもらいましょう。
……ここはどうも、空気が宜しくはありませんし……」
そう言って少しだけ眉間にシワを寄せて部屋を見渡す侍女にわたくしも同意しました。
「そうね……ここは好きじゃないわ……」
歩き出したわたくしの後ろを侍女が付いて来ます。父の姿を見ている侍女です。今後この家を指揮するのが誰か、もう分かっているのでしょう。
「……お茶が飲みたいわ」
別邸を出たところで自然とそんな言葉が口から漏れてしまっていました。今までならそれはただの独り言でしかありませんでした。
でも今は……
「直ぐに用意させましょう。
ベアトリーチェ様のお好きな甘さ控えめの焼き菓子もお付けして」
そんな言葉が後ろから返ってきます。
今までには無かった事です。
「……ありがとう」
侍女にそう伝えながら、本当に変わってしまったのだと、わたくしはじわりじわりと実感していくのでした。
◇ ◇ ◇
それから。
わたくしの生活は大して変わることはありませんでした。
いままで『エカテリーナ』でサインしていた物が全てわたくしの筆跡で『ベアトリーチェ』に変わっていたり、ベアトリーチェの持っていた物も全部わたくしの物ということになっていたのでその片付けが大変だったりはしましたが、『元のベアトリーチェ』が別邸から殆ど出ずに人付き合いも使用人くらいしか関わってはいなかった為に、本当に、わたくしの生活は、エカテリーナの時と大して変わらないものとなっていました。
名前を呼ばれることにも直ぐに馴染みました。
人が一人消えたというのに、ただ『一つの名前が消えた』だけのような変化に、わたくしは少し寂しさを覚えました。
それほどに……、
妹は社会との関わりが無かったのです。
両親の愛情を独り占めしていた妹は、全てを持っていたかのように振る舞ってはいましたが、その実、お城の中に閉じ込められた籠の鳥でしかなかったのです。
だから姉が羨ましかったのでしょう……
愛情をくれるのは『両親』だけではないのだと、知っていた姉を……
そして、妹をそんな風に育て上げた両親は、記憶は全て残っているというのに、今はもう妹のことよりも自分のことばかりが頭を埋め尽くしていて、もう妹のことなど気にしてはいないようでした。
◇ ◇ ◇
妹の為に建てられていたお城のような別邸は、母が趣味で建てたことになっていました。
そして母はそのお城の中に閉じ籠もって出て来ない『変わり者の侯爵夫人』として社交界では有名となっていました。
妹がいた時から、母から離れることを嫌がった妹の為に、母はあまり社交をしていなかったのも影響しているのでしょう。
妹が居た時は、母に構われなくて可哀想だと嫌味を言われていたわたくしでしたが、『妹という存在自体が無くなってしまった』今では、おかしな母親を持ってしまって可哀想だと逆に心配される立場となっていました。
そして、『元々おかしかった母親』と、『最近おかしくなってしまった父親』を持つわたくしを『他の大人たち』は心配して声を掛けてくれるようになりました。
父は侯爵家当主というプライドだけで仕事を熟していましたが、生気の戻らない顔では周りは直ぐに異変に気付きます。そしてそんな父が、『急いで一人娘に家督を譲るべく動いている』ともなると、周りの心配は当然でした。
わたくしは妹が居た時にはあまり関わることのなかった親族たちの手を借りて、急いで侯爵家当主としての心得や仕事の仕方を覚えていきました。
その流れの中で自然とわたくしの婚約者も決まりました。
遠縁の子爵家の三男。年が一つ上の笑顔が素敵な逞しい男性でした。
「俺、あ、いや……、私なんぞがベアトリーチェ様の伴侶に選ばれるなんて未だに実感がありませんが、選ばれたからには私の全てを懸けて貴女様を支え、守ることを誓いましょう!
どうぞこれから、宜しくお願いします!!」
声の大きさに驚き、そしてそんな彼の後ろでまだ婚約が決まっただけだというのに大泣きして手を叩いて喜んでいる彼の母親を見て、わたくしはなんだか心が温かくなるのが分かりました。
「こちらこそ……よろしくお願いします」
そう言って手を差し出したわたくしの手を取った彼の手の大きさと温かさに、またわたくしは心がふわふわとする不思議な感覚を感じるのでした。
◇ ◇ ◇
父はわたくしに家督を押し付けるように継がせると母と一緒に別邸に閉じこもるようになりました。
そんな両親を心配したわたくしは二人に伝えました。
「生きている内に楽しまないと後で大変ですよ?」
と、本当に心配して声を掛けたのですが、母と父は一層蒼ざめた顔をして泣き出してしまいました。
そうしてわたくしや使用人たちのことを振り切って、二人で教会へと信徒として入ってしまわれました。
悪魔に頼った後で神に頼ったとして、神様は振り向いて下さるのでしょうか?
そんなことよりも、残りの人生を死後のことは忘れて遊び歩き楽しんだ方が良いと思うのですが、両親はお金を出すと言うわたくしの言葉を振り切って、教会での祈りの人生を選ばれてしまいました。
仕方なくわたくしは教会に多額の寄付をして両親を頼みました。
「神様が寛容であれば良いですね」
そう独り言ちたわたくしの頭に、
──だったら悪魔は生まれないって〜──
という言葉が響いた気がしましたが、……きっと気の所為ですわね……
それから……
わたくしは驚くほどに平凡で、平穏な時間を送ることができました。
わたくしの周りには信頼できる使用人と愛する夫、そしてその夫の両親でありわたくしの義両親である、優しくてお人好しな家族が居ました。
お人好しなのに駄目なことは駄目だと泣いて怒ったりするお義母様に、わたくしは『理想の母』を見た気がしました。
そんなわたくしのお腹の中で新しい命が元気に動きます。
その温かさを撫でながらわたくしは夫に言いました。
「この子は女の子なの」
「え? 分かるのかい?」
驚く夫にわたくしは笑いました。
「えぇ、そうよ。わたくしには分かるの。
……ねぇ? この子の名前、わたくしが付けてもいいかしら?」
突然そんなことを言い出したわたくしに、夫は少しだけ目を開いて驚いた顔をした後、柔らかく笑ってわたくしの頬を撫でてくれました。
「ベアトリーチェがいいのならいいよ。
なんて付けたいんだ?」
そう問われてわたくしは幸せの中で笑いました。
「この子の名前は、“エカテリーナ”。
わたくしはこの子を、他人を思いやれる、好き嫌いなく何でも食べる子に育てるの」
そんな事を言ったわたくしに夫は笑いました。
「俺の血を引いちゃってるからな。
きっと大食いな令嬢に育っちゃうなぁ!」
そう言ってワハハと笑う夫に釣られてわたくしも笑いました。
──ねぇ、エカテリーナ
早く貴女に会いたいわ
わたくしは貴女にたくさんの世界を見せたいの……
この広い世界で、貴女にたくさんの好きなことと嫌いなことを知ってもらいたいの……
ねぇ、エカテリーナ
今度はちゃんと愛して上げるからね……──
[完]